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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 美と創造の世界  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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14  エピローグ
 (一九九〇年〈平成二年〉六月一日、池田名誉会長の第七次訪中の最終日、北京の宿舎・釣魚台国賓館での対話)
 池田 常先生と初めてお会いした春(一九八〇年〈昭和五十五年〉四月、第五次訪中の折)から、ちょうど十年がたちました。
  池田先生との間には、言葉に尽くせぬ深い深い不思議な縁を感じます。十年間で、こんなにも友好は深くなりました。このうれしさを私は表現するすべを知りません。これからもさらに池田先生との友情を深めたいのです。
 池田 私たちの対談が月刊誌の「大白蓮華」(一九九〇年一月号から七月号まで)に掲載されてきましたが、たいへんに反響が大きく、編集部からも要望があり、連載が当初の予定より延長されました。秋には日本で発刊される予定であり、将来は各国語にも翻訳されることになると思います。(一九九〇年十月『敦煌の光彩』として徳間書店より発刊。一九九一年十二月、中国語版発刊)
  池田先生のおかげで、私たちのこれまでの努力が日本、世界の人に紹介され、歴史に残っていくことは本当にありがたいことです。
 池田 私は、芸術に捧げきった“文化の帝王”の崇高な魂を、ぜひとも後世に伝えたいのです。秋には、またご子息の作品とともに「常書鴻・嘉煌父子絵画展」(静岡・富士美術館、十一月二日―二十五日)が開催されます。その折のご訪日を心待ちにしております。(アルバムをみせながら)創価大学の常書鴻夫婦桜(夫妻を記念して創価大学のキャンパスに植樹された)もこんなに大きくなりました。
  ありがとうございました。秋の絵画展の出品目録をお渡しいたします。
 池田 お国の“宝”ともいうべき貴重な作品を本当にありがとうございます。常先生は“シルクロードの宝石”敦煌の守り人です。本来なら、悠々と送れたはずの安楽の人生コースを投げ捨てて、砂漠に埋もれた永遠の美の宝石を発掘し、研究・保護されました。先生なくしては敦煌の光彩が、世界に放たれることはありませんでした。
 いかなる権力者、富豪よりも、人類に対する偉大な貢献をなされました。「陰徳あれば陽報あり」と、お国の言葉にあります。今、これまでのご苦労が、燦然たる陽報に変わり始めました。私には先生に贈る“天の喝采”が聞こえるようです。
  感謝にたえません。私の雅号は「大漠痴人」といいます。“敦煌気ちがい”という意味です。あらゆる艱難辛苦がありました。歯を食いしばって、ここまで生きてきました。最初は水もない、食料もない、そんなところに何をしに行くのだ、死んでしまうと皆に反対されました。去った人もいました。けれども、ここにいる妻は一緒に生きてくれました。苦しいことばかりがありました。私は決して自分のために行ったのではありません。祖国と人類の文化のためです。どうしても、あのすばらしい芸術を守りたかった……。
 池田 先生の(一九四三年〈昭和十八年〉以来の)半世紀にわたる“敦煌ひとすじ”のご献身は、いかなるドラマよりも感動的です。いずこの世界にあっても“――気ちがい”とさえいわれるほど「徹した人」が一人いれば栄える。勝利するものです。
  私が申し上げたいのは、名誉会長にお会いするたびに、魂が揺さぶられるような感無量の思いがこみあげてくるということです。それは先生が、世界の平和のため、文化と芸術のため、中日の友好のために、あらゆる批判も障害も越えて戦われる姿に、私の一生が二重写しのように振り返られるからです。
 先生が言われたとおり、近年になって光が差し始めました。耐えに耐えて進めてきた仕事も、多くの人の協力で軌道に乗ってきました。子どもたちも大きくなりました。これまでの言い尽くせぬ苦しみも、今となれば、すべて報われたという気持ちです。
 人の一生は短く、理想や目標を、そのまま実現できる人は少ない。しかし幸運にも私は、ある程度、実現することができました。悔いはありません。
 先生も同様のお気持ちではないかと私は思っているのです。理想の実現に向かって進むには、人には見えない困難があります。だれも知らないところで辛苦を重ねねばならない。私の経験からみても、池田先生の大きなお仕事にどれほどのご苦労があったことか。それを思うと万感胸に迫ってくるのです。
 池田 常先生の今のお言葉は、私の胸の奥の部屋から一生涯、離れることはないでしょう。
  先生、敦煌にぜひ来てください。
 池田 願望はあるのですが――。
 先生との対談の連載を読んで、私の妻が言うのです。「常先生のお話のところでは、情景が絵のように浮かんでくる」(笑い)と。やはり実際に行ってみないと、知識だけでは、だめのようです。
 ところで先生が敦煌の莫高窟の内部に初めて足を踏み入れられたのは、たしか……。
  三十八歳のときです。ここにいる息子より少し若いころでした。
 池田 最初の瞬間、何を感じられましたか。
  そのとき、私は、別世界を見ました。それまで(フランス等で)絵を学んできましたが、見たこともないすばらしい芸術の世界が、そこにありました。次の瞬間、私は決意していました。これら“美の女神”を、ゴビのなかに埋もれたままにしておくことはできない。私が守っていこうと。
 池田 貴重な歴史の証言です。
  私どもが以前住んでいた古い家を甘粛省政府(中国西北部、敦煌のある省)で修復し、記念館にしてくれると言われています。そこに池田先生ご夫妻をご案内したいのです。
 池田 ありがとうございます。まさに“宝の家”です。
  その旧居は、寺院の後庭にある小さな家でした。行った当時は、机もベッドもなく、土を固めたレンガ状態のもので台を作り、その上にむしろを敷き、麦ワラを置き、布をかぶせて寝台にしました。机も土を固めて作り、上に石灰を塗りました。窓には紙が張ってあるだけでした。電気もなく、壁に穴をあけて本棚にしました。食事にもこと欠く日々でした。
 池田 ご苦労はこれまでにもうかがってきましたが、あらためて、文化の遺産を人類に残しゆくための深いご苦労を感じました。偉大な仕事をなさる人は、黙々と苦しみながら、それに耐えて、偉業の達成をするものです。利害や名聞のために動く人は決して偉大な仕事はできない。その人たちは陰の苦労をしないからです。
  私こそ、名誉会長が世界のために若き日より展開された、すばらしい社会活動、その思想・哲学、長い展望に敬服しています。“仏教精神”に満ちて行動されている名誉会長ならびに創価学会の皆さまに最大の敬意を表します。そして、私どもの次の世代が、ともに今日、同席していますように、中日友好への信念、私どもの友情を世々代々に伝えていきたいと思います。
 池田 同感です。先生の尊きご生涯と信念は、必ず後世に伝えられていくことでしょう。それでは次は日本でまたお会いしましょう。秋にお待ちしております。

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