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日蓮大聖人・池田大作

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注解  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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2  〈か行〉
 霍去病
 (前一四〇年頃―前一一七年)前漢の若き将軍。弱冠二十歳にして武帝の命により匈奴を討伐、冠軍侯、驃騎将軍、のち大司馬に拝せられた。
 河西回廊
 河西とは、中国の甘粛省を流れる黄河の西。祁連山脈の北側に沿った地域を、俗に河西回廊と呼ぶ。漢の武帝時代、ここを占拠していた匈奴を撃退し、東から西へ武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を置いた。
 『化石』
 癌の宣告を受けた初老の実業家を主人公とし、極限的状況の中で「生と死」の問題をはじめ、人生そのものに対する根本的な問いかけがなされた長編小説。一九六五年から翌年にかけて「朝日新聞」紙上に連載され、六七年に講談社より刊行された。
 夏鼐(かだい)
 (一九一〇年―八五年)中国の考古学者。浙江省温州の人。清華大学史学科を卒業し、河南省安陽の殷墟発掘をはじめ数多くの発掘に参加。新中国の考古研究に指導的な役割を果たした。ロンドン大学考古学博士。
 月氏
 前三世紀末まで中国の西北、モンゴル高原の西半に活躍した遊牧民族。前二世紀の前半、同じ遊牧民族の匈奴に追われ、中央アジアに移動した。司馬遷の『史記』によれば、月氏西走のさい、一部は南山の羌族支配地区に逃げ、現在の甘粛、青海両省からチベット地方に踏みとどまった部族を「小月氏」と呼んだという。前一三〇年頃、アムダリヤ北岸に王庭を置いた主力を「大月氏」と呼び、漢訳仏典では「月支」とも記す。
 葛飾北斎
 (一七六〇年―一八四九年)江戸後期の画家。江戸は本所の人。初め勝川春章の門に入り、役者・美人画など描く。その後、洋画の技法などをも採り入れ、風景画に長じた。
 角川源義
 (一九一七年―七五年)国文学者、角川書店創立者。中学時代から俳句を作り、折口信夫の学風を慕って国学院大学に学ぶ。戦後、角川書店を創業し、文庫本、文学全集ブームの先達をなした。著『語り物文芸の発生』で文学博士。
 『楽府詩集』
 中国古代から唐末五代までの詩歌作品を集大成したもの。百巻。
 亀井勝一郎
 (一九〇七年―六六年)評論家。東大在学中に共産青年同盟員として活躍、検挙投獄されて転向し、自我再生の道を模索。仏教に関心を示し、著『大和古寺風物誌』などがある。
 加山又造
 (一九二七年―)日本画家。現代の日本画家を代表する一人。日本芸術大賞などを受賞。
 嘉峪関
 明代に築かれた万里の長城の西端。甘粛省酒泉の西三十五キロに位置し、明の洪武五年(一三七二年)に馮勝将軍がこの地を選んで関を設けたのに始まる。その後、城壁、羅城、烽火台が作られ、一五六六年までに二つの城楼、四つの角楼、二つの敵楼が完成。大小あわせて十三の楼閣が現存し、清代には「天下雄関」と称えられた。
 河井寬次郎
 (一八九〇年―一九六六年)陶芸家。東京高等工業学校を卒業後、京都に移り五条坂に鐘渓窯を築いて独立。柳宗悦を知ってその民芸論に共鳴、浜田庄司らと民芸運動に挺身した。
 ガンジー
 (一八六九年―一九四八年)インドの政治家。若き日にロンドン留学、弁護士資格を得て帰国。南アフリカに渡ってインド人の市民権獲得運動を指導、非暴力抵抗運動を成功に導いた。一九一五年、インドに帰国後は大英帝国の植民地支配に抵抗し、度重なる投獄にも屈せず、インド独立を達成した。マハトマ(偉大な魂)と尊称されるが、狂信的なヒンドゥー主義者によって暗殺された。
 観世音菩薩
 『法華経』観世音菩薩普門品第二十五に説かれている。大慈悲心の体現者とされ、衆生救済のために三十三の化身を現じて法を説くとされる。
 カント
 (一七二四年―一八〇四年)ドイツの哲学者。批判哲学を樹立。著『純粋理性批判』『実践理性批判』など。
 漢の武帝
 (前一五六年―前八七年)前漢第七代の皇帝。前一四一年に即位し、内政を確立したあと、匈奴を漠北に追い、西域から安南、朝鮮半島を経略した。
 「キオス島の虐殺」
 トルコとギリシャの対立のなかで、キオス島の住民がトルコ軍によって虐殺される事件が起きた。その悲劇をテーマにして一八二三年―二四年に描かれた。
 伎楽飛天
 さまざまな楽器を演奏しながら空中を飛行する姿が描かれている。
 岸本英夫
 (一九〇三年―六四年)宗教学者。東大文学部宗教学宗教史学科を卒業してアメリカに留学、ハーバード大学に学んだ。帰国後、東大講師から戦後、教授に進み、宗教学宗教史講座を担当した。一九五四年、皮膚ガンを発して手術を繰り返したが、死と直面して「死とは別れのときである」との心境に達し、その闘病記『死を見つめる心』は広く読まれた。主著『宗教学』がある。
 『北国』
 戦後、一九四六年から三年間に主として同人詩誌などに発表した詩を収録した詩集。初版は一九五八年、東京創元社より出版。
 北杜夫
 (一九二七年―)東京に生まれる。本名・斎藤宗吉、医学博士。東北大学医学部を卒業後、慶大病院助手、斎藤病院医師をつとめる。一九六〇年、「夜と霧の隅で」芥川賞を受賞。作家に転進して『楡家の人びと』『白きたおやかな峰』『輝ける碧き空の下で』など話題作を発表。『どくとるマンボウ航海記』シリーズもある。
 契丹文字
 モンゴル系の遊牧民族、契丹が中国の五代初期、内外モンゴル及び満州の地を併合して遼を建国したさい、十世紀から十二世紀にかけて用いた文字。
 木原均
 (一八九三年―一九八六年)遺伝学者。東京に生まれ、北海道大学農学部を卒業。京大教授、国立遺伝学研究所長を歴任。コムギ類の細胞遺伝学的研究を行い、理学博士。文化勲章を受章。
 亀茲国
 中国の新疆ウイグル自治区にある天山南麓のオアシス都市・庫車周辺に栄えた古代王国。インドから中国への仏法東漸途上の要地で、周辺にはキジル石窟など仏教遺跡が多い。
 匈奴
 前三世紀から後五世紀にかけて漢族をおびやかした中国北方の遊牧民族。その首長を単于と称し、冒頓単于の時代に強盛となった。前二世紀末、漢の武帝時代に東西に分裂し、さらに後漢時代には南北に分裂して勢力を弱めた。西方史料のフンと同族とされる。
 玉門
  甘粛省の西北部、酒泉の西に位置する石油工業都市。解放後の一九五〇年代後半に新油田が発見され、大型石油コンビナートが建設された。
 玉門関
 前二世紀末、漢の武帝によって河西四郡が置かれたのに伴い、万里の長城の西端に設けられた関所。現在の敦煌市から西北約八〇キロに位置する。ちなみに関の位置は、時代によって移動し、隋・唐代には現在の安西の東に後退した。
 祁連山
 甘粛、青海両省の境に聳える山脈。古くは「南山」とも呼ばれ、この山麓や草原地帯に月氏や匈奴など遊牧民族が活躍した。最高峰は現名・団結峰(標高五八二七メートル)で、たんに祁連山といえばこの山嶺を指すこともある。
3  クールベ
 (一八一九年―七七年)フランスの画家。代表作は「石割り」「画家のアトリエ」など。
 『草の葉』
 アメリカの国民詩人ウォルト・ホイットマン(一八一九年―九二年)が一八五五年、初版を自費出版した詩集。初めは、たった十二篇の作品が無題のまま収録されたが、その後、版を重ねるたびに評判を呼び、死の前年に出した第九版では四百篇近い作品が収められた。みずみずしい青草の大地に生きる庶民への人間愛、新天地を求める開拓者たちの自由と民主の叫びを歌った。
 クシャン朝
 紀元一世紀、中央アジアのバクトリア地方から興り、やがて西北インドまで支配した古代王朝。中国の史書や漢訳仏典では「貴霜」あるいは「大月氏」と記される。初代クジュラ・カドフィセス王の後、一世紀後半にはヴィマ・カドフィセス王が立って強大となった。二世紀に入ってカニシカ王の時代、ガンダーラ地方に都を置いて版図を拡大し、大乗仏教が興隆した。
 屈原
 (前三四〇年頃―前二七八年頃)戦国時代に楚の王族として生まれた。讒言によって、追放され自殺した。愛国の正義の人として知られる。
 鳩摩羅什
 五世紀初頭、中国に来た西域の翻訳僧。原名はクマーラジーヴァといい、羅什三蔵とも呼ばれる。インド出身の貴族を父とし、亀茲国王の妹を母にクチャ(庫車)で生まれた。七歳で出家し、九歳の時に北インドの賓国に留学。帰国の途次、西域で須利耶蘇摩と出会い、大乗に転じる。四〇一年、後秦王・姚興に迎えられて長安入京、念願だった『法華経』など多くの大乗仏典を漢訳した。
 クメール
 カンボジア住民の大部分を占める民族。言語はビルマ語系で、仏教徒が多い。古くはインドシナ中南部を中心に統一王国を形成、十二世紀にアンコール・ワットおよびアンコール・トムを建設した。
 クラーク
 (一八二六年―八六年)アメリカの化学者、教育家。北海道開拓使に招かれ、一八七六年(明治九年)に来日。札幌農学校の教頭になり、内村鑑三や新渡戸稲造ら当時の学生に深い影響を与えた。
 黒田清輝
 (一八六六年―一九二四年)洋画家。鹿児島生まれ。フランスに渡り、コラン等に学ぶ。帰国後、白馬会を創立。フランス印象派の外光描写の風を伝えた。
 化城の譬喩
 一人の導師が人々を率いて宝処に向かった。道は険悪で、非常に遠かったので、人々は疲れ、引き返そうという人さえあった。導師は一城を化作して人々を休息させ、元気を取り戻させてふたたび進み、ついに宝処に至らしめた。宝処は法華経、化城は爾前権教に譬えている。
 月牙泉
 敦煌南郊、鳴沙山中にある三日月形の泉湖。史書によると、三千年来この泉の水は涸れたことがないという。
 元寇
 鎌倉時代、中国の元軍が二度にわたり日本に来襲したこと。一二七四年(文永十一年)、元軍は壱岐、対馬を侵し博多に迫ったが敗退。続いて八一年(弘安四年)にも来襲したが元軍は大敗。蒙古襲来ともいう。
 玄奘
