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日蓮大聖人・池田大作

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第四章 美と創造の世界  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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1  敦煌美術の特色
  池田先生は敦煌の仏教美術の特色をどのように見られていますか。
 池田 そうですね。私の見方は全体観ではありませんが、敦煌の仏教美術を、インドの仏教美術の流れから見ていくと、興味深いと思います。ご承知のとおり、インドにおいては釈尊の滅後、長い間、釈尊の像が具体的に表現されることはありませんでしたね。その代わりに、菩提樹とか、華を散らした台座などを釈尊の象徴として示していました。その理由は、種々考えられますが、一つには、釈尊の説いた初期の仏教の考え方に起因すると思います。初期仏教の重要な思想の一つに「諸行無常」という教えがあります。これは、人間存在や宇宙・自然の諸々の事物は、いつも変化しつづけて“常無き”状態である、という意味です。
 この考え方からすれば、釈尊が涅槃に入った直後の仏教徒たちは、釈尊がどれほど敬愛する偉大な師であっても、否、逆に敬愛すればするほど、釈尊の教えに忠実であろうとしますから、釈尊の姿を具体的に彫刻や絵画に表現することは遠慮したのだろうと推測されます。
 というのは、釈尊といえども、その姿だけを見れば諸行無常の存在であるがゆえに、一瞬一瞬変化しつづけてとどまることがなかったわけで、どの瞬間の釈尊を表現するのかということになるからです。また、釈尊を変化しない像として表すことによって、見る人に固定化したイメージをあたえてしまう危険性もあったからではないでしょうか。
  ええ、初めはそうでしたね。
 池田 ところが、時代の進展とともに、そのような考え方にも大きな変化が生じてきます。と言いますのは、釈尊が亡くなって数百年もしますと、生存中の釈尊の姿や声の響きなどに、直接的に接した弟子たちもいなくなってしまうからです。そうなりますと、人間の心理の当然の動きとして、ますます激しく仏陀である釈尊への思慕の念がわき上がってくるわけです。同時に、仏陀・釈尊とはいったいいかなる存在であったか、という哲学的な思索もなされてきます。こうした機運のなかから、仏陀には永遠なる側面と、無常なる側面とがあるとの考え方が出てきます。たしかに、無常なる側面である仏陀・釈尊の肉体は、滅したけれども、釈尊が悟った宇宙森羅万象の真理(法)そのものは永遠である、というようにです。そして、この永遠なる側面の仏陀を、ますます思慕するようになって、これを何とか表現化したいという希求があったのでしょう。仏像や仏画を創造したいという願望は、いやがうえにも高まってきたのではないか、と思われます。
 また、それとあいまって、大乗仏教の時代となって“大乗”(大きな乗物)の名のとおり、より多くの在家大衆が、仏教へ帰依、帰信するようになりますと、衆生教化のためにも、さらには当時の人々の渇仰の帰趨としても、「仏」のイメージを喚起するために、仏陀・釈尊の像を具体的に表現する必要に迫られたように考えられます。以上のような、さまざまな条件が重なって、ついに釈尊の像や画を造形化する時代が登場するわけです。
 もっとも、私どもが信奉する、大乗仏教の真髄である日蓮大聖人の大仏法においては、信仰の対象の本尊としては、イメージや映像の結晶である仏像や仏画ではなく、より本源的に、文字の御本尊です。それは、あえて言わせていただけば、御本仏日蓮大聖人の智慧の最高・尊極の表現であられる、ということです。この点で、従来の仏教の本尊とは、根本的に異なるのですが、ここはあくまで敦煌の仏教美術に関する話題ですので、これ以上の論議はさしひかえさせていただき、話をもとに戻します。
 まず釈尊の肖像を造形化したのは、ガンダーラ(現在のパキスタン西北部のペシャーワル地域の古名)のクシャン朝時代の人々でした。彼らはヘレニズム文化の影響下に、釈尊の像をリアルに表現しました。仏像が初めてインド亜大陸に出現したのは、一世紀末あるいは二世紀初めといわれていますね。
 このガンダーラ仏につづいて、インドのマトゥラーで作られた仏像が、インド各地に見られるようになりました。さらに西域、敦煌へと仏教が伝来していくなかで、表情、姿がそれぞれの地域の風土、民族性、文化を反映して変わっていきます。
 敦煌の場合は、北涼(三九七年―四三九年)から元(一二七一年―一三六八年)の時代にいたる、千年あまりにわたって造営され、しかも、さまざまな文化を背景にしていただけに、それぞれの壁画等が、時代の特色を映しだしているという点でも貴重なものですね。タテには千年の歳月。ヨコにはインド、チベット、西域諸国、中原という広がり。こうした時間的な長さと、空間的な広さにおいて、敦煌は、仏教美術史のうえからも、非常に高い文化的な価値があるといってよいでしょう。
