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日蓮大聖人・池田大作

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家庭革命をめざして  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  働く主婦
 日本の一千六百万人という主婦人口のうち、九百万人が共働きをしていると聞けば、この数字に驚くのは私一人ではあるまい。おまけに世界の女子就業率からみると、日本はアメリカについで第二位となっている。内職で働いている主婦を加えると、家庭の雑事にだけ閉じこもっていられる主婦の数は、ほんの一握りの人たちということになろう。今の主婦は、ほとんどが、なんらかの社会的職業に関係して働いているというのが、偽らざる実態である。
 実際、農村へ行ってみれば、田畠で働く人たちの主力も主婦であり、また街の商店街で見かける店のおかみさんたち、町工場で工員と一緒になって油にまみれて働いているのも主婦たちである。
 家庭をそのまま職場として働いている場合と、家庭から出勤して外で時間の制約のもとに働く場合との相違はあるとしても、主婦が家庭外で働くのを職業婦人とし、家庭の職場で働くのを職業としてみない世間のこれまでの通念は、不合理といわなければならない。労働によって社会に奉仕していることは、まさに同等であるからだ。
 農家にしても、自家営業の商店にしても、そこで働く主婦は、たんなる手伝いではなく、実際は主要な労働力の担い手である。したがって、職業人として意識されるのが当然であり、この明確な認識のうえに、社会人としての生活と家庭生活とを考えるならば、そこにおのずから中小企業の家庭観というものが、今までの曖昧さを消して、健全な明るい家庭生活へと変わるのではないだろうか。
 両親が共働きで、社会で活動する場合、その影響をいちばん受けるのは、子供たちであり、また子供の面倒をみられないと嘆く妻であると思われているが、これは家庭が城だと思うこれまでの考え方に、かなりその原因があるように私には思えるのである。共働きの家が一種の劣等感をもつのも、古い考え方が尾をひいているからだ。共働きでさまざまな不都合がおきるという。たとえば鍵っ子の問題にしろ、悪いのは共働きではなくて、両親が社会で安心して働けない施設の不備が悪いのである。時代が悪いのではない。時代を認識し、それに相応しい社会設備のないことが悪いのだ。社会全体の問題であり、大衆福祉の政治力の必要を痛感するのは、私一人ではあるまい。
 子供は親たちよりも時代に敏感である。共働きの両親が劣等感をいだいたとしても、子供は決してそんな劣等感をいだいていない。むしろ社会で立派に活躍する両親を、誇りに思い、自分たちもやがて社会に貢献することを、いつか自覚するのである。このような家庭の子供に学校から帰って夕方までの時間、寂しい思いをさせるのは、今日の社会の責任である。十分な施設と機関とを設けることを提唱したい。
 今日のさまざまな家庭問題は、主婦が家庭に閉じこもり、育児に専念できることを理想とし、また美徳と考えたがる時代遅れの退嬰的な考え方に原因があるように思う。昔なら知らず、今の時代に家庭にだけ閉じこもっていたとすると、変貌の激しい現代では人間としての成長はまったくなくなり、社会でも家庭のなかでも置きざりにされて、その主婦の人生は不幸に彩られていくだろう。主人に相手にされず、子供たちにもばかにされて、身の置きどころもない母親というものができあがるのだ。
 職業にかぎらない、婦人はすすんで社会に役立つ運動に参加し、社会的な連帯を常にもち、人間的な成長を心がけなくてはならない。そういう時代になってしまっているのである。婦人もまさに社会の必要な構成員であるからである。
3  子供の人格
 農村の人口も都市に集中し、昔からの家長を中心とする大家族制度は、都会はもちろん、今日、飛騨の高山へ行ってもみられなくなった。戦後の急速な家族制度の崩壊は、見事というよりほかはない。しかし、どんなに変貌したとしても、夫婦と子供という家族の最小単位は残る。この最小単位のなかで、今、最も問題なのは、むしろ子供の問題ではないかと思うので、以下それを考えてみたい。
 まず第一に、両親は子供の奴隷となっては相ならぬということである。欧米では、家庭の中心は夫婦であって、子供は従であることが一般の慣行になっている。ところが、日本の場合は、これが逆で、極端に子供を甘やかし、子供を一家の暴君とする風潮が強い。大家族制度は崩壊したのに、かつてそれを維持するに必要であった風習が名残となっているのだろうか。家名を重んじ、家系の維持のために、とくに男の子は、主人につぐ家族上の地位を与えられていた。またそのような子を楯として、母親が一家の実権を握っていたこともあった。この伝統はなかなか抜きがたく、大衆の面前で、子供がグズリだすと、母親は世間体をはばかって、すぐ妥協して子供の言いなりになるのである。
 まことに日本は一面、子供天国である。昔の諺に「泣く子と地頭には勝てない」というのがあるが、幼い時からゴネ得を教えるようなもので、このような子供が将来立派な社会人になるとも思えない。「内弁慶」で家庭にあっては横暴をきわめるくせに、社会では猫のような人間をつくってしまうだろう。では、親と子供は、現代にあってはどうあるべきか──となるが、親は子供のよき友だちであれかしと私は希う。子供に愛情をもたぬ親はないが、もう一つ、友情をもてと言いたいのだ。友情をもつと言うのは、子供を一つの人格として尊敬することである。わが子を尊敬するなどできないことだと言うかもしれないが、では、そういう親はよくこんなことを言っているではないか。「子供だ、子供だと思っていたら、どうして。こんなことを言うのですよ」。
