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日蓮大聖人・池田大作

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余暇時代をどう生きるか  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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1  精神的欲求の解放の時代
 ハーマン・カーン氏とアンソニー・J・ウィーナー氏は、その著『紀元二〇〇〇年』(井上勇訳、時事通信社)のなかで、新しい時代のビジネスマンは、一年のうち二百十八日はレジャーとして過ごすことになるだろうと言っている。
 第一回国際未来学会議に出席したオランダのフレデリック・ポラック氏によれば「人間が平均百歳まで生きることになるとすれば、八十七万六千時間をすごすわけで、そのうち働く時間が四万時間とすると、残りの九五パーセント以上がレジャー・タイムになる」という。
 それで機械文明は想像を絶するほど発達するだろうから、労働といっても、ほとんど機械がやってしまう。そうなると、もっと働く時間が欲しいという人が続出し、暇をもてあます人をどう“救済”するかということが、重大な社会問題になってくるとも予想されている。
 現在の段階では、そうした話は夢物語のように思われるかもしれない。労働時間はまだまだ長いし、もっと働く時間が欲しいなどとは、誰も思わないであろう。余暇をもてあまして、何をしてよいかわからないという人はおそらくいまい。しかし、未来学者が予測するような状態までは進んでいかなくとも、そうした時代が到来する兆しはある。
 一昔前に比べれば、たしかに労働時間は短くなったし、週休二日制をとる企業も現れている。家庭における電化製品の普及は、女性を家事という重労働から、かなりの程度まで解放してきた。機械文明の発展、産業の高度化にともなって、そうした傾向が今後さらに加速度的に進むことはまちがいあるまい。ゆえに余暇にどう対処していくかは、これからの時代に生きるものにとってきわめて重要な問題になっていくものと私は思うのである。
 では現実の問題として、生まれつつある余暇に、多くの女性はどう対処しているのであろうか。ごく平均的にいって、主婦ならばテレビ、OLならば映画やボウリングなどの娯楽というのが現状ではあるまいか。私はそれを、なにも悪いというつもりは決してない。むしろ、これまで女性のおかれてきた地位から考えて、当然のことと思う。今まではあまりにも余暇がなさすぎた。女性は家庭にいることが当然とされ、炊事、洗濯、裁縫、育児等々、文字どおり朝から晩まで働かなければならなかった。余暇があれば休養にあてるのが精いっぱいで、娯楽など思いもよらぬことだったろう。それが、戦後の女性の地位向上と、急速な技術革新による経済の発展によって、自分のものとして自由に使える時間ができたのだから、それまで鬱積していたものが、反動として一挙に噴き出したのも無理からぬことと思うのである。
 だが、こうした娯楽主体の余暇の利用に対して、一方ではそのままリアクション(反動)ともいえる利用の仕方も現れてきているようである。健康増進をかねてバレーボールなどのスポーツも主婦の間で行われているし、趣味と実益をかねた稽古事も、なかなか盛んに行われているようである。ちょうど時計の振り子のように揺れうごく余暇への対処法、試行錯誤を経て、そうした振幅のなかに、人びとはあるべき方向を見いだそうとしているようだ。
 しかしながら、これだけははっきりといえよう。そうした模索の根底にあるものは、ある程度まで充実した物質的な豊かさのうえに立っての精神的欲求であり、ひいては、人間の幸福とは何かという根源的な命題の探求にほかならないということである。
 戦後まもなく法のうえの男女平等が認められたことによって、女性の政治的な解放はなされた。また、日本経済の驚異的な復興と発展によって、生活はだいたいにおいて安定してきた。なお経済的な解放も一応のレベルに達したといってよいだろう。残るのは、内面的な、人間としての本源的な解放である。余暇時代にどう対処するかとは、じつはその内面的な解放を、どう成し遂げるかということではあるまいか。
 考えてみれば、政治的解放も、経済的解放も、女性自身の力で勝ち取ったものではない。といって、言いすぎならば、少なくともそれは、他からもたらされたものであった。しかし、残された内面的解放は、自らの手で成し遂げる以外にはない。余暇にどう対処するかは、自分自身で思索し、行動する以外ないであろう。私はここに、これからの時代は女性が強い主体性をもち、自らの道は自らの力で切り開く革新の気概で進むべきであると申し上げたい。