 敦煌美術の表現の対象は、いうまでもなく、仏、菩薩、仏教経典の内容が中心となっています。それらは自然の風景や人間の美をとらえた芸術と比べて、よりダイレクトに永遠なるものへの畏敬、そして祈りから生まれた芸術といえるでしょう。
  敦煌の作品は、画工たちが心の底から創りだしたものです。それに敦煌美術は、画工たちの創意性が生みだしたもので、壁画を見ても、まったく同じものがありません。たとえ同じ経文の内容を描いたものにしても、画工たちは自分の創作力、想像力でまったく異なった作品を創りだしています。
 池田 敦煌美術においては、現実の不幸から脱していくことを祈ったり、平穏な生活、安らかな死への願望から創造されたものが多く見られました。表現された世界は、架空のものであったり、現実社会とはかけ離れたものも少なくありません。画工たちが創造した仏、菩薩の芸術は、威厳を備え、慈愛や優しさにあふれて、圧倒的な大きさをもっています。また浄土は、彼らの想像力が及ぶ限りに華やかで豪勢に描かれています。敦煌美術は、こうした想像力から生みだされた、画工たちにとっての理想的な存在や場所の表現でもありました。
 それとともに、供養者たちの姿は、写実的に正確に表現されており、当時の衣装、生活などを知る資料としての価値もあります。経典の内容を説明する絵、仏教説話の絵にも人々の生活が描かれています。想像と写実、架空の世界と生活の現場、こうした二面性をもち、しかも、それらが一体になった、人間味のある芸術が敦煌美術の特色の一つといえるのではないかと私は思います。
  第六一窟の五台山図にしても、すり臼をひく人が描かれたり、山に登る人、遊んでいる馬などを創作して随所に創意工夫を見ることができます。
 敦煌の作品が、今日なおみずみずしいのは、画工たちが心で、魂で創作したからだと思います。心の底から生みだした創造的な力は、にせものではありません。真の芸術作品は千数百年を過ぎたとしても、人々に感動をあたえる力は衰えないのです。長い歳月を経過して、今日も影響力があるというのは、作品が強い生命力をもっているからです。
 歴史上、たとえば宮廷のなかの芸術品のように、絢爛豪華な作品も多くありました。しかし、それらのほとんどは、人々にあまり感動をあたえませんでした。
 芸術品には、絶対的な価値と相対的な価値があります。時代によって、そのときのさまざまな利害関係のからみで、または宣伝効果によって、すばらしい芸術作品だともち上げられるものも少なくありません。
 しかし、本当の価値のないものは、時の流れとともに、人々の関心も薄れ、だんだんと忘れられていきます。これは相対的な価値にすぎません。
 一方では、生きている間は無名の芸術家だった人の作品が、死んだ後に識者に発見されて、百年、千年にわたっても、貴重な芸術品として認められ、伝えられていくものもあります。このような芸術品には、絶対的な価値が備わっていると思います。
 心の底から生みだされたものは、すべて価値があると私は思います。表面だけ見ると、美しく見える芸術品にしても、よく見るとにせものだとわかる場合もあります。
 ある文学者がこう言っていました。「大衆に媚びるような作品は、本当に良い作品ではない」。良い作品は、その作品に内在しているものが、本当に価値のあるものかどうかで判断されるものなのです。
 池田 今、先生は、芸術作品に絶対的な価値と相対的な価値とがある、と言われましたが、これは人生と社会のあらゆる次元に通ずる重要な示唆を含んだお話です。借りものではない、また、ただ目先の利害のためのものでもない、永遠を志向する人間の奥深い魂から創造された仕事は、芸術に限らず、朽ちることのない真金の輝きを放っていくにちがいありません。
 と同時に、二十世紀の現代を生きる常先生が、遙か昔の敦煌の仏教美術に深い価値を見いだされ、その復興に精進してこられたからこそ、今、多くの人々が価値ある魂の表現に邂逅し、その美の乱舞を心おきなく享受できる。つまり、魂の底から創作された真正の芸術は、その作品にすばらしい価値を見いだす人との時を超えた“出合い”を得たとき、さらに輝きを増していく。この出合いが、芸術家の生存中に生まれるという幸運なこともあれば、芸術家が没して数世紀の後、ということもあります。
 その時空を超えた魂と魂の共鳴に、私はまさに芸術というものの“妙”というか、神秘さを感ずるのです。洋の東西を問わず、芸術史上において、そうしたすばらしい魂と魂の出合いが見いだされます。敦煌仏教美術と先生の出合いも、まさにその美しいドラマです。
 ところで、美の絶対的な価値を創造した画工たちは、創意の源泉をどこから得ていたとお考えでしょうか。
  絵を創作する原動力は、二種類あります。一つは精神的なものです。信仰心から、絵を描く行為によって、内心の満足が得られたり、または罪障を消滅し成仏できると信じていたのかもしれません。もう一つは物質的なものです。生活のために画匠として雇われ、絵が上手に完成すれば金がもらえるということです。
 いずれにしても、敦煌芸術においては、創意の源泉は宗教にあるかもしれません。画匠は多分、信仰者か、信仰心をもっている者です。もし仏教を信じていなければ、敦煌壁画のような作品は絶対に生みだせないと思います。
