Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

家庭革命をめざして  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
4  家庭の建設
 家庭生活の要諦は、中流家庭を目標にした生活設計を、常に考えることにあるようである。どれほど社会的に高い地位につき、財力に恵まれたとしても、上流の豪華な生活をすることは慎むべきである。子供が自分の力以外の親の社会的地位や財力の光で、甘やかされて成長することは怖いことだ。子供の将来にとってこれほどの百害はない。また、逆に不運に見舞われて、零落することがあっても、中流家庭の襟度というものは守りたいものである。中流家庭の生活様式といっても、経済的条件その他で標準は定めにくいが、要は両親の家庭生活に対する、根本的な心がけいかんが、大きく子供に反映するにちがいない。
 子供たちは、よく友だちの家へ遊びにいくが、親は子供の口をとおしてしか、その家を知らないでいる。そして、その友だちを自分の家に招こうともしない。この無関心は、放任に通ずる。一度は親同士も知り合い、互いに子供たちの成長の場を知るように努力すべきではないか。
 また、他家の子供たちを招く場合、中流、上流の差別感を遊び相手にいだかせてはならない。子供の交友はこの差別感のないところに始まっているのが尊いのだ。家が狭いというので、外へ追い出す親は、無責任というより、自らの家庭生活を破壊しているといってよい。
 家庭に客を迎えることを嫌う人がいる。これは社会的孤立を、知らずに招く寂しい家庭にしてしまう。たしかに客を招くことは、面倒くさいことであるが、誰がこようと、明るく応対できる家庭は、それだけで温かくまた社会との生きいきとした流通の雰囲気をもっている。これが、もし虚礼のためや実益をねらう社交のためであったとしたら、せっかくの幸福な雰囲気は虚栄のなかに死んでしまうだろうが……。
 一家和楽の団欒を、そのまま外からきた客人にも分かつことができれば、理想的な家庭である。一家のなかだけに和楽があるのではなく、このような家庭をとおして家庭即社会という新しい時代の家庭の理想像が、そこに胚胎しているからだ。
 家庭が常に明るく健康であるためには、撓まざる価値創造が必要と思う。というとすぐ文化生活を思い浮かべる人がいるが、電化製品の羅列や、隣家と流行を競いあうことにあるのではない。一枚のレコードが、家庭を楽しい音楽会場にもするし、子供の描いた一枚の絵が、家庭を美しい展覧会場にもするのである。安直なテレビ文化に流されて、家庭生活が十年一日のごとく、マンネリズムに陥っているとしたら、それはただ非文化的な家庭といわなくてはなるまい。家庭の不如意な貧しさを、すべて経済的理由に押しつけて、暗鬱な顔をしているのは、現代人の精神の衰弱さを物語るものである。価値創造のない家庭ほど侘しいものもないのである。
 家庭はつくられたものではない。つくるものである。建設すべきものである。自分たちの心の貧しさに気づかず、不如意の家庭生活の責任をいたずらに社会に転嫁することは、まことに空虚な叫びである。夜店で買った一鉢の花が、一鉢の金魚が、一家の愛情を育てる場合だってあるのである。家庭をたんなる塒と心得、建設的な意欲を失った人びとは、人生の侘しさを酒と遊びにまぎらわすことしか知らないのだ。
 建設には努力と勇気が必要である。ここに未来の希望も湧くであろうし、一家の和楽と団結も生まれ、明るい家庭の建設は、即健全な社会の成立の根本条件である。
 過去の歴史において、幾多の社会的変革が行われてきたが、そのつど、家庭は顧みられず、むしろ犠牲となって、受難と悲惨とを受けたのは家庭であった。今日でも、政治的解決を必要とする家庭問題は山積している。しかし、それはほとんど放置されている現状といってよい。現在の腐敗した政治家に、これを期待したところで、百年河清を俟つに等しいことだ。
 迂遠な道に思うかもしれないが、しょせんは、身近な一軒一軒の家庭革命こそ、すべての基盤にほかならない。やがて、日本中に、こうした自覚をもった明るい家庭が建設されたとき、それは新しい時代を築いたということになるのだ。これこそ道理にかなった理想社会への改革であることを、私は確信している。

1
4