 (六〇二年頃―六六四年)唐代の翻訳僧。三蔵法師とも呼ばれ、のちに『西遊記』のモデルとされた。国禁を犯して長安を旅立ち、西域諸国を経由してインドに達した。帰国後、漢訳した仏典は一説に七十六部千三百四十七巻にも及んだ。
4  小泉信三
 (一八八八年―一九六六年)経済学者、教育家。慶応義塾大学教授をつとめ、のち塾長。戦後、皇太子の教育にあたる。著『共産主義批判の常識』など。
 杭州
 中国浙江省の省都。古来、江蘇省の蘇州とともに「地上の天堂」と呼ばれ、大運河の起点として栄えた。プラタナスの並木、市街地の西にある西湖が、この街の美しさに華を添えている。文人に愛された都。
 後秦王・姚興
 (三六六年―四一六年)中国の五胡十六国時代、後秦の第二代皇帝。初代姚萇の皇子として活躍、三九四年には前秦の苻登を滅ぼして長安に都を置く。九八年には東晋の洛陽を攻略、中原の覇者となった。皇子時代から仏教を信奉し、四〇一年には後涼の都・武威を攻め、姑臧城に滞留していた鳩摩羅什を長安に迎え入れた。以後、仏典の訳経、造寺の業を興し、大乗仏教を国中に広めた。
 幸徳秋水
 (一八七一年―一九一一年)社会主義者。中江兆民に師事、「万朝報」の記者として日露戦争に反対。渡米して無政府主義に転向したが、帰国後に大逆事件の頭目と目され刑死。
 『紅楼夢』
 中国で清の乾隆年間に成立した長編小説。全体は百二十回より成り、前八十回は曹雪芹の作、後四十回は高蘭墅の続作といわれる。
 顧愷之
 (三四五年頃―四〇六年)東晋の画家。晋陵郡無錫県(江蘇省)の人。字は長康。博学で才気あふれ、散騎常侍となった。人物画をよくし、とくに目を重視、当時「三絶」と称された。
 故宮博物院
 中国の首都・北京市内のほぼ中央を占める紫禁城(故宮)内の博物館。一九一一年の辛亥革命によって清朝が倒れた後、最後の皇帝(宣統帝)溥儀が故宮を脱出したのに伴い、民国政府は一九二五年から故宮博物院として一般に公開した。第二次大戦後は古物陳列所も併合、九十一万点余の文物が収蔵されている。台湾にある同じ名称の故宮博物院では国共内戦のさい、北京から流出した文物を保管する。
 黒龍江
 中国東北部の一級行政区。省都はハルビン(哈爾浜)市。北は黒龍江(アムール河とも)、東はウスリー江を境にロシアと国境を接する。
 故城址
 敦煌県城は漢の武帝の時代に建てられ、以後、さまざまな変遷を経て移築された。現在は、明代初めまで県城として用いられた故城址が、わずかに残存する。
 「五台山図」
 第六一窟の主室奥壁(西壁)に、五台山(山西省)中台を中心にして東・北・西・南の五台が聳え、その間に五色の雲上に多くの変異が描かれる。中段の山々には堂塔伽藍が点在、下段には参詣者と道中風景が描かれている。十六大寺など大小百七十以上の堂塔伽藍が描かれ、巡礼や五台山詣りの名勝図絵としての性格を持つ。
 国家神道
 国家権力の保護のもと、国教的な性格をもった神社神道のこと。日本での明治維新以降、軍国主義・国家主義と結びついて推進された。第二次大戦後、GHQ(連合軍総司令部)の指令により国家の保護を失った。
 ゴッホ
 (一八五三年―九〇年)オランダに生まれ、後半生をフランスで送った後期印象派の画家。強烈な色彩と激情的な筆致の絵を描き、野獣派に影響をあたえる。
 呉道子
 (六八〇年頃―七五〇年頃)盛唐の画家。呉道玄ともいう。陽〓県(河南省)の人。初め書を学んだが、のち画に転じ、玄宗に仕えて内教博士となる。人物、神仙、仏釈、龍を描き、画聖と称された。
 小林秀雄
 (一九〇二年―八三年)昭和期の文芸評論家。日本文学の再検討、創造的批評に健筆をふるった。文化勲章を受章。著『私小説論』『本居宣長』などがある。
 ゴビ砂漠
 ゴビ(戈壁)とはモンゴル語で、砂礫を含む「荒れ地」の意味。広義にはモンゴル高原から中国の甘粛省にかけての一帯に見られるが、狭義にはモンゴル南東部の荒れ地をゴビ砂漠と呼ぶ。なお、甘粛省の武威から張掖、洒泉、安西、敦煌に至る河西回廊地帯にはオアシス(緑州)が点在し、ゴビ砂漠には含まれない。ただし、途中に「戈壁灘」もあるが、この場合は「風の強い荒れ地」を意味し、丈の低い草木も生えている。
 戈壁灘
 荒れ地のこと。本来「ゴビ」はモンゴル語で半ステップ状の荒れ地を指し、完全な砂漠を意味しない。
 崑崙
 中国古代の伝説・神話をもとにした想像上の高山。その麓から「崑崙の玉」を産するという。現在のチベット高原と新疆ウイグル自治区の境を東西に走る大山系。
5  〈さ行〉
 西行
 (一一一八年―九〇年)平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名・佐藤義清といい、鳥羽上皇に仕える北面の武士だったが、無常を感じて僧侶となる。高野山、晩年は伊勢を本居に各地を旅し、多くの述懐歌を残した。『山家集』など。
 「ザゴルスク博物館
 ザゴルスクはロシアの西部、モスクワの北東七〇キロに位置する都市。古くからミニアチュールと木製玩具の製作が盛んで、観光客も多数訪れる。ザゴルスク歴史美術博物館には十七世紀のフレスコ画、十八世紀のイコンなどを多く保存する。
 薩埵太子本生
 薩埵太子は、釈尊が過去世において菩薩行を修行していたときの名。本生は本生譚のことで、釈尊の前世での種々の行業を説いたものを意味する。『六度集経』『賢愚経』『金光明最勝王経』などに出ている。
 「さまよえる湖」
 中国の新疆ウイグル自治区、タリム盆地の東端にあったロプ・ノール(羅布泊)のこと。二千年前の漢代には「塩沢」「蒲昌海」などと呼ばれたが、その位置をめぐって十九世紀末、ロシアのプルジェワリスキーとドイツのリヒトホーフェンとの間で論争が起きた。スウェン・ヘディンは四次にわたる中央アジア探検の結果、この湖が千五百年を周期として東西に移動する「さまよえる湖」であることを確認したという。
 サルトル
 (一九〇五年―八〇年)フランスの哲学者、作家。実存主義を提唱した。『存在と無』『自由への道』『嘔吐』などの著書で知られる。
 三危山
 敦煌市内から南へ約五〇キロ、鳴沙山の東南に対面する形で連なる岩山。三つの奇峰が危うく墜ちそうな姿で聳えているので「三危」の名があると伝えられる。三峰のうちの一つは、標高一九四七メートルを測る。この山脈は現在、玉門系の老年期に差しかかっており、暗褐色の岩肌には鉱物質が多く含まれているので、夕日を浴びると金色に光り輝くことがあるという。
 『三国志』
 中国で魏・呉・蜀の三国に分立した時代の史書。晋の陳寿撰『三国志』六十五巻に基づいた明初の歴史小説『三国志演義』は羅貫中の作と伝えられ、中国四大奇書の一つに数えられる。蜀漢の劉備・関羽・張飛が桃園に義を結ぶのに始まり、呉の孫皓が降伏するまでの事跡が物語られる。日本では江戸時代から湖南文山訳『通俗三国志』五十巻によって親しまれ、戦後は吉川英治の小説『三国志』が広く読まれた。
 三車火宅の譬喩
 家が火事であることに気づかない子どもたちを救い出すために、父である長者が方便として羊車・鹿車・牛車の三車を示して外に誘い出した。無事に外に出たときにはそれらに勝る大白牛車を与えた。羊車・鹿車・牛車の三車は声聞・縁覚・菩薩の三乗、大白牛車は一仏乗、長者は仏、子どもたちは一切衆生、火宅は苦悩に満ちた娑婆世界のことを譬えている。
 三潭印月
 明代、西湖のなかに造られた人工島。西湖の美を代表する西湖十景の一つである。
 シアヌーク
 カンボジアの国王。一九二二年、カンボジアの王家に生まれ、十八歳で国王に即位。フランスから独立を勝ち取るため先頭に立ち、国民から敬愛された。一九五三年に独立、その二年後に王位を父に譲位したが、一九六〇年、父王が死去してから王位を空席とし、みずから国家元首に就任。一九七〇年、米軍の支援を受けたロンノル首相によって元首を解任されると北京に亡命していた。一九七五年当時の肩書はカンプチア民族統一戦線議長。
 志賀直哉
 (一八八三年―一九七一年)大正・昭和期の作家。学習院時代から内村鑑三の教会に通い、やがて父親と対立、のち東大に進んだが中退。武者小路実篤らと雑誌「白樺」を創刊。小説『城の崎にて』は一九一七年、父との和解後に「白樺」に発表された。電車にはねられ怪我をした主人公が養生のために但馬の城崎温泉に出かけ、そこでの静かな生活のなかで生と死の問題を考えるという心境小説の代表作。
 「漆胡樽」
 一九四七年(昭和二十二年)五月十五日発行の「文学雑誌」第一巻第三号に発表された詩。戦後、第一回の正倉院展に展観された「漆胡樽」について、この不思議な器物が一個の隕石に見えたという。なお作者は五〇年、詩と同じ表題の短編小説を「新潮」四月号に発表している。
 司馬遷
 (前一四五年頃―前八六年頃)前漢の歴史家。武帝の時代、父のあとを継いで太史令となる。李陵を弁護して武帝の怒りにふれ宮刑を得るが、奮起して『史記』百三十巻を完成した。
 四門遊観
 釈尊が太子の時、城門の四つの門から遊びに出て、人身に生・老・病・死の四苦があることを知り、出家を決意したということ。「四門出遊」ともいう。
 「捨身飼虎図」
 薩埵太子が二人の兄とともに竹林で遊んでいた時、七匹の子を産んで飢え苦しむ虎を見つけた。これを哀れんだ太子は、わが身を捨てて虎の母子を助けたという。法隆寺の玉虫厨子にも描かれるが、敦煌莫高窟でも好んで描かれたテーマで、第二五四窟(北魏)のほかにも第四二八窟(北周)、第三〇二窟(隋)など、初期の北魏から隋にかけて七例が知られる。
 写真展覧会
 一九七五年八月、東京・銀座で開催された世界写真展「人間とは何か」シリーズの第三回展。ドイツの哲学者カール・パーベク博士の企画構成によるもので、第一回展は一九六四年、第二回展は六八年に開かれ、全世界に異常な反響を呼んだ。第三回展は「明日はあるか」というテーマにこたえて、世界の写真家百七十人、四百三十一点が編集構成された。
 シャリアピン
 (一八七三年―一九三八年)ロシアの声楽家。はじめ教会の聖歌隊や地方の小歌劇団で歌っていたが、しだいに名声を高めてペテルブルクやモスクワの大歌劇場で歌い、やがて世界的なバス歌手として活躍した。一九二二年以降、ロシアに戻らず、ニューヨークでの演奏会を最後に引退。一九三六年に来日し、その二年後にパリで没した。
