Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

妻の生きがい  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  どうして“主婦”がいやなのか?
 ここ一、二年、“脱サラリーマン”などということが言われてきましたが、最近になって“脱主婦”という言葉まで現れるようになってきました。若い主婦たちのなかには、“主婦”と言われるのがいやだ、という人たちが多くなってきたということです。 主婦からの脱出──これには、妻や母という鋳型にはめられるのがいやで、女性としても、人間としても、もっと自己の人生を拡大し、社会とのつながりをもち、自分らしく生きたいといういじらしい願いが込められているとみることもできましょう。このことは、私自身の考えとしては、望ましい傾向であると思っております。なぜなら、それが、人間としての、より深い自覚から出た切実な声でもあろうかと思われるからです。しかし、一つの過渡期には、いかなることでもそうですが、意識や行動に混乱を生じやすいことも、考慮しなくてはなりません。
 若い母親が、自分のお腹をいためた、いたいけな子供を殺すなどという母性の虐殺は、かつては考えられなかったことです。その理由も、子供が泣いてしようがないからといった、きわめて単純な理由なのです。昔でも、食べるものもないといった、貧困の極限状況で間引きしたり、捨て子などをしたこともあったに相違ありませんが、それとこれとはあまりにも事情が違いすぎます。
 現代のそれは、母親としての自信のなさが生み出した一種の狂気であり、人間らしい家庭というものを失ったことによる精神的空白が、その底流にあると思えてなりません。極端な表現かもしれませんが、そこに現代の一つの倒錯があるのではないでしょうか。
 人間として、自己の拡大をめざすことが、望ましいのは言うまでもありません。しかしそれは、妻であり、母であることをとおしてなされるべきものであって、それを放棄して、たんに解放感にひたろうとすることは、結局、自分の母性という生来のものを殺してしまうのではないかと考えるのです。
 現在のウーマン・リブについても同じことがいえるでしょう。母親として、妻としての使命に生きながら、そこを足場にして、社会的に発言もし、社会に女性らしい特質を生かし、そのための権利を主張することは、正しいと思います。しかし、その足場を蹴って、いったい何になりたいのでしょうか。妻であり、母親であることが人間としての桎梏であるかのように考えたとしたら、それはむしろ錯覚というべきでありましょう。女性らしい優しさ、美しさ、濃やかさは、絶対に男性の及ばない天賦のものであり、その愛情を深め、社会的に拡大していくことが、真実のウーマン・リブであるといえるのではないでしょうか。
 “主婦”と言われるのがいやだというのも、これまでの家庭というものが、閉ざされた城とでもいったイメージで考えられ、その城の中で安閑としていられるのが主婦の座だというニュアンスが強かったからでありましょう。しかし、家庭を、開かれた社会の単位、人間生活のベースと考え、その責任者が“主婦”であるとしたら、その社会的役割はすこぶる重要であります。
 古めかしい考え方であると笑われるかもしれません。しかし、人間解放とか、女性解放とかいっているうちに、もっと得体の知れない、桎梏の鎖にがんじがらめに縛りつけられてしまうことにもなりかねないのです。いってみれば、“主婦”からの逃避ではなく、“主婦”というものを積極的に正しく位置づけることが、本当の意味での女性解放につながっていくのだと私は考えます。
2  家庭生活の落とし穴
 若い主婦がいだいている、自己の存在を拡大していきたいという願いには、崩壊に瀕した今日の家庭に対する考え方の変化だけではなく、じつは、もう一つの要素が絡んでいることも事実です。
 それは、子供が幼い時には多忙であるが、その子も学校にあがり、だんだんと母親の手を煩わさなくなってくると、なにか生きる目標といったものが失われていってしまうということです。つまり、家庭生活のなかでの“はりあい”がなくなり、といって、どのようにして新しい生きがいを見いだし、拡大していったらよいのかということに戸惑ってしまうわけです。とくに家庭電化製品が、かなり家事の労を取り除いてくれているために、自分の自由な時間がつくられ、かえってそれに手こずってしまっているともいえるのです。
 大げさな言い方になりますが、それはなにも家庭の主婦だけの問題ではなく、人類は、まだ余暇をどう使うかということについて、十分訓練されてはいないばかりでなく、戸惑っているのが実情です。
