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日蓮大聖人・池田大作

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妻の思いやりが男を蘇生させる  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  現代の夫は酋長にはなれない
 原始時代の男らしい男の姿というものは、今は絵画などで想像するよりほかはないのですが、動物の雄たちの姿をみれば、雄たる男の雄々しさはすぐわかります。アメリカの漫画家サーバーという人が、男らしい男の姿を漫画のなかで書きあぐねたのでしょう。彼はかつてこう嘆きました。──“ライオンの雄にはタテガミがあり、孔雀には豪勢な翅があるが、人間の男には三つボタンの背広しかない”──雄として現代の男の存在は、動物にも劣ることになってきました。男たることを恥じたわけでもないのでしょうが、若い男性服装の女性化というのも、案外こんなところに胚胎しているのかもしれません。
 また、結婚についての考え方もずいぶん変わってきたようです。家庭というこれまでの結婚形態に不安をいだくのでしょうが、別居結婚とか、友愛結婚とか、家庭を無視したさまざまな試行錯誤が行われているようです。
 これは家庭生活のせちがらさ、わずらわしさを嫌い、結婚だけを合理的に実践したいという発想から生まれたものでしょうが、この発想には旧来の結婚に対する恐怖、さらには家庭に対する恐怖が潜んでいると私は思います。
 家庭の主婦という主婦は、夫に原始種族の酋長のような力ある頼りがいのある「男のなかの男」という男性像を思い描いていることでしょう。ところが現実は逆の方向へと時代の流れは進んでいます。そして、ふがいない夫、ぐうたらな夫、家庭のことも子供のことも考えていない夫というふうに、弱点ばかりが目について、夫を責めるのが主婦の役目であるような、また責めることによってひそかな優越感を味わって気楽な日常を送っているのです。団地種族の主婦たちの会話を録音してみたとしたら、夫に対する嘲罵が渦巻いているにちがいありません。またこのような環境に身を没せざるをえない亭主族は、いつか自らを「ダメな人間」と自嘲しながら、人生はぐうたらにかぎるなどと、ますます心寒い風化人間となっていきます。
 近年、人間性の喪失が叫ばれてからすでに久しく、砂漠化した人生をなんとか立て直そうとさまざまに試みたものの、もろもろの社会状況は悪化の一途をたどるばかりでありました。そして昨今は、世界が終末に近づきつつあるのではないかという予感から、漠然たる終末感が瀰漫しつつあります。この終末感にもとづく書籍の数々が、ベストセラーをつづけているのも故なきことではありません。
 このような悲観すべき恐るべき地球種族の状況のなかにあって、私はなおかつ人類の知恵を固く信ずるものの一人であり、そのただ一つの目的のために日夜微力を尽くして東奔西走しているのですが、これまでの人間に関する既成概念の変革に、まずその救済と同時に蘇生があることを信じているのです。
3  妻の欲求不満を夫にぶつけるな
 それは一口に言えば、人間の生命の尊厳を認識するというより確認することに一切がかかっていると考えるのです。自己の人間としての生命の尊厳を確認するばかりでなく、それとまったく同じ重さで人類三十数億の一人ひとりの生命の尊厳を平等に確認することに、一切の思考の根源をおけ、ということです。
 そして、このことを社会に対し、いたずらに叫び、風のなかに消してしまうよりも、もっと着実に自分たちの周囲の一人ひとりから始めようではないか、と私は言いたいのです。真理は遠くにあるものではない、卑近なところに具体的に生かされなければ、なにが真理でありましょう。
 主婦にとって卑近なところといえば、家庭です。現代に身を処する以上、さまざまな欲求不満が家庭の主婦たちにあるのは当然です。だからといって、それを一家の主を目標としてぶつけて気を晴らすなどということは、およそ見当が狂ったことになりかねないでしょう。
 あなたが欲求不満である以上に、社会情勢の前代未聞ともいってよい数々の抑圧に押しつぶされて、追い詰められた亭主族は、不満をぶつける目標すらなくて、無力のわが身を苛みながら、やっとのことで家庭の妻や子を護ることに懸命になっているのです。いくら懸命になっても、はたして目的が達せられるかどうかを不安に思いながら懸命になっています。現代に「男らしさ」というものがあるとしたら、じつはこんなところに追い詰められて、なお戦っている姿にしか、「男らしさ」が実在しないのではないかとさえ思います。いじらしいばかりの男らしさです。