 池田 私が対談したフランスの美術史家のルネ・ユイグ氏は「芸術と宗教は、人間に働きかけて、人間が自己自身を超えて、予感はされるが未知の、そして自ら見ようとしないかぎり、姿をあらわすことはない一つの実在に向かう同じ道を進ませる」(『闇は暁を求めて』)と述べています。すなわち宗教と芸術とは本来、自己自身を高め“一つの実在”へと、人間を向かわせる働きがあることにおいて、共通のものを有しているということでしょう。
 このユイグ氏の言葉に対して、私は「人びとの心に語りかけ、働きかけるところに、真の芸術と宗教との共通性があり、芸術のなかに、本来、宗教的情感の一つの表現がみられる」と述べました。
 敦煌の無名の画工たちが、生活や環境に恵まれないなか、あれだけの絢爛たる仏教美術を残すことができたのは、先生の言われるとおり、ひとえに画工たち一人一人の胸中に、宗教的情感が脈打っていたからであると考えられます。
 敦煌の画工たちは、生来の芸術的才能や造形的天分のうえに、仏教の信仰によって、創造性の根源力を、自分の中から引き出しつつ、創作活動に向かったわけです。
 また、芸術の歴史を振り返ってみると、その作品の多くは、支配者や裕福な人々に捧げられたものでした。王や貴族たちの栄光のために、彫刻が彫られ、絵画が描かれてきました。一方では、教会や伽藍(寺院)のための宗教芸術も盛んでしたが、民衆はそうした権威の下にありました。西洋の絵画史をひもとくとき、長い間、神々や王や特権階級が、その主人公でした。
  そのとおりです。
 池田 絵画や彫刻の主題は、キリスト教の教典に説かれたものが圧倒的に多く、世俗的な主題にしても、古代ギリシャ神話や、ローマの英雄たちの物語、寓話などに基づくものでした。しかし、十六世紀のフランドル地方の農民の生活や風俗を描いたブリューゲル、十七世紀のフランスで庶民の生活を描写したル・ナン兄弟たちの作品に見られるように、次第に庶民そのものを主題にする芸術が登場します。十七世紀のオランダでは、市民文化の開花が見られ、フェルメールらの作品を生みだしました。
 近代市民革命によって、主権者が代わることによって、芸術は、より広く人々に解放されました。十九世紀に入って、農民を描いた名画「落穂拾い」などのミレー、社会の底辺に生きる貧しい庶民を表現したドーミエ、「石割り」で有名な写実主義のクールベらの画家があいついで現れます。プルードンが、クールベの「石割り」を「最初の社会主義的絵画」と呼んだこともよく知られています。
 社会の変革による民衆の地位の向上と、こうした先駆的な仕事によって、民衆が芸術の主人公になる時代が次第に築かれていきました。
 このような流れのなかで敦煌芸術を見るとき、それは支配者や富裕な人々に捧げられたという面をもつ一方で、描いた無名の画工たちの生活と憧れなどが反映しており、いたるところに庶民の生活が表現されているのを見いだせます。私はこうした庶民性、民衆性にも注目したいと思います。
 常書鴻先生は、敦煌莫高窟の遺産に出合って、その芸術の民衆性に感動され、自身の芸術観が大きく変わったとうかがっています。
  私は画学生のころ、「芸術は芸術のための芸術」という考えをもっておりました。フランス美術でも民衆の芸術を重視する伝統はありませんでした。しかし、敦煌に行って民衆芸術に深い感動をおぼえました。芸術は民衆に奉仕するものだと思いました。敦煌芸術は、民衆の手による民衆のための芸術だと信じています。
 それ以来、私は芸術的創造は民衆に奉仕するものでなければならないと思っています。ゆえに自己の考え方、理想を芸術のなかに表現し、民衆に捧げ、民衆のために貢献していくことが大切だと思います。
 池田 千鈞の重みがある言葉です。確かな行動の裏付けのある言葉こそ尊いからです。かつてフランスのサルトルが「百万人の飢えた子どもにとって、いったい文学に何の意味があるか」(一九六四年四月「ル・モンド」紙のインタビューの要旨)との問いを発したことがあります。それは、文学を含む芸術と民衆、そして芸術と人生の現実とのあるべき関係についての鋭い問題提起でもありました。
 文学や芸術が、社会や民衆のために、いかなる役割を果たせるかという問いは、「人生のための芸術」を端的に主張しているようにも思われます。
 もちろん、一方には「芸術のための芸術」(平井博『オスカー・ワイルドの生涯』松柏社)――つまり文学のオスカー・ワイルドやボードレールに代表される“芸術はただ芸術そのもののために創作されなければならない”という議論もあります。
 ただ、そうした難解な芸術論はともかく、芸術は民衆の心の昇華に真髄があることを忘れてはならないでしょう。やはり「何のため」という原点への問いかけがあってこそ、より大きな価値を発揮することができると思います。その意味からも、「芸術的創造は民衆に奉仕するものでなければならない」との先生の言葉に私は共感します。
 そこで先生ご自身の胸中において、民衆と芸術を結ぶ、いわば中心点は何かをうかがいたいのですが……。
  私は民衆を愛しています。民衆は創造的力と多くの困難を克服する力をもっています。私にとって、その中心点は、芸術をとおして民衆と芸術に対する心の中の熱烈な愛情を表現していくことだと思います。
2  芸術の役割と評価