 ショーペンハウエルは「人間の幸福に対する二大敵手が苦痛と退屈である」(『幸福について』―人生論―橋本文夫訳、新潮社)と言っておりますが、苦痛の不幸を取り除いたあとに、退屈の不幸が押し寄せているのです。現代において“生きがい”といった問題が真剣に模索されているのも、その現れといえましょう。
 私は、主婦の労働が軽減されていく傾向に、反対しているのではありません。煩わしい、また厳しい労働が軽減されて、それによって得た余力が、自分自身の向上や、社会的な広がりのなかに生かされていくならば、その意義は決して僅少ではありません。
 しかし現状では、主婦が夫や子供のために傾ける真心の労働が軽減するとともに、それに正比例して、親子、夫婦の人間関係も希薄になり、主婦が家庭のなかでもつ重みも、軽くなってきているようです。
 離婚率が非常に高くなっていることも、その一つの反映でありましょう。しかも、最近の統計では、結婚して七、八年、あるいは十年ぐらいたった人たちに離婚が多いとのことです。それは、子供も成長し、ホッと一息いれたときに、精神的な空白という深淵が、ポッカリと不気味な口を開いて待っていることを意味するのではないでしょうか。
 人間は、前向きに生きる目標を失ってしまうと、急にふけこみ、精神的にもバランスを欠くのではないかと思われます。そうしたことが、互いの人間関係にミゾをつくっていくのでしょう。その時が、家庭生活における一つの重大な危機といえます。こうした危機は、いつとはなしに迫ってくるものです。そこに、日常性の落とし穴があると私は考えるのです。
 人間の生活は、ある意味で、習慣の束から成っていることも否定できません。慣習化した日常生活に身をゆだねることは、非常に楽なことです。もし、生活の慣習化というものがなければ、人間は、神経をすりへらしてしまうにちがいありません。人と会っても「今日は」という挨拶が日常化していなければ、最初の会話のすべりだしでつまずいてしまうでしょう。社会的慣習が社会の人間関係の潤滑油になっているように、個人の生活でも習慣は、ある種のリズムを与えてくれるものです。
 しかし、もう一面では、人間というものは新しさを求めて生きている存在でもあるのです。日常生活に、いっさい身をあずけて、そのなかに没入してしまうと、いつのまにか、生命の新鮮な躍動感を失い、自分というものも、どこかへ飛んでいってしまいます。
 気がついて、自分を取り戻そうとすると、今まで自分にとって最大の味方であった、日常生活というサイクルが、突如として、敵となって頑強な抵抗を示すのです。その頑固さは、なかなかのものです。なにかを発心し、いざ始めようとすると、たちまち苦痛を感じて投げだしてしまいたくなります。
 その強引な力に屈し、ふたたび身をまかせていくと、もう、そこから抜け出ようとする勇気もなくなってしまいます。惰性と呼ばれる、物理的な慣習の法則は、こうして、人間性を内部からむしばんでいくのです。
 張りのある自分はなくなり、若さもなくなり、一種の暗い倦怠感のようなものが、心を支配するようになります。自己の成長などという言葉は、およそ無縁のものとなり、遠い彼方に飛び散って、生命の不完全燃焼のままに、ますます自己を萎縮させていくのです。
 これは、なにも女性ばかりにいえることではありません。男性においても、同じことがいえます。いわば、現代の男女を問わない人間共通の弱点であるかもしれません。
 それでは、こうした退屈の不幸ともいうべき、内部の敵を打ち破るにはどうしたらよいのでしょうか。日常生活をはなれて、特別なことをすればよいのでしょうか。それも気分一新で事足りる初期の場合もあります。たまには、家族連れで旅行するのもいいでしょう。しかし、近ごろは、日曜日など、マイカーででも行こうものなら、車が数珠つなぎになって渋滞し、電車も満員で、かえって疲れて帰ってくるということが多いようです。
 また、男の人であれば、どこかのバーで一杯やるという、うっぷんばらしもあるでしょうが、主婦の場合はそれもできません。せいぜいボウリングに興ずるか、ショッピングに出かけたりする程度のものでありましょう。どうやら、そうした日常生活の外だけに、精神の清涼剤を求めようとすることは、さまざまな限界があって、やがては空しい努力にすぎないことを悟るにいたるでありましょう。
 それでは、いったいどうしたらよいのでしょうか。私は、日常生活のなかに、創造的な営みを発見することに、この問いに対する解答の鍵があるように思うのです。
3  目標を自覚して積極的に
 大切なことは、家庭生活の外にではなく、そのなかに、どのように自己を発見し、拡大していくかということだと思います。