 周恩来
 (一八九八年―一九七六年)中国の政治家。フランス留学中の一九二二年、中国共産党に入党。長征にも参加し、毛沢東とともに中国の革命に大きい役割を果たした。新中国の成立後から死去までの二十六年間、政府総理として内政・外交の実務にあたった。
 重慶
 四川省の東部、長江と嘉陵江との間にある中国西南の都市。三千年以上の歴史をもち、春秋時代には巴国の都だった。日中戦争当時、国民党臨時政府の首都が置かれた時期がある。現在は商工業都市として発展している。
 十二支
 陰陽家の暦法で、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二の生物にかたどり、方位・時刻に配する。また、十干と合わせて年月を示すのに用いる。
 『十八史略』
 中国の十七史に宋史を加えた十八史を摘録して読本とした史書。元の曾先之撰・元刊本は二巻、明の陳殷による音釈本七巻などがある。
 酒泉
 甘粛省西北部の都市。前二世紀末、漢の武帝のとき、シルクロード確保のため禄福県を置き、酒泉郡(河西四郡の一つ)の中心とした故地。五胡十六国の時代、初め敦煌に置かれた西涼の都が酒泉に移された。隋以降は一時、酒泉郡を粛州としたが、のち唐の初めに県名を酒泉と改めた。南西にある文殊山石窟は、五世紀にさかのぼる仏教遺跡とされている。
 小雁塔
 西安市内の薦福寺に立つ塔。唐の景龍元年(七〇七年)、義浄がインドから持ち帰った経典を収納・訳経の場として建立された。当初は十五層だったが、現存するのは十三層、四三・三メートル。
 『上宮聖徳法王帝説』
 上宮・聖徳太子の伝記。百済からの仏教伝来を欽明天皇の戊午の年(五三八年)十月十二日とするなど、『日本書紀』とは異なる所伝として注目される。
 生死不二
 生きることと死ぬことは、生命の二つの側面だが、再往は一体であることをいう。「不二」とは「二而不二」の意で、生も死も本然として生命それ自体にそなわっている働きをいう。
 「諸行無常」
 仏教の根本思想で、万物は常に流転し、少しも常住しないという意。出典は『涅槃経』巻十四に「諸行無常・是生滅法(諸行は無常にして、是れ生滅の法なり)」という。
 徐松
 (一七八一年―一八四八年)中国清代の史学者。北京の人。新疆イリ(伊犁)地区に流されたのをきっかけに、地理研究と文献考証により『西域水道記』などを著した。
 女真文字
 ツングース諸語の一つ、女真語を書き表す文字。女真語を使った女真族は中国の東北地域に、一一一五年から一二三四年まで存続した金朝を建国した民族。
 徐悲鴻
 (一八九五年―一九五三年)中国の画家。江蘇省宣興の人。肖像画家だった父に幼少より絵画を学び、パリに美術留学。帰国後、北京国立芸術学院院長、新中国成立後は中央美術院院長として活躍、中国絵画の現代化に大きい役割を果たした。洋画家として知られたが、中国伝統の水墨画も描き、とくに躍動的な馬の絵は有名だった。
 シルクロード
 絹の道の意。ユーラシア大陸を横断する隊商路。この道を通って中国の特産物であった絹が、西方世界に伝えられたところからこの名がつけられた。かつては貿易の幹線であり、東西文化交流の大動脈であった。
 『しろばんば』
 野草の匂いと陽光みなぎる伊豆湯ヶ島の自然のなかで過ごした著者自身の少年時代を描いた自伝小説。一九六〇年から六二年にかけて「主婦の友」に連載、同年、中央公論社より刊行された。
 辛亥革命
 一九一一年(辛亥の年、明治四十四年)十月に武装蜂起、翌一二年に清朝を倒し、中華民国を成立させた革命。
 岑参
 (七一五年―七七〇年頃)唐の詩人。西域に赴き、辺塞詩人として有名。
 『水滸伝』
 中国の長編小説で、四大奇書の一つに数えられる。宋末の「宣和遺事」に基づき、宋の徽宗の世に起こった水滸(水辺のほとり)の群盗・宋江以下百八人の事跡を脚色した物語。作者は諸説あるが不明。
 杉山寧
 (一九〇九年―九三年)日本画家。数多くの傑作を発表してきた。エジプト、中国、トルコなど海外の風物などを描いた作品も多い。
 鈴木大拙
 (一八七〇年―一九六六年)仏教学者。学習院・大谷大学教授をつとめ、文化勲章を受章。禅と念仏を研究し、アメリカで教えを広めた。著『禅思想史研究』など。
 スタイン
 (一八六二年―一九四三年)ブダペスト生まれのハンガリー人だが、一九〇四年に英国籍を取得した探検家。ロンドン、オックスフォード、ケンブリッジの各大学に学び、当時の英領インドに渡って中央アジア探検に乗り出す。敦煌を訪れたのは第二次(一九〇六年―〇八年)、第三次(一九一三年―一六年)探検のさいで、取得した敦煌文書など数千点は現在、大英図書館と大英博物館に収蔵。
 西域
 中国より西方の諸国の総称。広義では中央アジア、小アジア、エジプト方面からネパール、インドなど。狭義では東トルキスタンのオアシス都市国家群をいう。
 西夏
 李元昊が中国北西部に建てた国(一〇三八年―一二二七年)。宋代には大夏を国名として栄えた。仏教を保護し、独自の文化を発展させた。
 西湖
 杭州市街の西郊に位置する周囲十五キロの湖で、景観の美しさで名高い。
 西太后
 (一八三五年―一九〇八年)清朝の文宗の妃。満族の名家に生まれて紫禁城に入り穆宗を産んだ。徳宗の時、皇太后として政権を専らにし、戊戌政変や義和団事件にさいして反動政策をとり清朝滅亡の因をなした。
 成都
 四川省の省都。古来、政治、経済、交通の要衝として栄え、三国時代には蜀漢の都が置かれた。
 『青年の譜』
 一九七〇年十二月五日に作詩した「青年の譜」をはじめ、翌七一年九月の「革命の河の中で」など、著者が十代の青春時代につづった詩から一九七〇年代までの初期詩編が収められている。初版は読売新聞社から発刊され、引き続いて一九八〇年代の初期までにつづられた詩歌・贈言「広宣の詩」と併せて本全集第39巻に収録された。
 斉白石
 (一八六〇年頃―一九五七年)中国の画家。湖南省湘潭県の生まれ。名は璜、白石は号。独力で画を学び、売画で生活した。四十歳まで郷里を出ず、五十七歳から北京に定住。自由に感興を表現する水墨画や淡彩画を描き、書や篆刻にも巧みだった。
 セザンヌ
 (一八三九年―一九〇六年)フランスの画家。代表作には「水浴」「赤いチョッキの少年」「サント・ヴィクトワール山」などがある。二十世紀絵画の祖といわれる。
6  創価女子学園
  一九七三年に創立された。当初は女子生徒だけだったが、一九八二年から男女共学となり、名称は関西創価中学校・高等学校となった。
 蔵経洞
 敦煌莫高窟のなかにあり、洞窟から貴重な数万点の古文書類が二十世紀初頭に発見された。現在の編号では第一七窟。
 「宋国夫人出行図」
 第一五六窟(晩唐)の主室、北壁腰壁から東壁左側腰壁まで続く。宋国夫人とは張議潮の妻で「宋国河内郡夫人」に勅封された人物。行列の前方には、四人の軽業師と赤い服を着た力士、六人の楽隊、四人の舞人が描かれる。その後ろに儀仗隊、行李車、数人の侍女、中央部分に騎馬姿の女官と楽隊、そして白馬にまたがった宋国夫人がひときわ大きく描かれ、その榜題に「宋国河内郡夫人宋氏出行図」と墨書されている。
 蘇東坡
 (一〇三六年―一一〇一年)宋代の詩人、蘇軾のこと。字は子瞻、東坡居士と号す。眉山(四川省)の小地主の家に生まれ、寺子屋に学んで二十二歳で科挙の進士科に及第。官界に入るが王安石と意見が合わず、地方官を歴任。新法党におとしいれられて黄州に追われた時、有名な「赤壁賦」を残した。のち礼部尚書に昇進したが、またもおとしいれられ、海南島に流された。唐宋八大家の一人。
 蘇武
 (前一四〇年頃―前六〇年)漢の武帝に仕え、匈奴の地に赴く。抑留され、十九年後に長安に帰った。
 ソ連訪問
 欧州訪問のあと、一九七五年五月二十二日から三十日まで第二次訪ソ。モスクワのクレムリンを訪れ、コスイギン首相と会見。モスクワ大学で講演、名誉博士号を贈られる。
7  〈た行〉
 第一六窟
 (晩唐)伏斗形窟頂、中心に仏壇を設け、壇上の背屏は窟頂と連続している。甬道の南壁に西夏の説法図、下部に供養菩薩画像。甬道北壁にも西夏の説法図と供養菩薩画像があり、その底層が第一七窟・蔵経洞の入り口にあたる。
 第一七窟
 (晩唐)伏斗形窟頂、北壁に床座を設ける。いわゆる「蔵経洞」で、北壁には晩唐の双樹図、西側に侍女像、東側に比丘尼像が各一体描かれている。
 第二三窟
 (盛唐)前室の前半は崩壊しているが、主室は伏斗形方窟で、天井西面に弥勒経変を表すほか、他の壁面各部に盛唐の法華経変を描く。まさに「法華窟」と呼ばれるゆえんである。
 第三七窟
 (西夏)伏斗形窟頂の小さい窟。前窟の西・北壁に西夏時代の壁画が一部残存。主室の窟頂藻井部に四弁花意匠、西・北・南壁に花卉図案が残る。
 第六一窟
 (宋代)間口十三メートル、奥行き十四メートル、高さ十メートルの莫高窟では最大規模の伏斗形窟。この窟は、九四六年から九八〇年(五代・宋)にわたり帰義軍節度使の任にあった曹元忠と、その夫人〓氏が施主として造営したもの。須弥壇の背後西壁に五台山図が描かれ、南北両壁に各五幅ずつ合わせて十幅の経変図が表されている。
 第九六窟
 (初唐)莫高窟で最大の高さ三十三メートルに達する倚坐の大仏を収める。則天武后の延載二年(六九五年)に禅師霊隠らによって勧進造営されたという。晩唐、宋初とたびたび補修されただけでなく、清代・民国にも重修された。とくに民国十七年から二十四年(一九二八年―三五年)に「九層楼」として再建したとき、拙劣な改作によって当初の面影が失われた。北大像と愛称される。
 第九八窟
 (五代)後唐の同光年間(九二三年―二五年)頃、敦煌の支配者だった曹議金によって造営された。間口十二・八メートル、奥行き十五・二メートルの大窟で、五代を代表する石窟。主室西壁に大画面の労度叉闘聖変を描き、南壁に法華経変など、北壁に薬師経変など、東壁に維摩経変を表している。また東壁の腰壁南北に回鶻公主、于●王李聖天と王后曹氏の供養像が描かれ、注目される。
 第一三〇窟
