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日蓮大聖人・池田大作

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新しい父親のあり方  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  なぜ父親の“権威”は失墜したのか
 家庭における父親の立場は、母親のそれに比べて、もともと弱いものである。
 これは、その昔のように、家庭がそのまま“職場”であった時代とちがうから、さらに現代においては当然のことといわなければならない。
 父親が、家族に対して、あらゆる面にわたる権限をもつことができるのは、家庭がすなわち“職場”でもあるようなケースに限られる。
 よく“父親の権威”が失墜したといわれるが、それを「男の意気地なさ」などといった原因に帰するというのでは、あまりにも片手落ちだと私は思う。
 日本の社会は、とくに昭和三十年代より、その経済成長とあいまって、急激な変動を遂げてきた。いうなれば、経済の高度成長は、古くからの家族制度の崩壊という代償によって、勝ち取られたともいえるだろう。
 この“古い家族制度”とは、農家や商家や、あるいは家内工業などに典型的にみられる、職場の顔をあわせもった家庭である。父親は、この“職場”の長であるから、強い権限をもつことができた。ともにそれだけ、大きい責任を負っていたことも、もとよりである。それはともかく“父親の権威”とは、そうした家族制度を基盤にしてできあがっていたのであるから、土台が崩れれば、その上に立つ“父親の権威”も失墜するのは、当たり前のことではないだろうか。
 家族制度の、この崩壊の過程については、私は経済学者でもないし、社会学者でもないから、細かい、厳密な分析はできない。ただ、誰にでもわかる現象をあげると、まず子供たちが、有利な条件にひかれて都会に出て、大企業に就職していく。父親たちも、現金収入を増やすために、農業は老人や妻にまかせて、外へ稼ぎに出るようになった。商家は、デパートやスーパーマーケットに押され、家内工業は大企業のもとに飲み込まれていったといえまいか──。
 このような経済成長期に入る以前から、父親の権威を失墜させざるをえない事態は、都会のサラリーマン家庭などでは起こっていた。それが、ここ十年ほどになって、急に目につき、論議されるようになったのは、旧来の安定勢力までも崩れ、あらゆる職業の、あらゆる階層の人びとが、この変革の渦に巻き込まれるようになってしまったからであろう。
 繰り返すようだが、父親の権威の失墜を男の骨っぽさとか、意気地だとか、そのような次元でいくら議論しても、私はラチのあく問題ではないと思っている。男をそのように変えた、客観情勢、社会的条件の変動を考慮に入れなければ、いってみれば“ないものネダリ”に終わってしまう。
 また、男性として、父親として、では、どうあるべきかといっても、実現不可能な理想論の羅列にすぎなくなってしまうであろう。
 少し言いわけがましく聞こえるかもしれないが、私自身も、男であり、父親である。俗な言い方をすれば、自分で自分を俎板にのせて料理しようというのと同じだから、多少は、やむをえぬことと、御容赦願いたい。
2  虹を追う精神の自由と闊達さを……
 そこで、では、こうした事情を考慮に入れたうえで、父親とは、どうあるべきものなのだろうか。この稿のテーマにもあるように、「新しいあり方」といえるかどうかは別にして、私なりに考えることを述べさせていただきたい。
 一つは、父親とは、家庭を経済的に養うだけの存在であってはならない、ということである。昔から、わが国には“髪結いの亭主”というのがあった。女房に働かせ、自分は左うちわで暮らしている、楽な身分という、なかば羨望、なかばばかにしたニュアンスがこめられている呼び名だが──そういう場合でも、家庭のなかでは、けっこう頼りにされていたというのだ。
 動物学者の話によると、百獣の王といわれるライオンが、この“髪結いの亭主”に似ているそうである。極端な例をあげたが、汗水ながして働いても、生活はやっとで、家を建てることもできない、現代日本の平均的男性にとって、これは、決して他人事ではないからである。まして、将来、女性の社会的地位が向上すれば、この問題は、もっと切実になることが予想されよう。
 月給を帰る途中で飲んでしまったとか、遊びに使いはたしたなどという、心にやましいことがないかぎり、持って帰るサラリーが少なかろうが、共働きの女房の収入のほうが多かろうが、男は、父親たるものは、決して小さくなる必要はない。いや、小さくなるべきではない、と言いたいのである。そういう毅然とした男の存在は、それ自体、妻にとっても、子供にとっても、かぎりなく頼もしいものなのである。
 父親というものは、心理的、精神的にも一家を養う存在でなければならない。だからといって、特別にかまえる必要は、もとよりない。毅然としていること自体が、十分に頼もしいように、現実社会のなかに、懸命に生き、働いているその真摯な姿勢は、つくろわずして、家族に対する豊かな精神的栄養となると思うからだ。
 さらにいえば、読書なども、仕事上の専門の本ばかりでなく、人間としての豊かさを与えてくれる書に親しむことが大切であろう。一般に、とくに男性は、中年以上になると、ほとんど文学書を読まなくなるといわれる。たしかにフィクションの世界は、現実主義者にとって関心がもてなくなるのは道理ではある。しかし、そうした現実主義こそ、精神の老化と枯渇の兆候であり、希望も味気もない人間になりつつある証拠であることに気づくべきであろう。
 男のもつ、魅力の一つは、現実をふまえながらも、現実だけに終わらない、一種の理想主義、ある意味では架空の世界へさえ飛びだそうとする、虹を追う精神の自由と闊達さにあるといっては言いすぎだろうか。
 青少年の不良化に関連して、必ず出てくる問題に、父親と子供との心の対話の欠如がある。仕事の鬼となっている親、夢も希望もなく、現実のなかにのめりこんでいる父親に対して、子供は語りかけたくても、そのきっかけがなく、入っていけるゆとりがないのであろう。父親が、心ひろびろとゆとりをもち、また、そのようなゆとりの領域を広げていれば、それが自然に対話の共通の広場になっていくにちがいない。
3  毅然たる態度と一切を包容する広さ
 ともあれ、外に出て働いている父親は、そこでの苦労を妻や子供に、十分には知ってもらえないのが普通である。その労働の報酬である収入も、家族にとっては、それが当たり前のようになって、そのために父親を尊敬するとか、大事にするとかということは、滅多にない。
 「母の日」は覚えてくれているが、「父の日」は、およそ無視されるのが常である。
 人間は、経済的恩恵に対しては、やがて慣れっこになり、感謝の気持ちなど忘れてしまうものだ。むしろ、その少ないことに不満を鳴らすようにさえなる。厄介といえば、人間ぐらい厄介な動物はなかろう。しかし、精神的恩恵、精神的な豊かさを与えてくれるものに対しては、いつまでも感謝の気持ちを失わないし、敬意を払うものである。父親の“権威”というものがあるとすれば、私は、この精神的な面にこそ求められるべきだと考えたい。
 父親は、家庭の細かいことや、子供に対して、うるさい存在であってはならない。毅然として男らしく、ある意味では超然としているべきだと私は思う。母親は躾に厳しく、教育等にも、ある程度は口うるさい存在であってよいが……父親は、悠然としていて一切を包容していくような広さをもたねばならないと考える。
 しかし、人間としての生き方の根本にかかわるような問題については、厳然と子供を諭し、引っ張っていく決意が、また必要であろう。何が人間として大事なことか、何が人生において基本的なことか、そうした物の見方や考え方を教え、それに対する処し方を躾けていくのは、まず父親でなくてはならない。このような賢明さ、当を得た躾というものは、子供の人生にとって、かけがえのない宝となり、父親に対する尊敬の念は、生涯にわたって、消えぬものとなるにちがいない。

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