 池田 次に、芸術作品の価値を評価することのむずかしさについて、ここで触れておきたいと思います。すばらしい芸術作品として、今日広く認められているものも、それが描かれた当時は、人々から受け入れられず、罵倒の対象になったものが多くあります。ルーブル美術館に所蔵されている作品でも、そうした例が少なくありません。
 印象派の画家たちの多くもそうであったし、美術史に登場する先駆的な仕事をした人々も、不遇のまま生涯を終えるということがしばしば見られます。近代芸術においても、そうした生前は無名の人々が、歴史に残る創造的な仕事をしている例を多く見るのですが、古代芸術史を飾る仕事は、ほとんどが名前さえ残っていない人々の手によるものでした。敦煌の画家たちもそうでした。
  現代では一般の多くの人は、絵を見ても、それを「だれ」が描いたのかをまず見ます。その作品が「人にあたえる作用、人にあたえる感動」をあまり問題にしません。「だれ」がわかると、次にその人物は、有名であるかどうかを問題にします。つまり絵が商品になっているのです。しかし、古代の芸術は、商品のための芸術ではありませんでした。人に感動をあたえるために創作されたものでした。
 現代においても、本当は、まず、その作品が人々にあたえる感動が強いか弱いかを判断することが大切で、「だれ」が描いた、その画家の値段はいくらぐらいといった判断を先にしてはいけない。当然、自分が好きな画家、そうでない画家もいますが、そうした好き嫌いを判断基準にしたり、普遍的な価値観と思ってはならないと思うのです。
 池田 絵画に限らず、何が本当に人間にとって大切かが忘れられつつあることは残念です。
 いくら私たちのまわりに美しいものがあっても、肝心の自分の心の眼が曇ったレンズのようでは何も見えない。つまり、自然が生みだす花や草木、動物たち。自然が造り上げた景色。あるいは人間の姿形。人間が創造したもの。それらをどう感じとるかは、その人の内面の投影といえるでしょう。まことに心とは微妙にして、かつすべてを決定していく不思議な実在といえます。
 今まで美しいと思っていた景色が、苦しみや、深い悲しみのときには、美しいものとは映らないこともある。日常見なれた風景が、大病をした人には、まるで違って見える場合もある。余命を大切に生きようという自覚のなかで眼に映る光景は、普段まったく気づかなかった美しさとなることもある。反対に美しいと思ってきたものが、虚ろな心に空虚で、無意味、無価値なものとしか感じられないという人もいる。
 つまり美しいという感情の発現は、その人の感性だけでなく、境涯、置かれた環境、精神状況などによって、一人一人、違っています。美術作品に対しても同じことが言えると思います。芸術家も自分が見つめたものを、感じたものを、あるいは表現したいことを、形あるものに作り上げていきます。こうして創造された芸術は、創造者の人間性、感性、置かれた環境、境涯などを反映しています。
 私たちの時代においても、大いなる精神の飛翔がなければ、大いなる芸術の創造も、また、それをはぐくむ豊かな土壌も作りえないのではないでしょうか。
 先生が言われたように、ただたんに物質的な報酬のための作品もあるかもしれませんが、不便な環境のなかで、壁や天井のいたるところに描き出され、塑像として造形された膨大な敦煌芸術には、信仰心に根差したひたむきさ、永遠なるものへの祈りと憧憬の心がこめられていると思います。
 私が敦煌芸術を大事にしたいと思うのは、文化の中心地から遠く離れたところで、多くの名もなき芸術家たちが残した膨大な作品のなかに、そうした本物の価値をもつ作品があるからです。また、戦争や政治を中心につづられた歴史では光の当たらない砂漠の一角で、文化の創造、美の創造を、営々とつづけてきた無名の人々への共感もあります。
 自然があたえている美の世界に対して、芸術作品は人間の力で創造された美の世界です。そうした空間が、シルクロードのなかに築かれて、作品をとおして、現代を生きる人々に、温かな心で語りかけ、遙かなる美の光彩を伝えてくれることを、大切にしたいという思いが私には強くあります。
 ところで芸術作品の評価もそうですが、古今東西、他の分野でも、その価値が正しく認識されなかったり、先駆的な仕事が、批判中傷されるようなことが多くあります。私はかつて、この歴史の教訓を、創価大学で「迫害と人生」というテーマで講演(=本全集第1巻収録)したことがあります。
 歴史上に偉大な足跡を残した人々の生き方を考察しつつ、青年たちに、真実を鋭く洞察しゆく眼をもってほしい、また長いこれからの人生の旅路にあって、強く生きぬいていく一つの糧になればとの心情から語ったものでした。そのなかで、中国の楚の詩人・屈原の生涯についても話しました。彼の「余が心の善しとする所 九たび死すといえども 猶未だ悔いず」(『屈原詩集』黒須重彦訳、角川書店)との言葉は私もたいへんに好きな言葉です。
  屈原は私も尊敬する詩人です。
 池田 屈原は、阿諛諂佞の側近の讒言によって王から追放されたとき、「心を屈して 志をおさえ 追放のとがめを忍んで 恥に耐えよう 清廉潔白を守り 正義に殉ずることこそ 古の聖人の深く教えたもうたところ」(同前)と痛恨の思いで後世に詩を残しました。また、その意味で司馬遷も忘れられない人物です。司馬遷は志を完成させるために、ありとあらゆる屈辱を忍んで生き延びて『史記』を残しました。