 (盛唐)莫高窟に現存する二大像のうち、高さ二十六メートルの南大像を収める大窟。『莫高窟記』および敦煌文書などの資料によれば、唐の開元年間(七一三年―四一年)に僧処諺と郷人馬思忠らが勧進して造立したという。門口甬道の南北壁下部に、それぞれ晋昌郡太守楽庭●および都督夫人太原王氏と、その娘たちの供養像が描かれ、注目される。
 第一三一窟から第一三六窟
 いずれも元来は唐窟だが、損傷のため宋代・清代の重修を受けている。
 第一五六窟
 (晩唐)前室と主室の二室よりなり、主室は間口約六・二メートル、奥行き約六・二メートルの伏斗形方窟。前室の北壁には『莫高窟記』の墨書銘が書かれ、主室の南北壁と東壁腰壁に「張議潮出行図」と「宋国夫人出行図」が描かれ、晩唐期の記念碑的意義をもつ石窟となっている。
 第一七二窟
 (盛唐)前室と主室よりなり、主室は伏斗形窟頂の方窟。西壁に平頂で間口の広い龕を開き、本尊仏倚像と二比丘四菩薩の塑像を置く。南北両壁に、それぞれ観無量寿経変を表す。東壁は、窟口をはさんで左右に文殊・普賢菩薩などを描く。
 第一九四窟
 (盛唐)伏斗形窟頂、西壁に盛唐期の一龕を開く。前室・甬道に晩唐の壁画が残り、主室の南壁に維摩経変、北壁に観無量寿経変など盛唐期の壁画が残存する。
 第二二〇窟
 (初唐)間口五・六七メートル、奥行き五・一六メートルの伏斗形方窟。この窟の壁画は、もと中唐・晩唐・五代・西夏に重ね描きされていたが、一九四八年に表層の千仏が剥離されると、西方浄土変、東方薬師経変、維摩経変相など初唐期を代表する大型の経変が現れた。また東壁と北壁から唐の貞観十六年(六四二年)の墨書題記が見いだされ、この窟が初唐期の基準作とされるにいたった。
 第二五四窟
 (北魏)長方形プランの後方に中心方柱をはりだした塔廟窟。南壁に「薩埵太子本生図」など、北壁に「シビ王本生図」などが描かれている。
 第二六三窟
 (北魏)前部に人字披窟頂、後部に中心龕柱のある初期窟。中央部に供養菩薩画像のあるほか、窟頂に供養天人画像、南壁下部に北魏の供養者画像、北壁に供養菩薩画像など見られる。
 第二八五窟
 (西魏)伏斗形窟頂をもつ方形窟。北壁の供養者列像題記に「大魏大統四年(五三八年)」「大魏大統五年(五三九年)」の紀年銘があり、莫高窟に現存する最古の銘文をもつ重要窟である。
 第二九〇窟
 (北周)中心方柱のある塔廟窟。人字披頂(切妻形の天井)に垂木を表現せず、仏伝図を描いている。
 第三三二窟
 (初唐)前部は人字披窟頂、後部は平頂で中心方柱がある。西壁に一龕を開く。主室西壁に塑像涅槃仏一体・損傷菩薩二体が残存。南壁後部に涅槃経変、北壁後部に維摩経変、東壁門口北側に霊鷲山説法図などが残る。なお、この窟にあった「大周李懐譲重修莫高窟仏龕碑」の拓本は現在、北京大学図書館に所蔵される。
 第三六二窟
 (五代)伏斗形窟頂。この窟の壁画は、すべて毀損している。
 第四二〇窟
 (隋)伏斗形窟頂の方窟で、間口五・五メートル、奥行き六・二メートル、西壁と南・北壁に各一龕を開く。西壁中央の正龕をはさんで維摩経変相が描かれるほか、窟頂の東・西・南・北面に『法華経』の序品第一、譬喩品第三、信解品第四、観世音菩薩普門品第二五など「法華経変」が多く表されている。とくに東面の普門品変相は通称「西域隊商図」として知られる。
 第四二七窟
 (隋)長方形プランの後部に中心柱を置く塔廟窟。窟内四壁の頭部に十五体の飛天が描かれ、そのうち三体の伎楽天は楽器を手に演奏している。
 第四二八窟
 (北周)間口十・八メートル、奥行き十三・七五メートルに達し、中心方柱のある塔廟窟としては規模が最も大きい。方柱四面にそれぞれ大龕を開き、彩塑仏坐像と二比丘・二菩薩を置く。四壁の壁画は、東壁の窟門両側に釈尊の前世物語である本生図、南・西・北壁には区画をつくって仏伝にまつわる情景を描いている。
 大雁塔
 中国陝西省の西安市内にある慈恩寺の塔。唐の永徽三年(六五二年)、玄奘将来の経像を収めるために創建された。当初は五層だったが兵火で破壊され、現在は七層、全高六十四メートルの●塔となっている。
 大逆事件
 一九一〇年(明治四十三年)、明治天皇暗殺計画の名目で社会主義者・無政府主義者ら二十六人が大逆罪として起訴され、そのうち二十四人に死刑宣告。翌年一月、幸徳秋水ら十二人が処刑された。
 大同石窟
 中国山西省の大同西郊にある石窟寺院。雲崗石窟、大同石仏寺とも呼ばれる。武周川に臨む岩壁に北魏時代の四六〇年代から造営され、大小五十三の石窟が現存する。
 ダ・ヴィンチ
 (一四五二年―一五一九年) イタリア・ルネサンス期の画家、建築家、彫刻家、詩人。思想家としても傑出し、自然科学でも多くの業績を残した。代表的な絵画に「モナ・リザ」「最後の晩餐」「聖アンナと聖母子」など。フィレンツェ、ミラノ等で活躍後、晩年はフランソア一世の招きに応じてフランスへ移り、アンボワーズ近くのクルー城で没した。
 高碕達之助
 (一八八五年―一九六四年)大正・昭和期の実業家、政治家。大阪府下の農家に生まれ、農商務省水産講習所を卒業。東洋製缶会社を創立して支配人となる。戦時中、満州重工業開発会社の総裁となり、終戦時は在満日本人会会長として満州引き揚げに尽力。戦後、衆議院議員、経企庁長官、通産大臣など歴任。一九六二年、経済使節団長として訪中、廖承志との間で「日中総合貿易に関する覚書」(LT貿易)に調印、国交回復に貢献した。
 高階秀爾
 (一九三二年―)東京に生まれる。東大に学び、フランスに留学して近代美術史を専攻。東大教授を経て国立西洋美術館長をつとめる。著『ルネッサンスの光と闇』など。
 高橋由一
 (一八二八年―九四年)明治初期の洋画家。江戸に生まれ、狩野派の日本画を志すが洋画に転じ、川上冬崖に師事。実技を英人ワーグマンに学んだ。
 高見順
 (一九〇七年―六五年)昭和期の作家。本名・高間芳雄。東大文学部に進んだが政治的に左傾、治安維持法違反で検挙される。のち転向して釈放され、太平洋戦争中は陸軍報道班員としてビルマ、中国で過ごす。戦後は久米正雄、川端康成らと「鎌倉文庫」を創立。『いやな感じ』『激流』などの作品で不安の時代の自己を描き出した。晩年はガンにおかされ、詩集『死の淵より』、死の直前まで書きついだ『高見順日記』を残した。
 滝山祭
 創価大学の学生寮「滝山寮」の名にちなんで寮生たちを中心に行われた催し。第一回は一九七二年七月六日、開学二年目の創大構内で行われた。
 タクラマカン砂漠
 中国の西北部、タリム盆地の中央部にある砂漠。漢字で「塔克拉瑪干」と表記され、ウイグル語で「入ると出られない」との意。日本の国土に匹敵する広さをもち、大半は細かい砂から成っている。
 玉虫厨子
 奈良・法隆寺に伝わる漆塗りの厨子。透かし金具の下に玉虫の翅鞘を敷いたことから、この名がある。須弥座両側面に「捨身飼虎」「施身聞偈」の本生図が描かれ、仏法への献身を表している。国宝。
 俵屋宗達
 生没年不詳。桃山―江戸初期の画家。京都の上層町衆出身で、早く「俵屋」を屋号とする絵屋あるいは扇屋を興して主宰した。日本独自の水墨画を確立。
 治安維持法
 日本で治安維持を名目に、国体の変革・私有財産制度の否認を目的とする結社活動及び個人的行為に対して罰則を定めた法律。一九二五年(大正十四年)公布、一九二八年(昭和三年)改正、さらに四一年に大幅改正され、軍国主義政府によって言論・思想・信教の自由が蹂躙された。敗戦直後の四五年(昭和二十年)十月、廃止された。
 チェホフ
 (一八六〇年―一九〇四年)ロシアの小説家、劇作家。ヒューマニズムの立場で人間心理を追求する劇を創始した。戯曲「三人姉妹」「桜の園」などの作品がある。
 チャイコフスキー
 (一八四〇年―九三年)ロシアの作曲家。ドイツ・ロマン派の系統をひくとともに、スラブ的な特性も示す。交響曲「悲愴」、バレエ音楽「白鳥の湖」「胡桃割人形」などの作品がある。
 「中国敦煌展」
 東京富士美術館・「中国敦煌展」実行委員会の主催で一九八五年十月に同美術館で開催された。つづいて福岡、長野、奈良、静岡でも行われ、シルクロードの貴重な文化遺産が紹介された。
 中国訪問の旅
 一九七五年四月十四日から二十二日までの第三次訪中のこと。北京、武漢、上海を訪問した。第一次訪中は一九七四年五月二十九日から六月十六日まで、香港から北京、西安、上海、杭州など訪問。第二次訪中は同年十二月二日から六日まで、北京を訪問、周恩来総理、鄧小平副総理らと会見した。
 「張議潮出行図」
 第一五六窟(晩唐)の主室、南壁腰壁から東壁南側にかけて描かれている。沙州(敦煌)の将軍・張議潮は八四八年(大中二年)、吐蕃の内乱に乗じて決起、河西一帯からチベットの勢力を駆逐した。その功により、彼は唐朝から帰義軍節度使に封ぜられた。この出行図は全長八・五五メートル、描かれる人馬百余を数える規模壮大なもので、威風堂々たる陣列となっている。
 張騫
 (?―前一一四年)漢の武帝が匈奴を討つために月氏への使者として派遣した。
 長江
 チベット高原の北東部に発し、中国大陸の中央部を西から東へ流れる大河。全長約六三八〇キロメートル。欧米や日本では揚子江の名でも知られ、世界三大河流の一つ。
 成吉思汗
 (一一六七年―一二二七年)モンゴル帝国の創設者。名は鉄木真。一二〇六年、皇帝位につき成吉思汗と号した。ジンギス汗とも呼ばれる。
 辻邦生
 (一九二五年―)東京に生まれ、東大仏文学科で渡辺一夫に師事する。立教大学助教授、東京農工大教授、学習院大学教授を歴任。作家として『安土往還記』『背教者ユリアヌス』などの作品がある。
 ツルゲーネフ
 (一八一八年―八三年)ロシアの作家。人間主義の立場から写実的な自然描写と鋭敏な心理観察に特色がある。作『猟人日記』『父と子』など。
 鉄斎
 (一八三六年―一九二四年)文人画の代表的作家。姓は富岡、名は猷輔、後に百錬、字は無倦、号は鉄斎のほかにも鉄崖、鉄史があった。京都に生まれ、詩文に通じ、書を能くする。その画業は風景、花鳥、人物などを描き、晩年にいたって水墨と彩色のいずれでも独創的な様式を生みだした。
8  天山山脈
