Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

現代の女性像  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
2  自由の追求と責任の拡大
 ここ数年、ウーマン・リブの運動が、マスコミをにぎわせるようになった。女性が忍従を強いられる立場にあることは、古今東西を通じてのものらしく、そうした社会的不平等に対して抗議の叫びをあげ、対等の条件を要求することは当然なことであろうと思う。しかし、それが本来の主旨から離れて、女らしさを捨て、男と均質化することだとしたら、かえって女性の強みを放棄する結果になりかねない場合もあるのではあるまいか。
 社会的条件の平等を要求することは正しいであろう。しかし、自らの個性、あるいは持ち味を捨てて画一化することは、かえって人間性を軽んじ傷つけることになってしまう。じつは、社会的平等が大事なのは、おのおのの違った個性と持ち味を発揮できるためにほかならないのである。
 ウーマン・リブ運動の提唱者やリーダーの人びとにとって、こんなことはわかりきったことであろうと思う。だが、それに動かされている女性大衆や、さらには、この運動によってなんらかの思想的影響を受けている一般女性が、はたして、この主目的と従属的条件との関係を理解しているのかというと、はなはだ心もとない。 最近の服飾、その他におけるユニ・セックス化──女らしさの放棄──は、女性の意識の底に広がっている混迷を象徴しているのではないだろうか。しかも、それは、たんにファッションの問題のみではない。大事なのは、生き方の問題であり、意識構造のなかに起こっている変化である。
 たしかに、そこには自由の謳歌があり、さらに徹底した自由への飽くなき追求の叫びがある。それを非難するつもりは毛頭ない。ただ、自由には必ず責任がつきまとう。妻として、母として、女性として、そのおかれた社会的立場から、もともと逃れがたい“責任”をもっている。しかも、自由が大きくなるにつれて、責任もまた大きくなっていくのではあるまいか──。
 自由がどちらかといえば、個人の意識、観念の問題であるのに対して、責任は現実生活の問題である。心は大空を翔けめぐっても、足は大地を離れられないし、身体は現実の人生の柵(しがらみ)によって、がんじがらめにされているといってよい。この責任性への的確な認識と行動なくして、自由への憧憬に飛翔しても、それは無残な敗北しかもたらさない。
 しばしば指摘される離婚の増大、母親の幼児虐待事件の頻発は、十把ひとからげ的な言い方かもしれないが、結局、この自由と責任との不可分の関係を無視したところに起こった悲劇といえないだろうか。そして、もし、そうだとすれば、妻として、母として、女性としての責任に苦痛を感じ、自由を夢みる現代の“女ごころ”は、ある意味で、こうした悲劇のヒロインへの予備軍であるとさえいえるような気がしてならない。
3  従うことの知恵
 それでは、女性の強みでもあれば、弱みでもある“女らしさ”とは何だろうか。
 先に私は慎みぶかさ、忍耐強さ、優しさをあげたが、これを対男性の行動的次元で、ひとことで言うと“従う”ということになろう。ずいぶん反動的な言い方のように聞こえるかもしれないが、それが、女性の強さを、存分に発揮させる道であると思うからだ。天空にそびえる樫の木は強いが、どんな烈風にも耐えられるとはいえない。芝生は柔らかいが、どんな強い風にも耐えられるのである。
 私の尊敬する人の書簡集のなかに、「女人と申すは、物にしたがって物をしたがえる身なり」という一文がある。
 「物にしたがって、物をしたがえる」とは、じつに言い得て妙である。この“物”とは、あるいは夫であり、子であり、あるいは社会そのものでもある。妻として、母として、女性としての特質は、これらに従うことにある。だが、自ら従うことによって、夫や、子や、そして社会をも、自己に従わせることができるのである。
 これと関連するが、東洋の古い言葉に“三従”というのがある。
 「少くしては親に従い、嫁して夫に従い、老いては子に従う」というのである。それは、社会的に押しつけられた、忍従のモラルをいったものであり、女性にとって、これは悲劇であったろう。しかし、よく考えてみれば、親といい、夫といい、子といい、血の通った人間である。そこに通いあう愛情と信頼があれば、一方的に忍従させるのみということなどありえない。必ずかえって、かわいい娘のため、愛する妻のため、優しい母のために、それこそ命を捨てても惜しくないほど尽くしてあげたい気持ちになるものであろう。
 従うことを嫌うあまり、わがままをいい、エゴイズムを通したからといって、そのために皆から嫌われ、孤独な人生に苦しむとすれば、決して素晴らしいこととはいえまい。女性としての幸福をつかむためには、古いからといって伝統的なモラルを排斥するのでなく、そこに秘められた人間の知恵を学びとることが大事ではないだろうか。
 だからといって、私は、すべての女性がこうあるべきだというのでは決してない。家庭に入るよりも、一人の社会人として、職業人として、自己の才能を自由な立場で発揮するほうがふさわしい女性もあろう。また、ひとたびは結婚し子を産んでも、やがて子供にも手間がかからなくなり、夫の理解もあれば、社会に出て活躍すべき人もあろう。あるいは、夫に対してはよき妻であり、子に対してはよき母であると同時に、職業人として立派に仕事ができる人もいよう。
 ともあれ、夫に対しては妻として、子に対しては母としてのあり方が、おのずとあるのであって、それをわきまえ、きちんと立て分けられることが、賢明な女性の条件であると言いたいのである。
 有名な話だが、イギリスのビクトリア女王が、あるとき、夫君のプリンス・アルバート公のご機嫌をそこねさせたことがあった。和解のために、女王が公の部屋を訪れたところ、公の「誰だ?」という声に「女王です」と答えたため、公はドアを開けなかった。「あなたの妻です」と答えて、初めて公はドアを開けたというエピソードがある。
 これは、妻が一国の王であるという特殊なケースの問題と片づけてはならない。男女の間における、普遍的な心理の微妙さを、このエピソードは物語っているといってよい。社会的な立場がどうあれ、男は妻に対し、妻らしくあることを求めるものなのである。夫は夫らしく、妻は妻らしくあることによって、相互の信頼は成り立つ。そして、この信頼こそ、互いの愛情を深めさせ、持続させる大切な基盤となるといえよう。
 最後に、子に対する母親のあり方、母と子の関係について述べておきたい。基本的には、すでに述べたように“従う”ということになるが、それは、子供をわがまま放題にさせよということでは、もとよりない。子供の人格を認め、自分ですべきことと、してはならないことの判断ができるよう、自立の方向に導くことが大切である。
 とくに幼児期は、いってみれば子供は白紙と同じで、そこにどのような人格を形成するかは、まさに母親一人にかかっているといっても過言ではないだろう。温かい愛情を注がねばならないのは当然であるが、けじめをつけるべきことはキチンとし、過保護にならないようにしなければならないと私は思う。世話をやきすぎて、わがままな甘えん坊に育ててしまったら、取り返しのつかない苦労の種を背負いこむことになってしまうからである。

1
2