 絵画の世界では、たとえばセザンヌの一生、これは本当は常先生からうかがうことですが(笑い)、セザンヌはマティスが「セザンヌはわれわれすべての父である」(ジョン・ラッセル原著『マティス』中原佑介監修、タイム・ライフ・インターナショナル)と言ったように「現代絵画の父」として歴史に大きな足跡をとどめました。しかし、その生涯はほとんど世間の無理解と嘲笑と侮辱のなかにありました。第一回の印象画展に出品した作品は「錯乱に動かされて描く、一種の狂人のように」(アンリ・ペリュショ『セザンヌ』矢内原伊作訳、みすず書房)とまで酷評されました。
 「ヴィクトル・ショケの肖像」に対しては「狂人が狂人を描いたような絵」(『世界美術全集』教育図書出版 山田書院)という批評が書かれていますね。しかし彼は頑固なまでに自己の信念を貫きつづけました。
 このほかレーニン、ガンジーなどの生涯を見ても、じつは苦難こそ、人生を闇から暁へ、混沌から秩序へ飛躍させていく回転軸となった。人間はそのなかでこそ輝いていくことができる――。
 中国の「文革」(文化大革命)の時期などのさまざまな困難については、多くの方から、うかがっておりますが、そのなかで魂を鍛えた人たちが、新しい創造の道を開いていくならば、必ず芸術の世界でもすばらしい成果がもたらされることでしょう。
 そこで、すでにうかがいましたが、常書鴻先生もたいへんな労苦のなか、道を開いてこられた。この間、ご自分を支えてきた内的な力はどのようなものでしたか。
  留学に出発する当時の私の心情は、とにかく人の上に出て、祖先の名を上げようといったものでしたが、フランスに行って、私の目標は次第に自分のため、ということから民族、国家のために努力していこうという意識革命がありました。
 敦煌にいる間に、この民族意識と仏教の影響を受けていくなかで「敦煌芸術は中国の文化伝統であり、命を捨てても守らなければならない。どんな困難に直面しても、克服しなければならない」という使命感が芽生えました。この使命感が、すべての困難な時期に私を支えてくれました。その後、周恩来総理がずっと守ってくださいました。
 困難な時期のなかでも、中国の歴史上、最大の災難といわれる文化大革命の時期のことは簡単には語ることはできません。この間、どんなに迫害を受けたか。どんなに侮辱されたか。私と私の伴侶と家族が、どのように困難と戦い、勝ったか。これを語るには長い時間がかかります。この質問の答えはこのへんまでにしましょう。
 パリでペリオの『敦煌石窟』の図録を見てから、私の運命は敦煌と結ばれてきました。以来、半世紀の間に、一家離散や迫害などの苦杯を嘗めてきました。
 しかし、人生の最後の段階にいたったとき、私は「今まで自分が選んだ人生は間違っていなかった」と言いきれると思い、一度も後悔をしたことはありませんでした。
 ただ、半世紀が過ぎるのが、あまりに早かったという思いはあります。敦煌の研究と保護には、まだたくさんやらなければならない仕事が残されています。
 かつて池田先生から「もし今度、ふたたび、人間に生まれてきたとき、どんな職業を選びますか」と聞かれたことがありました。私は仏教徒ではありませんので「転生」は信じておりませんが、でも、もし、本当に人間に生まれることができるならば、私はやはり「常書鴻」を選んで、未完成の仕事をつづけていきたいと思います。
 池田 よくわかりました。またよくわかります。
 さて中国美術の近代の流れも、いくつかの変遷を経てきましたね……。
  清末から今日までの動向を六段階に分けてお話しいたします。第一段階は、清朝末期、留学生を西洋に派遣して、西洋画の技術を習得させた時期です。彼らは帰国後、宮廷内で西太后の肖像画などを描きました。
 第二段階は、一九三〇年代ごろ、徐悲鴻氏を中心とする私たち青年画家が、海外に留学し、西洋の絵画技術を中国にもって帰ろうとしました。これらの人々は、ほとんどが三〇年代中に帰国しました。彼らは国立芸術専門学校で教鞭をとりました。私もそのなかの一人でした。私は西洋画を教えました。中国画は斉白石を中心に行っておりました。私たちは同じ学校で、中国画と洋画が、ともどもに発展、普及していくように努力しました。中日戦争の時期、私は重慶にいました。しかし、美術の創作と研究は、ずっと継続しておりました。
 第三段階は、新中国の成立後です。美術も発展しましたが、外国の美術では、フランスよりソ連の美術が重視されました。とくに徐悲鴻氏が逝去されてからは、その傾向が一層強まりました。中国の水墨画においては、過去の伝統を継承することに重点が置かれて、新しい革新的な芸術は見られませんでした。中国革命博物館、歴史博物館、人民大会堂等の建設に合わせて、中国美術界にたくさんの作品が生まれました。この時代は美術創作の大きな高まりが見られた時代です。
 第四段階は、文化大革命の時代です。この期間は災難の年代でした。政治的な原因で特殊な作品を創作しなければなりませんでした。