 現代の男らしさをここまで追い詰め、その苦渋を妻子にまで波及し、家庭というものを近親相争の救いのない場としてしまった元凶は、人間一人ひとりの生命を軽視してかえりみなかった近代科学の悪の一面にあることはもちろんです。
 だからといって近代科学を捨てさることもできません。もし捨てさったとしたら、地球上の社会生活はその瞬間から崩壊してしまうことは明らかです。航空機も飛ばない、新幹線も走らない、電気は止まって電源もなくなりエレベーターも動かない社会は、もう私たちには想像することもできません。これらの科学機構は、人間生活を便利に豊かにしましたが、環境そのものを破壊し汚染して、資源は枯渇し、人間がやがては住めない地球にしてしまうだろうと気づいたのは、つい最近のことでした。
4  妻の思いやりと夫の蘇生
 このような一切の重圧のなかで、ともかくそれを防御し、なんとか血路をひらこうと最先端に立たざるをえなくなったのが、この世の亭主族ではないでしょうか。ぐうたらであろうと、なんであろうと、絶望的な終末感のなかから奮い立とうとし、いま出発点に立っているのです。このような男こそ、現代の「男のなかの男」と言わなくてはなりません。
 家庭が、さまざまな社会崩壊化の重圧に押し流されて、同じく崩れてしまうとしたら、この世の男という男は住む場所も寝る場所も失ってしまうことになります。社会、社会といっても、つまるところ無数の家庭の集積にすぎません。家庭が崩壊しなければ、社会も崩壊はしないでしょう。そして家庭、家庭といっても、血族の人間一人ひとりの集まりです。この一人ひとりの人間が崩れないかぎり、家庭の崩壊はありえません。
 社会の一切の原点が一人ひとりの人間にあるとしたら、その人間にとって一番大切な代えがたいものは何かといえば、一人ひとりの生命でしかないのです。この生命の存立が、現代ほど脅かされている時代もかつてありませんでした。現代の恐怖は、ことごとくここに基づいています。しかも、人間の生命についての知識は、まだまだきわめて貧しいものです。しかし、この根源の問題を避けて通ることはできないところまできてしまいました。一人ひとりの生命の尊厳がどんなに無視されて経済が発展し、政治が運営されてきたか、今日の世相百般を熟視してみれば誰にも容易にわかることです。男性生命の本性ともいえる「男らしさ」の喪失など、まことに当然といわなくてはなりません。
 いつのまにか、私たちはこのような前代未聞の時代環境のなかで生存をつづけざるをえなくなりました。責任を問うとしたら、誰の責任でもない、人類三十数億の責任です。この自覚が社会に生ずるには、まず家庭における自覚がなければなりません。夫たるものの責任を責める前に、このような時代環境と対決を余儀なくされつつ、努力を傾けている亭主族を思いやることができれば、家庭の風波というものは、よほど穏やかであるにちがいありません。
 そして夫にとって、この対決の戦いの最大の味方、百万の味方は、言うまでもなく世の妻たち子たちをおいて他にはありません。今後の家庭は、このような雄々しい戦士とその眷属との温かい巣であってほしいと願うのは、すべての男たちの祈りです。
 夫に対して深く思いやることは、妻のたんなる従順さではありません。生命の尊厳を生活の基盤におくかどうかの、実践の所作であるといえましょう。強力なありがたい味方をもつ夫たちは、雄々しく立ち上がって日常の対決の場で戦うでありましょう。このとき、妻の心に描いていた「男のなかの男」の理想的映像を、妻はくっきりと目にすることができるにちがいありません。それは同時に男の蘇生を意味します。
 ある聖哲の言葉に「女人は男に従い、男を従える身なり」とありますが、これは妻たるものの一生を支え、しかも夫を蘇生させ、力の限りの能力を社会に発揮させるにいたる無量の智慧を秘めている千古の名言だと私は考えています。つまり──男に従うとは、夫のすべてを心から理解して過ちないことであり、男を従えるとは、夫を雄々しく蘇生させることにほかなりません。 ここにこそ、夫婦というものの──現実のなかに生きぬく理想が待ちかまえているのではないでしょうか。

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