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日蓮大聖人・池田大作

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冬のなかの青春  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

前後
1  若さこそ逆境に勝てる
 厄介な時勢になりました。ここ一年余りインフレーションはとどまるところをしらず、日本列島の隅々までが、知らないうちにガスが充満したように、収拾のつかない状態になっていました。そこへ追いうちをかけるように石油危機がいきなりやってきました。石油は火種となって、即発的に大爆発を起こしかねません。被害者続出というわけで、こうなってはどんな楽観論者もタカを括ってはいられなくなりました。
 爆発は連鎖反応を起こし、あらゆるものの物価騰貴がつづいています。敗戦以来の最悪の緊急事態といわれる所以です。日常の生活は、日を追って苦しくなる気配です。若い皆さん方には、初めての事態で、さぞ面喰らうことも多かろうと思いますが、敗戦を経験している私たちの年代のものにとっては、微温湯のような繁栄がいつまでつづくものかと案じていたのでした。敗戦直後のお話にならない生活に比べれば、昨今の状態はまだ忍べるものがあると思われます。
 当時、敗戦という宿命をいきなり担わなければならなくなった私たち二十歳前後の青年は、戦争を否定するところから厳しく立ち上がりました。そして日本の宿命との戦いの第一歩を踏み出しました。若さというものは、いつもどんな困難な境遇に陥っても、立ち上がる力をもっているのでありましょう。
2  苦悶に満ちていた青年時代
 日々の乏しい生活も苦しかったが、それよりも思想的な苦しみのほうが私には強かった。軍国主義に馴らされて育った青年たちは、国が敗れるよりも、思想に敗れたことを知ったからです。敗れさった思想の抜けがらを胸にいだき、雑炊をすすっていたその当時の苦悶に満ちた青年の表情を想像していただければ、すべてが了解されるでありましょう。私もそうした青年の一人でした。ただ意志だけは強固にもち、人生の旅を一歩一歩踏んできました。かなり長い冬の旅路があったのです。
 私の恩師の会社に職を得たものの、しばらくして経済界の不況に巻き込まれ、奮闘したそのかいもなく、ついに倒産してしまいました。社員はほとんど四散してしまいましたが、私は恩師とともに整理の仕事に没頭しつつ再起の機会を待たなければなりませんでした。再建のメドはなかなかつかなかったものの、曙光がかすかに見えはじめたときの安堵は、今もって忘れることはできません。冬にも太陽は輝くように、病弱な私の五体のなかにも、青春の血潮は駆けめぐっていました。
3  私の恋愛と結婚
 このような人生の旅の道すがら、私は一人の女性を知りました。今の妻です。旅のよい伴侶と思いました。二人だけの想いは徐々に結実に向かったのですが、結婚となると、さまざまな障害が目立ってきます。まず、私のかなり年季のはいってしまった病弱。それに一介のまったく無名な青年にすぎない私に、彼女の両親は、はたして快諾してくれるだろうか。私は家を出て、辛うじて自活しているとはいいながら、前途を危ぶんでいる頑固な父を、どうして説得したらよいのか。社会も不安な状態でしたが、私の生活の実態は、誰がみてもそれにもまして不安定でした。
 ある日、恩師は彼女の家を訪問して、彼女の両親と懇談し、承諾を得ました。そしてまた、私の実家をも訪問し、初めて私の父と対面しました。──恩師は父に私を貰いたいといきなり切り出しました。面喰らった父は、沈思黙考をつづけましたが、その果てに一言、差し上げましょうと答えたのです。つづいて恩師は、私を結婚させたいというと、父は差し上げた以上、恩師の考えに異存はないと快諾したのであります。
 やがて結婚しました。昭和二十七年五月三日のことです。結婚式も披露宴もいたしましたが、決して背伸びするようなことはしませんでした。きわめて簡素なものでしたが、恩師や親しい知友の祝福は、まことに心温まるものでした。
 目黒の間借りの一室で、ささやかな新婚生活が始まったわけですが、二十七年当時はまだまだ戦後の窮乏生活の影が、色濃くあとをひいておりました。しかし、人生の旅路に、憩うべき暖かい季節がきたのです。妻がいちばん気にかけたのは食事でした。病弱の私を、なんとかして健康体にすることが、彼女の第一の仕事となりました。私は、妻と同時に、こよなき看護婦と栄養士とを得たわけであります。私の当時からの激しい活動が、今日までどうやらつづきえたのは、彼女のこの時の発意と努力のおかげと思っております。
4  冬は必ず春となる 
 苦闘というか、死闘というか、倒産した会社の立て直しのため現実と戦いぬいた数年後とはいえ、すべては徐々に開けてきたものの、まだまだ公私にわたってさまざまな障害がありました。一つの障害を乗り越えたと思うと、また別なそれよりも手強い障害が立ちはだかるといった具合で、私生活を顧みる暇もありませんでした。