 アジアの屋根といわれるパミール高原の北から東へ走る大山脈。中央アジアのタジキスタン、キルギスタン、カザフスタンから中国の新疆ウイグル自治区の東端にまで達する。東西の全長約二五〇〇キロ、南北の幅四〇〇キロもあり、平均標高三五〇〇から五〇〇〇メートルの高峰が連なる。最高峰はポベーダ(勝利)峰で七四三九メートル。古来、北側の天山北路にステップ・ルート、南側にはシルクロードのオアシスが繁栄した。
 展子虔
 生没年不詳。中国・隋代の宮廷画家。もと渤海(山東省)の人。北周、北斉を経て隋の文帝に仕え、朝散大夫、帳内都督となった。主に寺院壁画の制作に従い、人物・山水をよくし、とくに宮殿車馬の図を得意としたと伝えられる。
 『天平の甍』
 天平の昔、日本仏教に戒師をもたらすため唐の高僧鑒眞(鑑真)を招こうとして、遣唐船で入唐した五人の留学僧の物語。安藤更生著『鑑真大和上伝の研究』をもとに、日中間の古代文化史上の交流を描いた歴史小説。一九五七年に「中央公論」誌上に連載され、同年、刊行された。中国語訳は六三年、北京作家出版社より刊行された。
 トインビー
 (一八八九年―一九七五年)イギリスの歴史家。独自の史観から鋭い文明批評を展開した。主著に『歴史の研究』など。著者との対談『二十一世紀への対話』は、本全集第3巻に収録。
 『唐詩選』
 七巻。唐代の詩四百余首を収録。
 東周の都
 中国古代の周王朝(前一〇五〇年頃―前二五六年)が前七七一年に一度滅び、前七七〇年に東の成周洛邑(今の河南省洛陽市)において再興された。前七七一年を境にして、それ以前は都が今の西安西郊にあったので「西周」時代と呼ぶのに対し、それ以後は都が東の洛陽に移ったので「東周」時代(春秋戦国時代とも)と呼ぶ。
 鄧小平
 一九〇四年―九七年)四川省広安の人。十六歳の時に渡仏、以後、中国革命に従事。文化大革命のさい、一度失脚するが、その実務能力をかわれ、副総理に返り咲く。一九七六年の天安門事件でふたたび解任されたが、毛沢東死後の四人組逮捕によってまた復職。以後、最高実力者として改革・開放路線を推進した。
 唐の玄宗
 (六八五年―七六二年)唐の第六代皇帝。姓名は李隆基、玄宗は廟号。七一二年に即位後、当初は諸制度を改革、生産を奨励して経済・文化の最盛期を迎え、開元の治と称された。しかし晩年、楊貴妃を寵愛して安禄山の乱を招き、みずから四川へ脱出して子の李亨(粛宗)に譲位した。以後、唐朝は下降の一途をたどる。
 ドーミエ
 (一八〇八年―七九年)フランスの画家、版画家。民衆の日常生活を描いた油彩画や政治風刺の石版画で知られる。
 ドガ
 (一八三四年―一九一七年)フランス印象派の画家。若くしてイタリア各地を訪れ、ルネサンス美術に傾倒する。帰国後、浮世絵の技法を駆使して踊子、競馬などを描いた。
 戸田城聖
 (一九〇〇年―五八年)創価学会第二代会長。牧口常三郎初代会長に師事、創価学会発展の基盤を築いた。戦時中、獄中にあったのは一九四三年七月から約二年間。
 「都督夫人太原王氏礼仏図」
 この供養者図像は第一三〇窟(盛唐)甬道南壁にあり、もと西夏期の壁画によって覆われていたが、一九四〇年代の初期に西夏の壁画を剥がして現れたもの。復元された絵は、莫高窟の供養者図像の中では最も大きい部類の一幅で、前の三人を主人、後ろの九人を侍女としている。前の三人には榜題があり、一番前の人物が最も大きく、題名を「都督夫人太原王氏一心供養」と記している。
 杜甫
 (七一二年―七〇年)盛唐の詩人。李白と併称され、中国詩の象徴的存在。「茅屋 秋風の破る所と為る歌」は五十歳の頃、成都の草堂にあった時期の作。
 豊田穣
 (一九二〇年―九四年)小説家。旧満州に生まれ、父の故郷・岐阜で育つ。海軍兵学校を卒業し、艦上爆撃機パイロットとして従軍、ソロモン海域で撃墜され、米軍捕虜となる。戦後、帰国して中日新聞記者、東京新聞文化部次長を歴任。連作長編『長良川』で直木賞を受賞。代表作『ミッドウェー海戦』、自伝的作品『母ふたりの記』などがある。
 ドラクロワ
 (一七九八年―一八六三年)フランスの画家。新古典派の形式主義の枠を壊して、絵画史に不滅の足跡を残したことで知られる。「ダンテの小舟」「民衆を導く自由の女神」「アポロンの勝利」などの作品は、彼が目標とした“視覚の饗宴”というべき世界で、後代の印象派、後期印象派、象徴主義の芸術家たちにも多大な影響を与えた。
 トルストイ
 (一八二八年―一九一〇年)ロシアの文豪。クリミア戦争に従軍し、その体験を書いた『セバストポリ物語』で文壇に出る。社会の矛盾に苦しみ、改良を試みたが失敗、最後は宗教に向かうが安住しえず、一切の権威と家庭を捨てて放浪の旅に出る。リアリズム文学の最高峰を築いた。小説『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などがある。
 トレチャコフ美術館
 モスクワの若き商人、パーベル・トレチャコフが一八五六年、個人美術館として設立。のちモスクワ市に寄贈。ロシアの美術品四万余を所蔵する。
 敦煌
 中国甘粛省の西部に位置している。二千年以上前の漢代から東西交通路の要衝都市として栄え、仏教文化の華を咲かせた地である。
9  〈な行〉
 内藤湖南
 (一八六六年―一九三四年)東洋史学者。秋田県の儒家に生まれ、本名は虎次郎。県立秋田師範学校を卒業し、小学校教師をつとめた後、上京してジャーナリスト。四十歳の時、京都帝国大学史学科に招かれ、東洋史学講座を担当、多くの人材を輩出せしめた。書画の鑑識家、漢詩文の作者、書道家としても一流だった。
 「長広敏雄
 (一九〇五年―九〇年)美術史家、音楽評論家。京都大学を卒業、東方文化研究所員を経て京大教授。のち橘女子大教授・学長をつとめた。著『飛天の芸術』『音楽論ノート』など。
 「夏」
 「サンケイ新聞」一九七五年七月十八日付に掲載。
 『夏草冬涛』
 両親と離れて暮らす主人公が沼津の中学時代、友人や上級生との友情のなかで明るく成長する姿を描いた自伝小説。一九六四年から六五、「産経新聞」に連載され、翌六六年に新潮社より刊行された。
 南京の紫金山
 中国江蘇省・南京市街の東にある山で、標高四四八メートル。そこに中国で初の天文台(観象台・欽天台)が設置され、天文研究の総合センターとなっている。
 西千仏洞
 甘粛省の西端、敦煌市内から西南約三〇キロの党河左岸に位置する仏教石窟。敦煌莫高窟、安西楡林窟とともに敦煌周辺の三大石窟といわれる。北朝期から造営され、北魏・西魏・北周・隋・唐・回鶻・五代・宋代までの二十二窟が現存する。敦煌莫高窟との関連を研究するうえでも貴重な資料の石窟となっている。
 西トルキスタン
 ソ連領中央アジアのうち、トルコ系の民族が支配的な共和国のこと。古代シルクロード上に栄えた諸国で、パミール(葱嶺)山系の東側は東トルキスタンと呼ばれ、同じくトルコ系のウイグル族が中国の新疆ウイグル自治区に多く居住する。なお、西トルキスタン諸国は一九九一年、ソ連邦崩壊と前後して独立を果たし、それぞれウズベキスタン共和国、タジキスタン共和国、トルクメニスタン共和国などとなった。
 『二十一世紀への対話』
 一九七二年と七三年、延べ十日間にわたり、生命論から歴史哲学、文明論、人生観、芸術論など幅広く話し合われた。本全集第3巻に収録。
 ネアンデルタール人
 原始人類のことで、一八五六年にドイツ・ネアンデルタールの石灰洞で発見されたことから、この名がある。同種のものはヨーロッパ各地、小アジアその他でも発見された。
 ネストリウス派
 キリスト教の一派。七世紀の初めに中国に伝えられた。
 ネルー
 (一八八九年―一九六四年)インドの政治家。若くしてイギリスのケンブリッジ大学に留学、弁護士の資格を得る。帰国後、ガンジーの指導のもとインドの独立運動に戦い、独立後は没するまで首相の地位にあり、活躍した。
 野村尚吾
 (一九一二年―七五年)小説家。本名・利尚。富山市に生まれ、早稲田大学英文科を卒業。「早稲田文学」の編集に従事、のち毎日新聞社出版編集部に勤務。『伝記谷崎潤一郎』で毎日出版文化賞を受賞。
10  〈は行〉
 ハイデッガー
 (一八八九年―一九七六年)ドイツの哲学者。フライブルク大学に入り、はじめ神学を、やがて哲学を修めた。フッサールの『論理学研究』から啓発を受け、彼の助手としてアリストテレスの現象学的解釈にたずさわった。マールブルク大学教授に転じ、ブルトマンとの対話のなかで思索を深め、主著『存在と時間』を公表。のちフライブルク大学に移り、ナチス時代に同大学総長をつとめるが、ヒトラーの文化政策に失望して辞任。
 パグウォッシュ・シンポジウム
 一九五五年にラッセル、アインシュタインら十一人の科学者が、核戦争の危機に対して科学者が社会的責任を果たすよう呼びかけた「ラッセル・アインシュタイン宣言」に基づき、五七年にカナダのパグウォッシュで開かれた国際会議。以後、世界各地で開催され、七五年には日本の京都で開催された。
 白楽天
 (七七二年―八四六年)唐の代表的詩人・白居易のこと。楽天は字、香山居士と号した。家は貧しかったが勉学にはげみ、科挙に及第して任官、地方官吏のとき『長恨歌』を作って名声を得、中央政府に入る。翰林学士、左拾遺、中書舎人となり、八二二年には杭州の刺史に転出して西湖に堤防を築いた。この杭州時代の作品に「春 湖上に題す」があり、なかで「未だ能わず 杭州を抛ち得て去るを/一半勾留するは 是れ此の湖」(新修中国詩人選集4『白居易』高木正一注、岩波書店)と、西湖の美しさを歌った。また、名作『琵琶行』は、江州の司馬に左遷された失意の時期に作られたもの。のち中央に復帰し、著名な文人として敬愛された。
 芭蕉
 (一六四四年―九四年) 江戸時代の俳人。松尾宗房、号は「はせを」と自署。伊賀上野に生まれ、俳諧に志して京都、江戸に出る。深川に芭蕉庵を結び、芭風を創始。各地を旅して多くの名句と紀行を残した。主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」がある。
 八部衆
 仏法を守護する八部類の衆のこと。略して八部ともいい、また八部王ともいう。天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩羅伽の八種の衆。