 たしかに生活が合理化され、肉体的な労働が軽減されたとはいえ、そこに、どう創意工夫をこらしていくかによって、いくらでも楽しくしていくことができます。たとえば、インスタント食品にしても、それをどう美味しく料理していくか、手をかけて、家族の人びとの口にあうようにしていくかといった、創意工夫の領域は残されているはずです。掃除や洗濯などが機械化され、主婦が手を抜けることは、大いに結構だと思います。しかし、主婦の愛情が直接、しかも微妙に反映される料理などは、少々手間をかけても、それにふさわしい効果をあげたいものです。そうした努力は、温かい夫婦愛、親子愛を持続させる偉大な力となっていくでしょうし、そこに創意工夫をこらすこと自体、主婦ならではの賢明な知恵というべきでありましょう。
 また、余暇という問題も、それをつぶすにはどうしたらよいかという考え方からとらえるのではなく、どう生かしていくかという点から見直されるべきです。
 かつては、余暇というものは、王侯貴族の専有物でした。一般大衆は、その当時においては、生きるために働くことで精いっぱいだったのです。しかし、今は、余暇は大衆のものとなり、それとともに、いかに生きるかということが、あらゆる人びとの最大の課題になりつつあるのです。そのなかの一つの大きなテーマが、妻の生きがいという問題なのです。
 このいかに生きるかという課題が、じつは、今日までの文化を生み、支えてきたといってもよいでしょう。しかし、昔は、それを考えるのは、一部の余暇をもった人たちであったために、芸術とか、学問とかいった文化は、いわゆる“有閑階級”と結びつき、一般民衆とはかけはなれた存在でもありました。それが現在では“大衆余暇時代”となってきたのです。つまり、それは、文化もまた、大衆のものであり、庶民の日常生活のなかにはぐくまれていくことを示すものであると思います。
 こうしたことから考えると、女性が余暇を得たということは、女性の、知的、精神的な責任が大きくなったことを意味するといえます。というより、その面での苦労がなければ、妻の生きがいというものは、ありえなくなってしまうのです。
 具体的にいえば、音楽を聴くとか、手芸を身につけるとか、詩をつくるとか、絵をかくとか、スポーツを楽しむとか、さまざまなことがあるでしょう。しかし、何をやるにしても、それには、労苦をいとわないで突きすすむ積極的な姿勢が必要だと私は思います。真剣さのともなわないものには、喜びもないからです。
 生きがいとは、目標をはっきりと自覚し、それを自分の責任において、汗を流して遂行し、達成していくときに生ずる充実感、満足感といえるでしょう。また、それをとおして、自分が人間的に成長したという実感、また、人間関係を深めることができたという手ごたえ──こういったものが、生きがいをより大きなものにしていくのだと思います。
 したがって、それは、たんに自分だけのことでなく、なんらかの社会的意義をもった目標であること、一時的でなく永続性のあることが、より生きがいを大きくしていくことになります。 ただし、大切なことは、自分らしいなんらかの目標を発見して──それが、どんなささいなことであっても──そこに、自分をぶつけてみることです。むろん、人それぞれに環境も違い、立場も異なりますから、背伸びして、なにか特別なことをやろうと考える必要は、毛頭ありません。最も身近な、手の届く範囲のことがらでよいのです。今、自分がやっていることのなかにも、新しい目標を打ち立てることもできるでしょう。見栄は、長つづきしません。かえって、その人格を下げることでさえあります。要は、自分自身が意義を感じているもの、やりがいのあるもの、それを主体的に選び、そこに思いきって挑んでみるという、前向きの姿勢が大切です。
 それは、妻だけでできるものではなく、夫や子供たちの協力も必要である場合もあるにちがいありません。夫の生きがいのためには、妻の協力が必要であり、妻の生きがいのためには、夫の温かい理解と協力が、かぎりない激励になることでありましょう。しかし、それぞれが、自己を主張するという形で、それを求めあうのではなく、互いに理解し、協力しあうことに重点をおいていけば、きっと社会のなかに美しい、潤いのある家庭を築きあげていくことができると、私は信じてやみません。
 そして、こうした、日常的な家庭生活をベースにして積極的に社会の場に躍り出ていくときに、生きいきとした自己を再発見するにちがいありません。
 これは、理想にすぎる話と思う人もいるかもしれません。しかし、その方向へと、忍耐強く、舵をとっていくことが、賢明な妻の知恵であり、手腕ではないでしょうか。

1
1