 希望の星を遠く睨んで、草創期の苦しい建設に歯を食いしばるような緊張した毎日がつづきました。ときには、こんな不如意な状態が一生つづくのではないだろうかと、妻と顔を見合わせて、私たちの人生の現状に思いあぐねたこともありましたが、ともどもに信じあった私たちは、「冬は必ず春となる」の至言のままに、勇気を奮い起こしました。
 しかし、現実の生活にはなかなか春はこない。季節はまぶしい春になっても、生活は相変わらず冬のようであり、わが宿命の重さを感じました。そしてやがて、この「冬は必ず春となる」の一節の真意に鋭く迫ることができたのであります。
 冬がやがて春となることは、宇宙の必然な確かな運行であります。なるほど、冬が秋になるというようなことは、昔からただの一度も起きていない。しかし、人間一人ひとりの生活は、必ずしもこのような運行をたどっていない。小宇宙といっても差しつかえない一人ひとりの運行は、なぜ思うようにならないのか。この法則にこそ、人生の一切の秘密がかくされている。人びとの運行が、宇宙の運行リズムと合致することさえできれば、冬は春とならなければならない。この逆行の招来するものが、思うにまかせぬ人生の不幸というものだ。宇宙の運行のリズムに乗れず、不幸の上に不幸が重なるような人も多い。では、私たちの当時の生活は、いったい何れなのであろうか、と疑問をいだいたこともありました。
5  生命の中にある財宝
 いくたびもこの「冬は必ず春となる」と考えているうちに、そこにこそ一つの人間として生きぬいていく根本姿勢というものを、確信しはじめたのです。宇宙の必然の運行のように、私たちの生活にも必ず春がめぐってこなければならない。では私たちは、自分たちの信仰修行がいったいどうなのか、深い反省のうちに、自らを厳しく裁きました。そして「冬は必ず春となる」という一節だけは、常に繰り返して叫びました。すると心に湧然たる希望が湧き、一切の愚痴を捨てることができたのです。
 人は、たとえどのような利口ものであったとしても、自らの意志の力だけでは、宇宙運行のリズムに乗ることはできません。コンピューター的知恵をもったとしても、事は人間の生命にかかわる問題であるからであります。宇宙の運行は、表面的には、力学的な説明で足りるように思われますが、もっと深い生命的な力に満ちているのです。その力のリズムは何によって生起するかといえば、宇宙生命の本然の力というよりほかありません。その本然の力に合致しようとする人間は、なにかしら、偉大な法則というものを見いだして人間自らの生命の働きを発現するほかはないのであります。人間の単独な意志では、人間の本然の生命を動かすことはできない。――たとえば、笑うにしても、怒るにしても、誰も笑おうと思って笑っているのでもないし、怒ろうと思って初めて怒るのでもありません。ある機縁に触れたとき、人間の生命は、意志の如何にかかわらず、おのずから自然に笑ったり、怒ったりしているのであります。
 ここに、私たちは目に見えない生命の働きを見、なんらかの機縁となる信仰の重大さを知るのです。宇宙生命との機縁、それは汝自身の生命の中にあると思うのです。ですから、生命の中にある財宝をあらわす信仰によって、宇宙生命の運行のリズムにいつとはしらず乗り、“冬は必ず春となる”という確実な体験を得ることができました。そして、知らずしらず逆行している人びとに、わが体験を語れる昨今となりました。
6  現代の危機にさいして
 今、問題になっている自然環境の破壊は、地球運行のリズムに対する大きな逆行といわなければなりません。ここ十数年の日本列島は、大々的な逆行を進めてしまいました。その結果、住民は自然からの復讐を受けなければならなくなりました。
 公害という人災にしても、現代文明の悪の悉くは、このような自然の運行、つまり宇宙生命の運行をまったく無視して成り立っていることにあるといってよいでしょう。行き詰まるのは当然のことです。冬から秋へと逆行しているのですから、このままに過ぎたら、いったいいつ春がくるというのでしょう。現代の危機は、見かけよりもはるかに根が深いのであります。現代の警告がここにあります。この緊急事態に処して、私たちの宗教運動も、いやでも燃え上がらざるをえないのです。
 私の青春は、いかにも冬のさなかにありました。しかし私の人生は春を呼ぶことができました。そしてその春は今もつづいております。
 今、若い皆さん方は、最近の事態に怯えながら、冬の襲来を予感しているにちがいないと思います。私の冬のなかの青春の体験が、なんらかの参考になるならば、それは私の望外の幸いです。
 日本列島も、今、冬です。季節も冬なら、生活環境もますます厳冬に向かおうとしております。宇宙生命に逆行してきたことの清算を、ここいらでつけねばなりません。私たち自身に春を呼び、日本列島にも、この地球にも、まことの春を呼ぶためには、何を根本としてなさなければならないか、すでにそれは私が改まって申し上げるまでもないでしょう。(昭和四十九年一月十三日「週刊明星」掲載)

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