 莫高窟
 甘粛省敦煌市の東南二五キロ、鳴沙山の東崖に造営された仏教石窟。
 浜田庄司
 (一八九四年―一九七八年)陶芸家、民芸運動家。本名は象二。神奈川県に生まれ、栃木県益子で制作、民芸品としての益子焼に高い芸術性を与えた。柳宗悦らと民芸運動を展開、文化勲章を受章。
 哈密
 中国・新疆ウイグル自治区のオアシス都市。甘粛省・安西の西北三六〇キロに位置する。古来、伊吾・伊州などと呼ばれ、西域北道に通じる要衝として栄えた。
 原民喜
 (一九〇五年―五一年)小説家、詩人。広島市に生まれ、慶大文学部を卒業。大学入学時に赤色救援会など左翼運動に参加するが、やがて運動から離れる。一九四五年一月、郷里に引き揚げて同年八月六日、原爆投下に遭遇。被爆当時の事情は、翌日から書き始められた「原爆被災時のノート」、及び「夏の花」に詳しい。つづけて書かれた「廃墟から」「壊滅の序曲」と併せて、原爆三部作と称される。
 原田淑人
 (一八八五年―一九七四年)考古学者、東洋史家。東京・神田に生まれ、東大卒。東大教授、日本考古学会会長、高松塚古墳調査会長など歴任。国交回復以前、一九五七年に訪中考古学視察団長として中国を訪れた。
 ハワイへの短い旅行
 一九七五年七月二十二日から三十一日まで、ハワイを訪問。七月二十六日には、アメリカ建国二百年前年祭・アメリカSGIの第十二回全米総会がワイキキビーチに約三万人が参加して開催された。
 東山魁夷
 (一九〇八年―)日本画家。四季折々の日本の美しい風景、ヨーロッパや中国の自然を清冽に描き、国際的に活躍している。
 飛天
 仏画などに描かれる空中を飛行している天人。
 ヒトラー
 (一八八九年―一九四五年)ドイツの政治家。ナチスを率いて総統となり、第二次大戦をひき起こした。降伏直前に自殺。
 『氷壁』
 かつて「山にはドラマがない」といわれた常識をくつがえし、聖なる山と世俗の葛藤を軸にドラマ的な展開の山岳小説として評判を呼んだ。一九五六年の「ナイロン・ザイル」問題を取材、翌年にかけて「朝日新聞」紙上に連載した新聞小説。一九五七年に新潮社より刊行された。
 平野謙
 (一九〇七年―七八年)昭和期の評論家。本名は朗。東大在学中、左翼文学に関心をもち、みずから活動に入るが転向。戦後は「近代文学」を創刊、中野重治らと「政治と文学」論争を展開し、戦後文学の代表的評論家となった。著『昭和文学史』など。
 平山郁夫
 (一九三〇年―)日本画家。東京芸術大学教授・学長を歴任。仏教伝来やシルクロードをテーマに描いた作品などを発表してきた。敦煌文物の保護にも多大な貢献をしている。
 ビルマ
 東南アジア大陸部の西部にある共和国。十九世紀、イギリスの支配下に入ったが、一九四八年に独立。住民はビルマ族を主とし少数民族も多い。大半の人が仏教を信奉する。八九年、国名をミャンマー連邦と改め、首都名をヤンゴンと変更した。
 『広島のこころ二十九年』
 創価学会青年部反戦出版委員会が「戦争を知らない世代へ」シリーズ第2巻、広島編として一九七四年(昭和四十九年)八月六日、第三文明社より出版した。被爆体験者・被爆二世など五十五人の貴重な体験手記が収められている。
 プーシキン美術館
 一九一二年に創設された西欧美術の大コレクション。イタリア、オランダ、フランドル、スペインなどの名品が多く、とくにマネからピカソにいたる巨匠たちの作品も集められている。
 フェルメール
 (一六三二年―七五年)オランダの画家。居酒屋の主人で美術商も営んでいた父の死後、親しいサークルのためにみずから制作したといわれる。十七世紀後半に台頭した室内風俗画の代表者。オランダ都市住宅の室内空間を臨場感ゆたかに再現、写真のように精密な遠近法の適用によって新局面をひらいた。不遇なまま没したが、今日ではレンブラントと並ぶ十七世紀オランダ絵画の最高峰とされている。
 武漢
 湖北省東部にある省都。長江と漢江の合流点に位置し、武昌・漢陽・漢口の三都市を合併して成った。古くは三都市を併せて武漢三鎮と称され、群雄必争の地でもあった。新中国成立後の一九五七年、長江に武漢大鉄橋が完成、鉄鋼コンビナートの建設により、一大工業都市として発展している。
 福田宏年
 (一九二七年―) 文芸評論家。香川県に生まれ、東大独文科卒。立教大学教授、中央大学教授。著『井上靖評伝覚』などにより、井上靖の研究家としても知られる。
 不敬罪
 明治以来の旧刑法で、天皇・太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太孫もしくは神宮・皇陵に対し、不敬行為をなすことによって成立する罪。神礼を焼いても罪に問われた。一九四七年(昭和二十二年)に廃止。
 「藤野先生」
 一九〇四年から二年間、若き日の魯迅が仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に学んださい、骨学・血管学・神経学、そして解剖学を担当した藤野厳九郎(一八七四年―一九四五年)教授のこと。帰国後、魯迅は一九二六年十月十二日に「わが師と仰ぐ人のなかで、かれはもっとも私を感激させ、もっとも私を励ましてくれた」(竹内好訳)として、短編「藤野先生」を書いた。一九二七年に編んだ『朝花夕拾』に収録。
 ブッダガヤー
 インドの東部、ビハール州ガヤー市の南約八キロにある。リラージャーン川(古名ナイランジャナー、漢訳では尼連禅河)の西岸に位置し、現地名はボードガヤーと記す。ブッダ(釈尊)がその下で悟りを開いたという菩提樹を欄楯で囲み、菩提道場としたのが始まり。そこに大精舎が建てられたのは、五―六世紀のグプタ朝時代とされる。
 プノンペン陥落
 インドシナ戦争に関するパリ平和協定により、米軍がプノンペンから撤退すると、カンボジアの右派ロンノル政権は支えを失って崩壊。一九七五年四月十七日、首都に入ったカンプチア民族統一戦線(ノロドム・シアヌーク議長)によって五年ぶりにプノンペンが解放された。
 「父母恩重経」
 一巻。父母の深い恩愛に報いるためにどうすべきかを説いている。唐代初期に中国で作られた。
 フランドル
 フランス北部からベルギー西部にかけての地方。北海、スヘルデ川、アルトア丘陵に囲まれた地域。ファン・アイク兄弟に代表される初期フランドル絵画、ルーベンスらのバロック絵画などで知られる。
 布隆吉
 甘粛省の蘭州から西北へ九五〇キロ地点、河西回廊の酒泉から安西へ向かう途中に見られるゴビ灘の地名。甘新公路の左右に奇妙な形をした砂丘が約二〇キロにわたってつづく。土地の人は「布隆磧」とも、またトルコ語で「ヤルダン」とも呼ぶ。安西方向から吹きつける強風によって砂丘が浸食を受け、荒涼とした磧をなしている。
 ブリューゲル
 (一五二五年頃―六九年)フランドルの画家。大ブリューゲルと通称される。フランドルの習俗、農民の生活などに独自な表現を与え、風俗画、風景画を確立した。
 プルードン
 (一八〇九年―六五年)フランスの社会思想家。無政府主義思想の創始者の一人。
 「プルードンの肖像」
 フランスの画家ギュスターヴ・クールベ(一八一九年―七七年)の作品。一八六五年に死んだプルードンに献呈された油彩画。
 フレーベル
 (一七八二年―一八五二年)ドイツの教育家。チューリンゲンの片田舎に牧師の末子として生まれたが、生後九カ月で母を失い、寂しい幼年時代を過ごした。長じてイェーナ大学に進み、ドイツ・ロマン主義の思潮に触れる。若くしてペスタロッチ主義の模範学校教師となったことから教育の仕事に天職を感じとり、二度にわたってスイスにペスタロッチを訪ねて師事した。ドイツに初めて幼稚園を創設したことで知られる。
 プロレタリア文化大革命
 一九六六年から約十年にわたり全中国を巻き込んだ権力闘争。「プロ文革」または「文革」と略称。毛沢東主席の提唱した「四旧」(旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣)打破のスローガンのもと、共産党内の反毛沢東派が攻撃された。若者を動員しての大衆行動が展開されるにつれて文革派と脱文革派との対立が深まり、毛沢東死去(一九七六年)によって「四人組」が逮捕され、ようやく収束に向かった。
 炳霊寺石窟
 甘粛省の省都蘭州の西南一二五キロ、黄河上流の断崖に開かれた仏教石窟。敦煌の莫高窟、天水の麦積山石窟とともに、甘粛省内の三大石窟といわれる。四世紀末の西秦時代から、北魏・隋・唐・宋・元・明・清代まで造営され、多くの窟龕、大小の石彫像、塑像が現存する。西域への求法僧・法顕の供養題記が発見されたことで注目された。
 ペッチェイ
 (一九〇八年―八四年)イタリアの実業家、ローマ・クラブの創始者。トリノ大学を出て自動車会社フィアットに入社したが、第二次大戦中はレジスタンス活動に従事した。戦後、フィアット社を再建、フィアットの救世主といわれる。一九六八年に「人類の危機」を訴え、ローマ・クラブを発足させて代表世話人となった。著者との対談『二十一世紀への警鐘』(読売新聞社)がある。
11  ヘディン
 (一八六五年―一九五二年)スウェーデンの地理学者、中央アジア探検家。ストックホルムに生まれ、ベルリン大学に学んで地理学者リヒトホーフェンの影響を受ける。一八九三年から一九三五年まで断続的に四次にわたる中央アジア探検の結果、多くの古代都市を発見。第二次探検では楼蘭遺跡を発掘し、貴重な古文書を得た。また第四次探検では、ロプ・ノールが周期的に移動する「さまよえる湖」であることを確認したという。
 ペリオ
 (一八七八年―一九四五年)フランスの東洋学者。パリに生まれ、二十二歳の若さでフランス極東学院の中国語教授となった。一九〇六年、フランス政府派遣の中央アジア調査隊長となり、測量技師のヴァイヤン、写真技師のヌエットとともにパリを出発。敦煌を訪れたのは一九〇八年二月、ペリオらは五月まで滞在して測量・写真撮影にあたり、古文書や絵画などの優品六千点余を取得して、パリに持ち帰った。
 ベルクソン
 (一八五九年―一九四一年)フランスの哲学者。幼少より秀才の誉れ高く、一九〇〇年よりコレージュ・ド・フランス教授をつとめる。生命の直観的かつ動的な把握につとめ、「生の哲学」といわれる思想体系を打ち立てた。主著『創造的進化』『道徳と宗教の二源泉』など。ノーベル文学賞を受賞。
