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日蓮大聖人・池田大作

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女性にとって「創造」とは何か  

「婦人抄」「創造家族」「生活の花束」(池田大作全集第20巻)

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2  天分を生かし、真実の創造を
 アメリカの文化人類学者マーガレット・ミード女史は、ニューギニアの諸民族の観察を通して、男女両性の性格が、生物学的相違によって色分けされるよりも、伝統的教育によって塗り分けされるほうが、より合理的な説明を与えうると主張しました。
 チャムブリ族という種族では、女性はなんでもやってのける性質があり、集団の中央に位置しているのに、男性は受動的で、集団の端のほうに座っている。そして警戒心が強く、無数に些細な侮辱やうわさ話に興味をもっているそうです。私は思わず苦笑を禁じえませんでした。
 「私が研究した社会のなかで、十歳、十一歳の少女たちが、少年よりもいきいきと聡明で企画性にとんでいたのは、このチャムブリ族の社会だけだった」(『男性と女性』上、田中寿美子、加藤秀俊、東京創元社)と、現代社会における男性と女性の立場が完全に逆転しているかのような状況を呈していることを、女史は強調しています。
 女性と男性の生物学的、肉体的差異を否定することはできません。女性は出産し、育児をしなければならない。体格が、男性より丸みを帯び、瞬間的な筋肉の力においては、男性より一般的に劣っていることは、争う余地がありません。
 そこから、女性の、愛情が深く、恐怖や不安の念が強く、気の弱さや悲しみの念がつづいたりするという、独特の性格が生まれ出ることも、十分考えられます。 しかし、「女性らしい」という言葉のなかに、本来特有のものであるよりも、社会の──これはアードラー(ウィーンの精神医学者)によると、男性的社会ですが──伝統的体制に立った教育のなせるわざであるものを、無責任にも大量に含んでしまってきた、といえるのではないでしょうか。
 しかも、これらの女性独特の性格は、決して男女の優劣を決定する内容をもつものではありません。たとえば、女性の豊かな空想力は、現実社会の幾重ものしがらみに拘泥しがちな、男性の性向を補って余りあるものですし、ノーベル賞受賞学者の江崎博士が、ダイオードを生み出した陰にも、純度の高いものをつくるのに逆に不純物を混ぜてみたらどうかという女性助手の新鮮な発想があったという事実をみても、数々のアイデアや着想を、女性がもっていないということはないはずです。
 女性が論理的思考に欠け、感情の次元で、ものごとをとらえるということを、逆の目でとらえかえしてみるならば、男性はものごとを生命の表層の部分である理性で判断し、女性は、生命そのもので判断するということではないでしょうか。
 ある識者が「女性の把握と思考が主として生命に依存し、男性のそれは主として精神に依存している」と述べているのは、まさにこの点を指摘しているようです。
 感情的とか直観的という言葉は、かなり論理性に欠けた、侮辱的な響きをもって語られることが多いようですが、論理にとらわれ、柔軟な思考を失ってしまうことのほうが、豊かな情感でものごとをとらえ、その奥底を見通していく直観智よりも、創造ということには、有効的でないことが多いように、私には思われます。
 独創、創造ということを、ものの創造と考え、それに寄与することのみが、文明の発展に役立っていると考えるのは誤っているのではないでしょうか。創造ということを、もっと広げて解釈する必要があるのではないか、と私は考えるのです。なぜなら、私たちの生活に密着して関係があるのは、ものそれ自体ではなく、人間ともの、人間と人間の間に流れる価値だからです。
 創造とは、たんに見事な芸術作品を生み出すこと、真理を発見すること、きらびやかな哲学を振りまわすことなどに限られるわけではありません。
 湯川博士は『創造の世界』(朝日新聞社刊)と題する本のなかで、独創性ということについて、次のように述べています。「それは今までだれも考えなかったことを考え、だれも気のつかなかったことをみつけだす、だれもまだつくらなかったもの、新しいものをつくりだすということである」と。私も、まったくそのとおりだと思います。
 真理や自然美を発見し、豊かな物質世界と美の領域をつくりだすことだけが創造ではなく、人の心の微妙な営みを洞察し、幸せへの道をともに開くことも創造であり、また、悩み苦しんでいる人の心に入って、ふくよかな人間愛で包み込むことこそ、まさに、創造という名にふさわしい、人間の行為ではないでしょうか。