 さらに一歩を進めて論ずれば、現在享受している余暇というものは、過去の文化の果実にほかならない。技術革新が進むと生産力が増大する。その結果として余暇が生まれる。さらに精神文化の開花をみる。次に精神文化がバネとなって新しい技術革新を生む──それが人類史の歩みであった。そうした文明的視野に立てば、過去の果実をいたずらに浪費するだけであってはならないと思うのである。そこからは決して新しい創造は生まれまい。余暇をどう次の創造に役立たせ、次代の松明に点火するか、それが現代に生きる私たちに課せられた人類的な課題であると言っておきたい。
2  社会との絆をつくる余暇を
 それはともかく、私は別に「楽しみ」という要素を余暇から除くべきだなどというつもりは絶対にない。仏法にも「衆生所遊楽」と説かれているが、楽しみは、人生の目的である幸福の重大な要素であるからだ。むしろ私が言いたいのは、余暇を自分個人のためのものにするか、社会との関連を新たに考えだすためのものにするかという点である。それは、人間としての生きがいをどこに見いだすか、幸福をどう考えるかと言い換えてもよいだろう。 幸福とは──一言でいえば、生命の充実感であると私は思う。余暇が自分一個人のたんなる“遊び”で終わってしまうならば、あとに残るのは、やりきれない空虚さと倦怠感だけであろう。週末や連休を盛り場などで遊びすごした帰りなど、誰もが、一度や二度は味わった経験があるにちがいない。
 余暇を社会と関連づけて使うとは、ある場合には読書でもよい。新聞や雑誌を開くようにするのもよい。テレビでも、ニュースや解説番組にチャンネルを合わせるようにすべきだろう。知識を広めるために、講演会などに参加するのも有意義だ。とくに女性の場合には、社会的意識が日常化されている男性とは違い、とかく対社会的には閉鎖的になりがちであるから、つとめて社会的関心をもつように心がけるべきである。それは些細なことであるかもしれない。また短期間のうちに目に見えて変化が現れるものではない。しかし、その些細なことが積み重ねられるとき、社会の一員としての自己の存在を発見し、そうしたことが、じつは来るべき時代のしっかりした基盤を築いていることに気づくにちがいない。自己と社会との絆をつくること、そこに人間としての生きがいも、生命の充実感もあるのではないかと思うのである。
 人間は一見エゴイストのようにみえる。自分だけよければよいという風潮が支配的なのは事実である。しかし私は、そこには真実の幸福はないように思えてならない。早い話が、自分はいくらよくても、家族の誰かが悩み苦しんでいれば、全体的に幸福感にひたれるものではない。できることなら、その悩み苦しみを自分が代わって背負ってやりたいと、とくに女性であれば、思うことであろう。反対に家族の喜びは自分の喜びともなるはずだ。
 これを一歩枠を超え、社会に広げてみればどうだろう。世にはさまざまな出来事が日々生起している。明るい出来事や暗い出来事、外交問題から物価、公害、交通事故といった問題まで、私たちを取り巻く社会は刻一刻流動し、移り変わっていく。それらはあるいは自分から遠いものもあり、自分の力ではどうすることもできないものもあるかもしれない。しかし、それらに関心を寄せ、知ることだけでも、以前とは違った感覚で日々を送ることができるのではないだろうか。その第一歩からまず始めてはどうかと思うのである。
 全女性が社会に関心をもつならば、為政者といえども、そう簡単には庶民を足蹴にすることはできなくなってくる。戦争と平和の問題も、その解決はかなり早まることだろう。一人ひとりにとってみれば、小さなことであっても、女性のそうした意識の目覚めが結集されて、やがては時代の転換をもうながすことを私は確信するのである。
 余暇のないとき、つまり自分に余裕がないときは、人は他人のことにはかまっておれないものである。そうした社会には、人間性の潤いなどありえないことは当然だ。しかし余暇ができれば、他人のこと、社会のことにも目を開くことができるし、未来にも目を向けることができるはずである。そこにこそ、人間は人間らしい生き方ができ、人間性あふれる、みずみずしい社会が実現されると私は思うのだ。
 余暇時代の主役は、より自由な時間の多い女性である。どうにでも使える余暇を賢明に使い、人間性の大地に根ざした精神文明の花を、女性の手で見事に開かせていただきたいことを願ってやまない。

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