 ニコニコ笑いながら、子供の意外な成長と怜悧さを喜び、自慢げにいうのは、つまり人格をいやでも認めたことにほかならないのではなかろうか。これに気づかない親こそ、親バカである。
 子供が友だちには何でも話すが、親には話さないというのは、親が子供の人格を認めないからだ。人格を認めないところに、信頼による友情が成立するわけがない。
 人格を認められた子供は、いやでも家庭において自主性をもつようになるだろう。そこには親の子供に対するエゴイズムもなくなるはずである。財産や家業を無理にも継がせようとして、子供を犠牲にするようなことも起きない。子供は自分の自由な選択によって、親の意見は一つのアドバイスとして、将来を定めるにちがいない。その選択が親の仕事の相続となれば、これは結構なことだ。ある指導的な立場にある人がこう言ったことがある。「たとえ、自分の後を継がせるにしても、しっかりした番頭に子供の指導をまかせるべきである」。
 力のない子供に重荷を負わせることほど、可哀相なことはない。また、その下に働く人も不幸といわなければならない。
4  家庭の建設
 家庭生活の要諦は、中流家庭を目標にした生活設計を、常に考えることにあるようである。どれほど社会的に高い地位につき、財力に恵まれたとしても、上流の豪華な生活をすることは慎むべきである。子供が自分の力以外の親の社会的地位や財力の光で、甘やかされて成長することは怖いことだ。子供の将来にとってこれほどの百害はない。また、逆に不運に見舞われて、零落することがあっても、中流家庭の襟度というものは守りたいものである。中流家庭の生活様式といっても、経済的条件その他で標準は定めにくいが、要は両親の家庭生活に対する、根本的な心がけいかんが、大きく子供に反映するにちがいない。
 子供たちは、よく友だちの家へ遊びにいくが、親は子供の口をとおしてしか、その家を知らないでいる。そして、その友だちを自分の家に招こうともしない。この無関心は、放任に通ずる。一度は親同士も知り合い、互いに子供たちの成長の場を知るように努力すべきではないか。
 また、他家の子供たちを招く場合、中流、上流の差別感を遊び相手にいだかせてはならない。子供の交友はこの差別感のないところに始まっているのが尊いのだ。家が狭いというので、外へ追い出す親は、無責任というより、自らの家庭生活を破壊しているといってよい。
 家庭に客を迎えることを嫌う人がいる。これは社会的孤立を、知らずに招く寂しい家庭にしてしまう。たしかに客を招くことは、面倒くさいことであるが、誰がこようと、明るく応対できる家庭は、それだけで温かくまた社会との生きいきとした流通の雰囲気をもっている。これが、もし虚礼のためや実益をねらう社交のためであったとしたら、せっかくの幸福な雰囲気は虚栄のなかに死んでしまうだろうが……。
 一家和楽の団欒を、そのまま外からきた客人にも分かつことができれば、理想的な家庭である。一家のなかだけに和楽があるのではなく、このような家庭をとおして家庭即社会という新しい時代の家庭の理想像が、そこに胚胎しているからだ。
 家庭が常に明るく健康であるためには、撓まざる価値創造が必要と思う。というとすぐ文化生活を思い浮かべる人がいるが、電化製品の羅列や、隣家と流行を競いあうことにあるのではない。一枚のレコードが、家庭を楽しい音楽会場にもするし、子供の描いた一枚の絵が、家庭を美しい展覧会場にもするのである。安直なテレビ文化に流されて、家庭生活が十年一日のごとく、マンネリズムに陥っているとしたら、それはただ非文化的な家庭といわなくてはなるまい。家庭の不如意な貧しさを、すべて経済的理由に押しつけて、暗鬱な顔をしているのは、現代人の精神の衰弱さを物語るものである。価値創造のない家庭ほど侘しいものもないのである。
 家庭はつくられたものではない。つくるものである。建設すべきものである。自分たちの心の貧しさに気づかず、不如意の家庭生活の責任をいたずらに社会に転嫁することは、まことに空虚な叫びである。夜店で買った一鉢の花が、一鉢の金魚が、一家の愛情を育てる場合だってあるのである。家庭をたんなる塒と心得、建設的な意欲を失った人びとは、人生の侘しさを酒と遊びにまぎらわすことしか知らないのだ。
 建設には努力と勇気が必要である。ここに未来の希望も湧くであろうし、一家の和楽と団結も生まれ、明るい家庭の建設は、即健全な社会の成立の根本条件である。
 過去の歴史において、幾多の社会的変革が行われてきたが、そのつど、家庭は顧みられず、むしろ犠牲となって、受難と悲惨とを受けたのは家庭であった。今日でも、政治的解決を必要とする家庭問題は山積している。しかし、それはほとんど放置されている現状といってよい。現在の腐敗した政治家に、これを期待したところで、百年河清を俟つに等しいことだ。
 迂遠な道に思うかもしれないが、しょせんは、身近な一軒一軒の家庭革命こそ、すべての基盤にほかならない。やがて、日本中に、こうした自覚をもった明るい家庭が建設されたとき、それは新しい時代を築いたということになるのだ。これこそ道理にかなった理想社会への改革であることを、私は確信している。

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