 先ほどの書物のなかで、湯川博士は、学問や芸術の創造について述べたあとで、次のように記しています。
 少し長い文章ですが引用しますと、「しかし人間世界の出来事の場合には、合理性とか必然性とかを見出すところで問題が終るのではない。(中略)知性が容易に合理的に把握することのできない人間の感情とか情緒とかいわれるものの方が、より直接に幸福につながっているのである。知性がまだ気づかずにいる潜在意識の働きが、そこではしばしば決定的な意味を持ちうるのである」(前出)とあるのです。
 心の奥の、秘められた感情や情緒に、もののみごとに反応する力は、女性に与えられた天分とでもいえましょう。ある一つの事柄に対する直観的な敏感さは、男性の遠く及ぶところではありません。あまりよい実例ではないかもしれませんが、浮気心を見抜く鋭敏さに舌を巻く世の男性は、決して少なくはないはずです。
 ともかく、知性がまだ気づかずにいる生命内奥の動きをすばやくキャッチし、優しい愛情で抱きとる行為のなかに、女性でなければなしえない、真実の創造の発露を見いだせるのではないか、と思うのです。それは、子を産み育てゆくという、宇宙自体から託された役割をもつ女性の本然の力でありましょう。
3  エゴを捨て、社会への働きかけを
 ドイツの詩人、シルレルは「真の愛情を知る者は女性である」との至言を残していますが、愛による幸せの道を開く主体者は、女性であり、妻であり、母であるとの真理を動かすことはできないでしょう。
 それにしても、このような女性の愛も、ともすれば自己愛に変質し、エゴのとりこになりがちなことも、決して否定はできないと思うのです。
 エゴの牢屋に閉じこめられた愛の変質は、女性の欠点ともされている受動的な姿勢、虚栄心の強さ、衝動的で移り気な心情などと結びついて、自らの不幸を呼び寄せ、さらには家族や隣人の犠牲をしいる結果にもなりかねません。また、自分の好みや、反感や、嫌悪の情動で、あらゆる出来事を判断するという欠陥を、周囲にまきちらすことにもなるものです。
 ところが、開かれた愛の努力を忘れない賢明な女性においては、敏感な直観智、機敏な心情、やさしくも温かい情愛などが生かされ、さらには、社会的事象への関心を深めていきます。
 たとえば、病める子をかかえ、苦闘の末に、疾病を乗り越えた体験をもつ母親がいるとします。わが子の病気のひきおこす壮絶な苦痛を味わいつくしたはずです。
 こうした人生の厳寒を通り過ぎた、慈しみ深い女性であれば、隣人に、もし、同じ悩みが襲いかかったとき、ありとあらゆる援助の手を差しのべることでしょう。それは、病める子をもつ悩みを、他の誰人よりも、熟知しているからであります。時によっては、隣人の苦しみを代わってあげたいと思うほどの衝動を、抑えきれないのではないでしょうか。
 隣人への援助のために、過去の体験から学びとった知恵が総動員され、鋭い感受性が敏捷に働き、病める親子の、このうえもない良き相談相手となり、看護婦の役割さえ果たしうると考えます。
 さらにそれは、隣人に終わるのではなく、社会的な次元にまで拡大されていきます。同じ疾病に侵された子をもつ親たちとの連係を図り、社会的運動にまで高めていく努力へと向かいます。
 また、経済的貧困の辛酸をなめつくした女性ならば、物価高、物不足といった事態に直面しても、生命で呼吸してきた知恵を生かして、地域の人びととも語り合い、社会的不安から地域を守る、人間連帯の輪を築くこともできます。
 またそのとき、地域の庶民への愛にまで広がった豊かな心は、政治家、企業家の動静を見逃さず、悪の根源を断ち切るための政治の分野への参画を試みるでしょう。
 そのほか、女性として、母として、妻としての生活人そのままで偉大な力を発揮する舞台は、数えきれないほどです。
 若い青年の恋を見守るのも、女性の心理の微妙さに期待するほかはありません。甘い恋の成熟ばかりでなく、失恋のほろにがさを、ふたたび、貴重な人生経験としてかみしめる場合も起こりえます。
 少しばかりの具体的な考察をしてまいりましたが、創造は決して、男性に特有な能力ではありません。私は、聡明な女性の、優美にして広い愛情こそが、庶民の生命と生命をつなぎ、人間らしい価値と幸福を開きゆく創造の、あまりにも清らかな泉水であると確信しています。
 母なる大地の底に、万物をはぐくむ慈愛が脈打つように、家族と隣人と、そして人類社会の大地にも、女性の、妻の、母の慈悲心が豊かな清水となって流れていくことを、一人の男性としてではなく、一個の人間として、私は期待したいのです。

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