 第五段階は、文革後、一九七八年(昭和五十三年)に初めてフランスの風景画展を行ったとき、中国美術界にはたいへんな反響がありました。その展示は初めて系統的に、フランスの名画を、時代の古いものから現代画まで紹介したものでした。以来、中国美術界はふたたび西洋の美術に注目するようになりました。
 そして第六段階の現在は、開放の時代に入りました。世界各地から多くの美術資料が中国に紹介されるようになりました。若い画家たちには、今まで勉強する機会があまりなかったので、まだ実力が欠けています。年配の画家たちは若い画家に対して物足りなさと不満があります。しかし、青年画家たちは自分の風格を新たに創りだそうと懸命に努力しています。中国の政治、経済と同じように中国美術界も変革の時期を迎えています。これから、より優れた、より深みのある作品が期待できると思っています。
3  徐悲鴻氏の人間性
 池田 常先生は、現代中国絵画の大家である徐悲鴻氏から大きな励ましを受けられたと聞いておりますが。
  先生は、私が敦煌に行くことに対して「『虎穴に入らずんば、虎子を得ず』。本当に敦煌を認識したければ、また本当に中国の古代文明を認識したければ、みずから敦煌に行く以外他に道がない。唐の玄奘三蔵法師のような苦行の精神をもって、敦煌の民族芸術宝庫を保護し、整理し、研究し、最後まで頑張ってください」と激励してくれました。
 また重慶の私の個展に、わざわざ次のような序を書いてくれました。
 「油絵が中国に入ってから、小生はその普及に力を入れてきた。とくに最近の七、八年間には、芸術界にも(油絵が)頭角を現し、素晴らしい発展をみせている。というのは、この間、英才が輩出し、彼らは海外で芸術の衰微を目撃する一方、祖国では、その復興の時が迫っていると感じている。心に大志を抱き、心あるものは皆挺身して立ち、大業をともに担っている。常書鴻先生はその一人であり、芸術界の雄である。
 常先生はパリに十年近く留学している。師匠は古典主義大家のローランスである。常先生は、帰国前に全作品を集め、パリで展覧会を開いた。わが友のカミーユ・モークレール先生が、文章でその作品を称えた。
 モークレール先生は、今日、世界で最も偉大な文芸評論家であり、彼は簡単に人を称えることはしない。フランス国立外国美術館は、常先生の作品を所蔵に加え、展示している。これは中国人が海外文化界で得たまれな成果である。常先生は勤勉に絵を描き、その作品は常に人々から競って求められ、集めることが難しい。
 今回は西北に赴くために、最新作の人物、風景、静物画等四十枚余りの油絵作品を出品している。すべてが素晴らしい作品である。抗戦(抗日戦争)以来、陪都(重慶)の人々のなかには、文物を好む方が増えているが、常先生のこの展覧は、必ず皆様に新天地をみせてくれると確信する。
     壬午中秋無月 悲鴻序」
 そのほかに徐悲鴻先生は敦煌に行く記念として私に「五鶏図」を贈ってくれました。
 池田 「現代中国絵画は徐悲鴻に始まるといえる」(鶴田武良『近代中国絵画』角川書店、参照)といわれるほど、その足跡は大きく、中国絵画史に残る業績も輝かしい。それとともに、人格もすばらしい方だったことがよくわかります。
 一流の芸術家は人間性も光っています。その磨きぬかれた人間性が、芸術を深いものにしている。多くの優れた芸術家にお会いしての私の実感です。
 徐先生が、後輩の常先生に示された心くばりには、美の世界に生きる同志への深い思いやりがあふれています。また、そういう方だったからこそ、常先生の絵の価値と美、志を曇りなくわが心の鏡に映せたという気がいたします。先人が後につづく人のために、こうした思いやりにあふれた行動をとっていけば、未来はより豊かに、より輝かしいものになっていくことでしょう。「東」と「西」の融合という点でも、徐悲鴻先生の貢献は、たいへんに大きなものでした。
4  ドラクロワとルオー
 池田 二十一世紀へあと十年となった今、人生の大半をシルクロードの美の宝庫・敦煌とともに生きぬいてこられた常先生の胸中には、芸術へのさまざまな思いが去来していることと思います。芸術の過去・現在そして未来、また東と西の壮大な交流など――。そうした所感をうかがいながら、対話を進めたいと思っております。
  ありがとうございます。私にとっても池田先生と、こうして語り合いをつづけられることは、たいへんにうれしいことです。
 池田 先生のご著書『敦煌の風鐸』(秋岡家栄訳、学習研究社)を読みますと、一九二七年(昭和二年)にフランスに留学されてから十年間、ギリシャ、ローマの美術史、理論の研鑚に没頭され、ルネサンス、近世、近代美術の傑作などに親しまれたということですね。とくに十九世紀ロマン派の代表的画家ドラクロワに感銘したとつづられておりました。
 当時は自然科学の目覚ましい発達とともに、新しい人間観、価値観が模索され始めていました。芸術においても、それまでの固定観念に対して、新しい主張をもった画家たちが躍動します。それは対象をいかに見て、いかに表現するかという奔放な個性の開花の時代でもありました。
  フランスで勉強していた時代、私はフランス後期印象派が好きではありませんでした。新現実主義が好きでした。私の師も新現実主義でした。私は静物、人物を描くとき写実主義を重視します。