 「ペルセポリス炎上」
 ペルセポリスはイラン南部に位置するアケメネス朝の王宮址。前三三〇年に占領したアレクサンドロス大王によって炎上させられた。
 ヘレニズム文化
 アレクサンドロス大王の東征(紀元前三三四年に始まる)によって、地中海世界とオリエントは同一の経済圏を構成するようになり、そのなかで生まれた文化。造形美術では写実主義、とくに運動、激情の表現が特色をなしている。
 ボードレール
 (一八二一年―六七年)フランスの詩人。代表作『悪の華』。芸術批評の分野でも活躍した。
 北魏の洛陽遷都
 北魏は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋部が四世紀末から約一世紀間、華北に建設した国家。はじめ北魏は三九八年、山西省の平城(今の大同)に都を置いたが、華北統一後の四九四年、第六代・孝文帝の時、中原の洛陽(河南省)に遷都した。洛陽南郊の龍門石窟は、その直後から開創されている。
 法華経変
 「経変」は経文に説かれた内容や物語を絵で表現したものをいい、莫高窟では隋代から唐代にかけて『法華経』の内容が多く描かれた。
 『星と祭』
 主人公の先妻との娘が高校生の時、大学生の友人と琵琶湖でボートに乗って突風にあおられ、遭難死する。亡き娘との対話が古代の「殯」という仮葬の習慣に他ならないことに思いいたる。死者と生者との関わりをとおして、現代人の死を観照した作品。一九七一年から翌七二年にかけて「朝日新聞」紙上に連載され、同年に刊行される。七五年に角川書店より文庫として再刊。
 ボルドー美術館
 フランス南西部、ジロンド県およびアキテーヌ地方の主都ボルドーにある美術館。主に十九世紀からのフランス絵画のほか、イタリア、フランドル、オランダの作品を収蔵する。
 梵語
 古代インドにおいて使用された標準的文語。サンスクリットのこと。
 梵天勧請
 梵天は、インドの主神ブラフマーの音訳で、ブラフマン(梵)造物主を神格化したもの。仏教が興った頃、世界の創造神とされ、仏法を守護する神として帝釈天・四天王とともに早くから仏教に取り入れられた。仏伝によれば、釈尊は成道後、一時説法をためらっていたが、梵天の要請を受けて初転法輪にのぞんだという。
12  〈ま行〉
 牧口常三郎
 (一八七一年―一九四四年)創価学会の初代会長。創価教育学説の提唱者。一九四三年(昭和十八年)七月、治安維持法違反・不敬罪の容疑で不当逮捕され、翌四四年十一月、獄死。著『人生地理学』『創価教育学体系』など。
 松村謙三
 (一八八三年―一九七一年)昭和期の政治家。富山県に生まれ、早大政経科を卒業後、新聞記者となる。富山県会議員を経て衆議院議員、厚相、農相、文相を歴任。早くから漢学の素養があり、早大時代に中国語を学んで中国を訪れる。戦後は「日中総連絡役」として日中両国のパイプ役をつとめ、日中国交正常化に尽力した。
 『祭りの場』
 みずからも被爆者である作家・林京子の出世作。被爆の克明な記録をもとにした小説、事実としての感動は重く圧倒的。群像新人賞、芥川賞を受賞、一九七五年に講談社より刊行された。
 マティス
 (一八六九年―一九五四年)フランスの画家。その活動は現代美術に大きな影響を与えた。
 マトゥラー
 インド北部、ニューデリーの南東約一四〇キロ、ヤムナー川右岸にある古都。二世紀初め、クシャン朝のカニシカ王の支配期に石彫主体の仏教美術が盛んになった。
 マネ
 (一八三二年―八三年)フランスの画家。パリに生まれ、ドイツ、オランダ、イタリアなどに旅行。帰国後、道徳的タブーに縛られた旧来の価値観に挑戦し、印象派の指導者と目される。作品に「草上の食事」など。
 マルコ・ポーロ
 (一二五四年―一三二四年)イタリアの旅行家。十七歳の時、父、叔父とともに陸路アジアへ向かった。中国各地を回り、帰国後『東方見聞録』を残した。
 マルセイユ
 地中海に臨むフランス第二の大都市。商工業とともに、ギリシャ時代から港町として栄え、南仏プロバンス、コート・ダジュールへの周遊起点。第二次大戦前、欧州への留学生などは、この地に第一歩を印した。
 マルロー
 (一九〇一年―七六年)フランスの作家、政治家。若くしてインドシナ・中国の革命運動に関与し、スペイン内乱、第二次大戦中の抵抗運動にも加わり、行動する作家といわれた。戦後、ド・ゴール派の政治家として情報相、文化相を歴任。小説『征服者』『王道』『人間の条件』『希望』、自伝『反回想録』などがある。著者との対談集『人間革命と人間の条件』(潮出版社)もある。
 三木淳
 (一九一九年―九二年)写真家。岡山県に生まれ、慶応義塾大学を卒業。在学中に土門拳に師事。サン・ニュース写真部員、INP通信員を経て、タイム・ライフ社に入る。国連軍報道班員として朝鮮戦争に従軍、数々の写真賞を受けた。一九五六年からフリーカメラマンとして世界各地を撮影。日大教授、日本写真家協会会長などつとめる。作品に『メキシコ』『創価学会』など。
 ミネルバの梟
 ミネルバは、古代ローマ神話で技術職人の女神とされた。これがギリシャ神話で、知恵・学芸・工芸をつかさどる女神アテナ(アテネとも)と同一視され、のちにアテナの権能も加えられた。梟は、しばしばアテナが伴う聖鳥であったから、ミネルバの梟は知恵の象徴とされた。
 宮川寅雄
 (一九〇八年―八四年)評論家、美術史家。早稲田高等学院に在学中、若き日の廖承志と知り合う。会津八一に傾倒して早稲田大学に進む。和光大学教授、日本中国文化交流協会理事長をつとめた。
 三好達治
 (一九〇〇年―六四年)詩人。大阪に生まれ、京都の三高を経て東大仏文科を卒業。在学中に同人誌「青空」に参加、詩作を始める。第一詩集『測量船』によって名声を博し、昭和の抒情詩人として活躍した。
 ミレー
 (一八一四年―七五年)フランスの画家。代表作に「落穂拾い」「晩鐘」。農村に住み農村の生活、風景を描いた。
 『無常といふ事』
 戦時中の一九四二年から翌年にかけて「文学界」に連載された古典論。作者の死生観が表れている。戦後の一九四六年に創元社より刊行された。
 ムッソリーニ
 (一八八三年―一九四五年)イタリアの政治家。初め社会主義者だったが、一九一九年にファシスト党を組織。一九二二年には政権を掌握し、独裁権を強化した。その後、エチオピアを併合、スペイン内乱に干渉し、第二次大戦に参加した。一九四三年、連合軍のシチリア上陸のさいに失脚、捕らえられたがドイツ軍に救出され、のち北イタリアで民衆によって虐殺された。
 鳴沙山
 甘粛省の西端、敦煌市内から南へ約五キロの地に横たわる砂山。東西四〇キロ、南北二〇キロの幅で連なる。最も高い砂山の峰は平地(海抜約一五〇〇メートル)から約二五〇メートルもあり、標高一七五八メートルを測る。春先の風の強い日には、敦煌市内でも雷音のような砂礫の音が聞こえることから、別名「神沙山」とも呼ばれる。なお、敦煌莫高窟は鳴沙山の東南端に位置する。
 孟郊
 (七五一年―八一四年)中唐の詩人。字は東野。湖州武康(浙江省)の人。青年時代は嵩山に隠棲していたが、五十歳近くになって科挙を受験、進士に及第して地方官吏となった。当時の代表的文人・韓愈と交わり、苦吟型の詩人として知られる。とくに五言古詩に長じ、作品は『孟東野詩集』十巻として伝わる。
 『木蘭詩』
 中国の南北朝期、北方の民間民謡に由来する物語で、釈智匠の『古今楽録』に収める『木蘭詩』が最も古い文献とされている。木蘭従軍の故事は後代、京劇など伝統戯曲においても『花木蘭』の題で演じられることが多い。
 モネ
 (一八四〇年―一九二六年)フランス印象派の画家。パリに生まれ、イギリス、オランダ旅行の後、仲間とグループ展を開いて「日の出の印象」を出品。ほかに「睡蓮」など。
 文殊菩薩
 文殊師利菩薩のこと。「文殊の智慧」といわれるように般若(大乗仏教の悟りの智慧)を体現する菩薩。
 『モンテ・クリスト伯』
 フランスの小説家アレクサンドル・デュマ(一八〇二年―七〇年)の作品。主人公エドモン・ダンテスが、獄中での無念を晴らすために、不動の意志と信念をもって計画どおり目的を果たすまでの復讐物語。一八四六年に完成した大デュマの代表作。日本では、黒岩涙香が『巌窟王』の邦題で翻案、広く読まれた。
 モンパルナスの画家
 モンパルナスは、芸術の都パリのリュクサンブール公園の南側一帯をいう。二十世紀初頭から芸術家たちが多く住む界隈だった。モジリアニ、シャガール、ピカソ、それに藤田嗣治などもここを舞台に活躍した。若き日の常書鴻は、一九三二年から三六年までパリに滞在、とくに藤田嗣治とは「われわれはアジア人だ」として交流したという。なお現在、モンパルナスは近代的ビルの立ち並ぶビジネス街となっている。
13  〈や行〉
 柳宗悦
 一八八九年―一九六一年)民芸研究家、哲学者。東京に生まれ、東大卒。一九一〇年に創刊された雑誌「白樺」に加わり、のち民芸運動を提唱、日本民芸館を設立。
 山本健吉
 (一九〇七年―八八年)文芸評論家。本名・石橋貞吉。長崎市に生まれ、慶大卒。折口信夫に学び、古典から現代文学に及ぶ幅広い評論活動を行った。文化勲章受章。
 ユイグ
 (一九〇六年―九七年)フランスの美術史家、批評家。フランス北部のアラス生まれ。パリ大学などで学んだ。第二次大戦中、ルーブル美術館の絵画部長として、ナチの略奪から膨大な美術品を守りぬいた。戦後はコレージュ・ド・フランス教授をつとめたほか、アカデミー・フランセーズ会員として多方面で活躍。元フランス美術館協会会長。著者との往復書簡も含めての対談集『闇は暁を求めて』は、本全集第5巻に収録。
 維摩詰
 鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」などに登場する中心人物。同経によると無量の諸仏を供養し、大乗仏教の奥義に通達し、仏法流布に貢献した。非常に雄弁で、巧みな方便でよく衆生を教化したといわれる。
 「維摩経変相」
