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日蓮大聖人・池田大作

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生涯の宝となった私の結婚  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  ふた昔も前のことになってしまった私の結婚は、今思い出しても、当時の身辺の状況が色濃く残っております。歳月の流れは、すべてを柔らかく包んでしまうものだとされていますが、私の結婚のさまざまな思い出は必ずしも歳月の霧のなかにかすんではおりません。
 それもそのはずで、昭和二十五年の夏から昭和二十六年の春にかけて、私は果てしない苦境のなかで、恩師とともに辛労の限りをつくしていました。私の未熟な青春の渾身の勇気という勇気を、すべて悔いなくその苦境のなかにたたきこんだといってもよいほどの苦闘でした。しかもこの苦闘は、恩師と二人だけで分かちあったものであっただけに、誰にも気づかれなかった秘事として今日もなお残っております。
 精神的な苦痛がどんなに肉体に影響を及ぼすものか、また体力の衰えがどんなに精神を蝕むものか、それらの一切を私は身をもって知りつくしたような気がします。恩師は朝起きると、寝床のシーツに等身大の汗の跡を残しましたし、私は発熱した体で、しゃにむに奔走して、わが身をいたわる暇さえありませんでした。
 事態はまことに絶望的にみえましたが、緊迫した戦いというものには、行き詰まることはないのでありましょう。恩師の偉大さは、なお悠然たる余裕で自らを客観視さえしていたのです。この余裕が若年の私には唯一の支えであり、絶望のなかになお光る希望の星でありました。私は恩師の使命だけを信じておりました。
 いつしか苦闘からの脱出をはっきり意識したのは、二十六年の五月のことでした。それは、再建というよりも、まったく新しい展望をともなった新生であったのです。新しい視野のうえにさまざまな光景が急に浮かび上がりました。それらの光景のなかに、今の妻も一人の若い女性として私の眼前に映りました。そして不思議なことに、ある特別な一女性としての映像が徐々に私の心の中で育ちはじめたのです。
 私はひそかに叙情詩を書きはじめ、感情を自らに確かめました。感情の結晶作用は日ごとに強くなっていき、そのうちに、ある偶然ともいえる機会が訪れました。
 ある予定された会合があり、定刻前でしたが、俄雨にあい、私は会合の場所に飛びこみました。するとそこには、彼女がたった一人いただけで、他の誰もおりませんでした。私は日ごろの一片の叙情詩をその場で書いて、そそくさと渡しました。眼の前で読まれることを怖れた私は、家に帰ってから読んでくれと頼みました。彼女は素直に紙片をハンドバッグにおさめました。
 その時の私の表情がどうであったか、おそらくは夢中であったにちがいありません。私はひとつの告白を果たしたことに満足して、事の成否はまったく気にならなかったことを覚えております。
 こう書くと、はなはだロマンチックに響くかもしれませんが、事は二十数年前のことであり、私の二十三歳という青春の脳細胞の仕業でありました。まして、その直前までつづいた激しい苦闘の数年のなかで、私は俗世間の垢をいやというほど浴びただけに、逆にわが心の王国だけは固く守り、数々の夢にあふれていたといっても差しつかえありません。それらの紡いだ夢を、私は彼女に一挙に託したのです。
 彼女との文通が始まりました。多摩川の堤防をよく歩きました。そして未来を語りましたが、互いに共通したある使命の自覚が、彼女にも育っていたことは、私たちの生涯を決定づけました。遊戯的な安易さはまったくなかったのです。使命に生きる未来を、自分たちのものとしようとしたのです。努力というよりも歓喜が先に歩いていました。
 アンドレ・モーロワの結婚訓に「結婚に成功する最も肝要な条件は、婚約の時代に永久的な関係を結ぼうとする意志が真剣であることである」(『結婚・友情・幸福』河盛好蔵訳、新潮社)とありますが、当時の私たちは、このような教訓は知らなかったものの、知らないうちにそれを実践していたと断言することができます。
 自ら顧みて、私たちの結婚が、わが生涯におけるかけがえのない宝となった今、結婚に踏み切る直前の状況が、どれほど厳粛で真剣であったかに一切がかかっていたことを痛切に知るのであります。

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