 そして油絵に中国画の線を取り入れました。中国画の線はすばらしいものです。とくに顧愷之の描く線は見事です。彼の絵はまた色彩も豊富です。
 池田 現代中国の著名な画家・董寿平先生とお会いしたさい、先生も「西洋では光や質感を大事にし、東洋では筆の運び、線を大事にする傾向がある」と語っておられました。また、その折、董先生が「二百年後、三百年後になるかもしれないが、人類は必ずや東洋の精神性を思い起こすことになるにちがいない」と展望されていたことが深く心に残っております。
 それはそれとして、若き日の常先生はルーブル美術館に行くと、ドラクロワの「キオス島の虐殺」などの前に立たれ感銘を受けられた。セザンヌは、ドラクロワをフランスの最も偉大な画家として称え「静寂で悲劇的な作品においても、躍動する作品においても、ドラクロワほど豊かな色彩を駆使した画家はこの世にいない。われわれはみな、ドラクロワをとおして描いているのだ」と言っています。
 しかし、ドラクロワの二十代のこの作品は、サロンに入選したものの、初め画壇からは罵倒されています。この名画が「絵画の虐殺」(高階秀爾編著『ドラクロワ』講談社)と皮肉られ、批判されたこともよく知られております。
 当時の社会的事件を豊かな感受性とあふれる情熱をもって、劇的に色彩豊かに描き出した作品は、まことに個性的でした。こうした彼の作風は、新世界との出合いによって深まっていきます。
 彼の有名な「ミソロンギの廃墟に立つギリシャ」は、ボルドー美術館から、東京富士美術館の開館記念の「近世フランス絵画展」に出品していただきましたが、ギリシャ独立戦争に想を得、東方の情趣をもったこの作品は、ひときわ印象に残るものでした。
 彼はパリの近郊のセーヌ川にほど近い町に生まれています。その彼が東方世界への憧れを胸に、スペイン、モロッコ、アルジェリアを回る半年以上の旅行に出たのが三十四歳。この旅が彼の芸術をさらに豊かにしたようです。
 フランスの風土と異なった地中海の明るい日差し、異国の風俗がどれほど彼の創造性を刺激したかは、分厚いノート七冊に描かれたスケッチが五百点にも及んだことにもうかがえます。
 異質なものと出合い、さまざまな世界を知っていくたびに優れた感性の世界が広がり、独創的な芸術が現出していったにちがいありません。
  敦煌壁画のなかで北魏時代(三八六年―五三四年)の絵には、そうした絵が見られます。北魏民族の性格は、粗野な一面と、きめ細かい一面をあわせもっています。そうした性格は北魏時代の敦煌絵画の特徴にもなっています。
 大胆に描かれているところと、繊細に描かれているところがあります。描き始めたときは、とても粗野であったものが、完成したものを見るとたいへんうまくおさまっています。唐代の壁画には、このような特徴はありません。早期の壁画は、ルオーの絵のような風格をもっているといえましょう。
 私が日本に行って、いちばん大きな思想変化をもたらした出来事は、ルオーの美術作品を参観したことでした。私は山梨県の清春白樺美術館を訪問しました。そこには多くのルオーの美術作品が展示されていました。美術の仕事に従事して以来、ルオーから大きな影響を受けてきましたが、彼の絵は現代画の一種の新しい見方、新たな表現の仕方だと思います。西洋芸術には、私たち東洋人から見るとたくさん学ぶことがあります。私は彼らの創作思考にたいへん興味をもっています。
 池田 いうまでもなく、ルオーの絵は、二十世紀前半の絵画世界のなかで、独自の光を放っています。彼は「実際、美しいものはいつも隠れており、これまでも常にそうだった。それを探求し、死に至るまで忍耐づよくそれを見出そうと努めなければならない。この探求にたずさわる人には、いつも苦しみと悩みがあるだろう。しかしまた、深く静かな歓喜もあるだろう」(『現代世界美術全集』8、河出書房新社)と語っていますが、彼の生涯を見ても、幾十年も世間から無視され「狂人画家」と言われてきました。
 しかし、今日、ルオーの絵は近代絵画史に残り、彼の足跡は歴史に記されるものとなりました。
 彼の画業を見ると、早い時期においては、人間の醜悪な姿、貧民街などが描かれています。それらの絵は、一般的な意味では、決して美しいものとはいえません。貧しさ、不安、生きていく苦しさなどを、赤裸々に告発するような激しさで描いています。
 一九四八年(昭和二十三年)の彼の作品のテーマは、たいへん印象に残るものです。当時、すでに八十歳に近く、その三年前にはニューヨーク近代美術館で大回顧展が開かれ、彼の業績については広く認められるようになっていましたが、その絵は人間が台から首をつってぶら下がっているものです。この絵にルオーは「人間は人間にとって狼だ」(世界美術全集19『ルオー』河出書房新社)という言葉を添えています。
 彼はこうした人間の醜悪さ、現実のさまざまな不幸、貧しさを描き出すとともに、その奥にあるものを凝視して、魂の高貴さ、静謐な精神世界を表現しています。
 常先生が、おっしゃっている敦煌壁画との類似性についても、大胆な表現といった技術面に限らず、絵画を通じて人間を探求し、精神世界を表現したという面にも目を向けることができると私は思います。
