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日蓮大聖人・池田大作

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余暇時代をどう生きるか  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  社会との絆をつくる余暇を
 それはともかく、私は別に「楽しみ」という要素を余暇から除くべきだなどというつもりは絶対にない。仏法にも「衆生所遊楽」と説かれているが、楽しみは、人生の目的である幸福の重大な要素であるからだ。むしろ私が言いたいのは、余暇を自分個人のためのものにするか、社会との関連を新たに考えだすためのものにするかという点である。それは、人間としての生きがいをどこに見いだすか、幸福をどう考えるかと言い換えてもよいだろう。 幸福とは──一言でいえば、生命の充実感であると私は思う。余暇が自分一個人のたんなる“遊び”で終わってしまうならば、あとに残るのは、やりきれない空虚さと倦怠感だけであろう。週末や連休を盛り場などで遊びすごした帰りなど、誰もが、一度や二度は味わった経験があるにちがいない。
 余暇を社会と関連づけて使うとは、ある場合には読書でもよい。新聞や雑誌を開くようにするのもよい。テレビでも、ニュースや解説番組にチャンネルを合わせるようにすべきだろう。知識を広めるために、講演会などに参加するのも有意義だ。とくに女性の場合には、社会的意識が日常化されている男性とは違い、とかく対社会的には閉鎖的になりがちであるから、つとめて社会的関心をもつように心がけるべきである。それは些細なことであるかもしれない。また短期間のうちに目に見えて変化が現れるものではない。しかし、その些細なことが積み重ねられるとき、社会の一員としての自己の存在を発見し、そうしたことが、じつは来るべき時代のしっかりした基盤を築いていることに気づくにちがいない。自己と社会との絆をつくること、そこに人間としての生きがいも、生命の充実感もあるのではないかと思うのである。
 人間は一見エゴイストのようにみえる。自分だけよければよいという風潮が支配的なのは事実である。しかし私は、そこには真実の幸福はないように思えてならない。早い話が、自分はいくらよくても、家族の誰かが悩み苦しんでいれば、全体的に幸福感にひたれるものではない。できることなら、その悩み苦しみを自分が代わって背負ってやりたいと、とくに女性であれば、思うことであろう。反対に家族の喜びは自分の喜びともなるはずだ。
 これを一歩枠を超え、社会に広げてみればどうだろう。世にはさまざまな出来事が日々生起している。明るい出来事や暗い出来事、外交問題から物価、公害、交通事故といった問題まで、私たちを取り巻く社会は刻一刻流動し、移り変わっていく。それらはあるいは自分から遠いものもあり、自分の力ではどうすることもできないものもあるかもしれない。しかし、それらに関心を寄せ、知ることだけでも、以前とは違った感覚で日々を送ることができるのではないだろうか。その第一歩からまず始めてはどうかと思うのである。
 全女性が社会に関心をもつならば、為政者といえども、そう簡単には庶民を足蹴にすることはできなくなってくる。戦争と平和の問題も、その解決はかなり早まることだろう。一人ひとりにとってみれば、小さなことであっても、女性のそうした意識の目覚めが結集されて、やがては時代の転換をもうながすことを私は確信するのである。
 余暇のないとき、つまり自分に余裕がないときは、人は他人のことにはかまっておれないものである。そうした社会には、人間性の潤いなどありえないことは当然だ。しかし余暇ができれば、他人のこと、社会のことにも目を開くことができるし、未来にも目を向けることができるはずである。そこにこそ、人間は人間らしい生き方ができ、人間性あふれる、みずみずしい社会が実現されると私は思うのだ。
 余暇時代の主役は、より自由な時間の多い女性である。どうにでも使える余暇を賢明に使い、人間性の大地に根ざした精神文明の花を、女性の手で見事に開かせていただきたいことを願ってやまない。

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