 鳩摩羅什訳「維摩詰所説経」によれば、釈尊在世時の在俗居士・維摩詰(梵名ヴィマラキールティ)は巧みな弁論をもって仏教流布に貢献したという。維摩詰はまた仏弟子を相手に大乗の法理を説き、文殊菩薩との対論に及んだ。敦煌莫高窟では、この経典の内容が変相として好んで描かれ、とくに第二二〇窟(初唐)東壁門口の両側に描かれる「維摩詰変相」は初唐の画家・閻立本の「歴代帝王図」を凌ぐ名画とされる。
 「夕映え」
 雑誌「風景」一九七五年七月号に掲載。
 湯川秀樹
 (一九〇七年―八一年)理論物理学者。東京に生まれ、京大教授。中間子の存在を予言し、素粒子論展開の契機をつくった。日本人で初のノーベル賞受賞者。晩年は核兵器を絶対悪と見なし、パグウォッシュ会議、科学者京都会議などを通じて平和運動にも尽力。文化勲章を受章。
 楡林窟
 甘粛省西部、安西の西南七五キロの踏実河峡谷にある石窟寺院。西方にある敦煌の莫高窟、西千仏洞とともに、敦煌周辺の三大石窟ともいわれる。石窟の形式と現状から判断して初唐に草創され、回鶻・五代・宋・西夏・元・清代まで造営された計四十二窟が現存する。踏実河の東西両側の断崖に開かれ、岸辺には楡の木が群生しているところから「楡林窟」の名があるという。
 陽関
 漢の武帝時代、玉門関の南に設けられた関所。現在の敦煌市から西南約七〇キロに位置する。
 楊貴妃
 (七一九年―五六年)唐の玄宗皇帝の妃。皇帝の寵愛を受けて一族は高位を得たが、七五五年の安禄山の反乱の折、翌年に縊死。白楽天の『長恨歌』は、その経緯をうたっている。
 ヨーロッパ、ソ連の旅
 一九七五年五月十三日から三十日まで、パリ、ロンドン、モスクワなど訪問した。パリでは、マルロー、ユイグ、マルチネ、ペッチェイ氏らと対談、ロンドンでは、病床にあったトインビー博士の関係者を見舞う。モスクワ大学では「東西文化交流の新しい道」と題して講演を行い、名誉博士号を授与された。
 横山大観
 (一八六八年―一九五八年)日本画家。水戸に生まれ、東京美術学校卒。岡倉天心、橋本雅邦に師事。朦朧体といわれる没線描法を試み、墨画にも新境地を開いた。文化勲章を受章。
 与謝蕪村
 (一七一六年―八三年)江戸中期の俳人、画家。摂津の人。幼時から絵画に親しみ、文人画で大成した。かたわら俳諧も学び、感性ゆたかな俳風を創出、のちに芭蕉と並び称される。
 四人組
 中国の文化大革命の時期に権力をふるった江青、張春橋、王洪文、姚文元。後に逮捕され党内外のすべての職を解任された。
14  〈ら行〉
 雷峰塔
 西湖の近くの雷峰山の山頂に建てられていた七層の巨大な塔。塔の夕日に映える姿は見事で「雷峰夕照」は西湖十景の一つだったが、一九二四年に崩壊した。
 ラスキン
 (一九二七年―九四年)ロシアの文学者、翻訳家。モスクワ東洋大学に学び、プログレス出版社に勤める。主として日本語文献を翻訳。一九六六年の原水禁広島大会に来日して以来、しばしば日本を訪れる。井伏鱒二『黒い雨』、井上靖『おろしや国酔夢譚』などロシア語に翻訳。
 蘭州
  中国の西北部、甘粛省の省都。古くから黄河上流の重要な渡河点で、中原の都と西域とを結ぶ交通の要衝だった。唐代、インドに経典を求めた玄奘三蔵も、ここで黄河を渡って西域へと向かった。
 李淵
 (五六六年―六三五年)唐初代の皇帝。初め隋に仕えたが六一七年、煬帝の失政に乗じて挙兵、長安を都として唐を建国した。
 李懐譲の「重修莫高窟仏龕碑」
 莫高窟の第三三二窟(初唐)から出土した「大周李懐譲重修莫高窟仏龕碑」には、次のように記されている。「前秦の建元二年に、沙門の楽僔という人がいた。彼は戒行清らかで、心も恬淡とし、静穏であった。かつて林野に杖ついてこの山にやってきたところ、突然、金色の光が見え、ちょうど千仏がいるようであった」と。なお、この碑は武周聖暦元年(六九八年)李懐譲によって建てられた。
 利休の生涯
 安土桃山時代の茶人・利休は、千宗易(一五二二年―九一年)の号。堺の人で侘茶を完成。織田信長、豊臣秀吉に仕えて厚遇されたが、晩年になって秀吉の怒りに触れ自刃。利休の死の心境を探った小説『本覚坊遺文』は一九八一年、「群像」に連載された後、講談社より刊行された。
 李思訓
 (六五三年―七一八年)唐の画家。皇族の出身、字は建見。唐の高宗のとき江都令となるが、武則天のとき殺害されるのを恐れて官を捨て隠遁した。中宗復位後、宗正卿、益州長史、右武衛大将軍を歴任。彩色華麗な山水画を得意とし、唐朝の第一人者といわれる。とくに金碧青緑山水画は、後世に多大な影響を与えた。
 龍門
 中国の黄河中流、山西、陝西両省の境にあり、汾水が合流する両岸に険しい山岳が対峠して門口をなす。魚類も登れば龍になるという伝説から「登龍門」の言葉が生まれた。
 龍門石窟
 中国の河南省洛陽南郊にある石窟寺院。伊水に臨む岩壁に大小千三百余窟が現存する。北魏・孝文帝が洛陽に遷都(四九四年)以後、直ちに開創され、唐代中期に至る約二百年間、石窟の造営が続けられた。
 梁山泊
 中国の山東省西部、梁山の麓にある沼地。宋代、宋江らが砦を結んだという故事が『水滸伝』に記されてから、一般に豪傑、野心家たちの集合する場所を意味した。
 廖承志
 (一九〇八年―八三年)中国の政治家。革命家であった廖仲愷を父に、何香凝を母として東京で生まれた。若くして中国革命に志し、長征にも参加。戦後は国際友好に尽くし、中日友好協会会長をつとめた。
 リヨン
 フランスの南東部、ローヌ川とソーヌ川の合流点に位置する大都市。古くから商工業都市として栄え、とくに絹織物、繊維工場などで繁栄した。
 李陵
 (?―前七四年)前漢の軍人。匈奴と戦い、敗れ、匈奴の地で二十余年を過ごして病没した。
 ルーブル美術館
 パリのセーヌ右岸、ルーブル宮殿に設置されたフランス国立美術館。多くの名作を収蔵、展示し、世界最大級の美術博物館として知られる。
 ルオー
 (一八七一年―一九五八年)フランスの画家。黒く太い描線や深い精神性をもつ独特の画風を確立した。
 ル・ナン兄弟
 十七世紀に活躍したフランスの兄弟画家。五人兄弟のうち三人が画家で、順にアントアーヌ、ルイ、マチュー。パリに出て一六四八年、三人そろってアカデミー会員となった。宗教画・神話画を描いたが、とくに農民の肖像画などが知られる。
 レーニン
 (一八七〇年―一九二四年)ロシアのマルクス主義者、革命家。学生時代から革命運動に従事、流刑・亡命生活をへて一九一七年ロシア革命に成功。その後、ソビエト政府首班として社会主義建設を指導した。著『何をなすべきか』『唯物論と経験批判論』『国家と革命』など。
 レーピン
 (一八四四年―一九三〇年)ロシアの画家。ペテルブルクの美術アカデミーに学ぶ。「ヴォルガの舟曳き人夫」(一八七三年の作品)によって認められ、ウィーン、イタリア、パリに遊学する。帰国後、外光描写により故郷の農民群像を描いた一連の傑作を残した。
 レニングラード
 モスクワに次ぐロシア第二の大都市。バルト海の東、フィンランド湾奥のネバ河口のデルタ地帯に位置する。ロシア革命以前、サンクトペテルブルクなど様々な名称で呼ばれたが、一九二四年にレーニンの名を冠してレニングラードと改名された。第二次大戦中、九百日に及ぶドイツ軍の包囲戦で約八十万の犠牲者を出した。なお現在は、ソ連邦の崩壊と前後してサンクトペテルブルクの旧都名に復している。
 『レ・ミゼラブル』
 フランスの詩人・小説家ヴィクトル・ユゴー(一八〇二年―八五年)の作品。ひときれのパンを盗んで牢に入れられ、脱走と反抗の罪が加わり、十九年もの牢獄生活を強いられた主人公ジャン・ヴァルジャンの物語。日本では、黒岩涙香の抄訳『噫無情』によって知られ、その後、豊島與志雄の完訳『レ・ミゼラブル』によって広く読まれた。
 ローマ・クラブ
 イタリアの実業家で知識人でもあったアウレリオ・ペッチェイ(一九〇八年―八四年)を中心に「地球の有限性」という共通の問題意識をもつ世界各国の知識人が集まって結成した任意団体。一九六八年にローマで初会合を開いたことから、この名がある。原則として毎年一回ずつ各国持ち回りで大会を開き、東京でも一九七三年に統一テーマ「新しい世界像を求めて」と題し、大会が開催された。
 魯迅
 (一八八一年―一九三六年)中国の文学者、思想家。本名、周樹人。浙江省紹興に生まれ、南京の学校に学んだ後、医学を学ぶために官費留学生として来日。一九〇四年、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に入学したが、その翌年幻灯で日本兵に処刑される中国人の姿を見て衝撃を受け、文学による民族性の改造を志す。帰国後は文学革命の旗手として活躍、『狂人日記』『阿Q正伝』などの名作を残した。
 ロッキード事件
 米国ロッキード社の航空機購入をめぐり、日本の政界を巻き込んだ国際的な贈収賄事件。一九七六年二月、発覚し、同年七月、田中角栄(前首相)らが逮捕された。
 『ロビンソン・クルーソー』
 イギリスの小説家ダニエル・デフォー(一六六〇年頃―一七三一年)の作品。絶海の孤島に漂着したロビンソン・クルーソーの苦闘の物語。
 ロラン
 (一八六六年―一九四四年)フランスの作家。人道主義者として平和運動の先頭に立った。作品に『ジャン・クリストフ』『魅せられた魂』など。ミケランジェロ、トルストイなどの評伝も書いた。
 ロワール
 パリの南西トゥール市を中心とするロワール流域の渓谷地帯。この地方は古来、温暖な気候と肥沃な土地に恵まれ、王侯たちが好んで城を築いた。そのため「フランスの庭園」とも呼ばれるように、美しい古城が多い。
15  〈わ行〉
 ワイルド
 (一八五四年―一九〇〇年) イギリスの詩人、小説家、劇作家。
 『わが一期一会』
 一九七四年から翌年にかけて「毎日新聞」日曜版に連載した随筆集。毎回、作者が遭遇した人物や美しいものとの出会いを「一期一会」と題して執筆。一九七五年十月、改題して毎日新聞社より刊行された。
 渡辺崋山
 (一七九三年―一八四一年)幕末の画家、洋学者。儒学や蘭学に通じた。『慎機論』を著し、幽閉されて自刃。

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