 ルオーは「私は描くことできわめて幸福であり、絵画を熱愛し、それによってどんなに暗い悲しみのなかにあってすらすべてを忘れた。批評家たちは、私の主題が悲劇的なので、それに気づかなかった。だが歓喜は描かれる主題のなかだけにあるものだろうか」(前掲『現代世界美術全集』8)という言葉を残しています。
 悲劇的な主題を描いていても、その悲劇のなかの人々の苦悩を表現するなかに、自分の苦悩を忘れ、歓喜さえ感じていたというこの言葉は、暗い洞窟の中で、貧しい生活環境にありながら、敦煌芸術を創造する仕事にたずさわった画工たちの心境にも通じるような思いがいたします。ルオーと、敦煌の無名の芸術家は、その基盤とする精神性は異なっていても、人間の魂の表現と創造の喜びを共有していたといえるでしょう。「人間は人間にとって狼だ」という現実社会。その対極にある美しい平穏な精神世界。この両方を結びながら、永遠なるもの、美しいものを探求しつづけた芸術として共通点が見いだせるのではないでしょうか。
  ええ。私は、ドラクロワが東方世界に影響を受けたり、ルオーがかつて東洋芸術を吸収して彼の作品を生みだしたのと同じように、中国でも必ずや東西芸術の融和がみられる日がくると思います。また中国画壇でも、きっと東山魁夷先生、加山又造先生のような文化交流を身をもって実証するような画家が輩出すると確信しています。
 池田 加山又造画伯は、日本絵画史を、中国の唐代までの文化が一挙に入ってきた七世紀で区切り、それ以前は古代、七世紀から十六世紀の室町時代終わりまでを近代と分けています。
 そして「日本文化は、起源的にも渡来文化であり、巨視的には古代も近代も中国文明圏の一地方文化として位置づけられる」(『現代日本画全集』第十七巻、集英社)と述べていました。
 こうした圧倒的な中国文化の影響のもとで、日本的なものが芽生え、成長してきた歴史を思うにつけても、私は貴国との縁に感慨を深くします。
 ところで、フランスのルネ・ユイグ氏は、西洋美術も、印象派や世紀末美術に見られるように、つねに東洋との出合いのたびに変容している、と語っています。中国の伝統豊かな文化的土壌にあっても、東西の文化交流の一層の進展が新風をもたらし、さらに二十一世紀の芸術がより豊饒なものになっていくことを私も期待しております。
  絵画は、新しいものをつねに吸収しなければなりません。敦煌壁画を見てもわかるとおり、それらには中国独自の風格があり、また外国の影響も受けております。外来の文化の影響を受けて、絢爛たる文化を創りだしていくことは、よくありました。唐代の文化もそうでした。日本の絵画も過去は中国の芸術を導入したと思います。
5  東山魁夷氏の足跡
 池田 優れた芸術は、人類共通の財産ともいえます。民衆の魂の昇華である芸術は、国境を超えて共鳴し合いながら、ますます輝きを増していくものでしょう。
 日本の絵画にあっても、横山大観画伯などは長い苦悶のなかから、西洋絵画の世界観を日本絵画に取り入れ、絵画革新の道を歩んでおります。現代においては、東山魁夷画伯、杉山寧画伯らは、本質的には日本画に属しながらも、西洋画の要素を清新な手法で取り入れ、独自の世界を開かれています。
 とともに、近代絵画における「影響関係」をみると、日本の場合は、必ずしも西洋からの一方通行ではありませんでした。「日本美術の影響」が、十九世紀のフランスを中心に及んだ例もあります。たとえば俵屋宗達、葛飾北斎、歌川(安藤)広重らが、マネ、モネ、ゴッホ、ドガ……等々へ及ぼした創造的影響関係。こういう点を追究することも大切でしょう。
 北斎らの浮世絵画家から多大な影響を受けたドガは、ある日本人がパリの国立美術学校に入学したと聞いて、驚いて「日本に生まれるという幸運に恵まれながら、何故自分から進んで、セーヌ河岸の隅にある学校の教師の鞭を受けに来たのだろうか」(池上忠治編著『ドガ』講談社)と語ったということも伝えられています。
  東山魁夷先生、杉山寧先生等の絵には西洋画の要素が強いと日本では見られているかもしれませんが、私たち外国人から見ると、それはやはり日本画であり、日本風の味わいが漂っています。
 池田 東山魁夷画伯には、最近も、その作品を拙著(『私の人間学』)の装画に使用させていただくなど、たいへんに光栄なことと思っております。
 東洋と西洋といえば、東山画伯は若いころベルリンに留学されております。ただその後、画伯の歩んでこられた道、そして創造された世界のなかでは「東」も「西」もない。美しいもの、永遠なるものを見つめて、ひたすらに進んでおられるように思います。
 またその作品には、清明な美があり、一面の銀世界においても、みずみずしい生命感があります。冬枯れの木々を描いても、生命あるものの存在感がある。有名な「残照」のように、遙か遠くにつづいている山と谷の重なりのなかにも、静穏な大きな生命が感じられます。そこには、西洋芸術の世界に触れた画伯の、より深い東洋的な精神世界への回帰が見られる気がします。
  こうしたことから、今後の中国画壇の発展を考えると、西洋画風と中国画風の結合も不可能ではないと思います。敦煌芸術は、その良い証明です。敦煌芸術は、中国の伝統技術が外来の文化の影響を受けて生みだした新しい芸術です。
 現在、世界で文化交流活動が活発に行われています。中国の若い画家たちも外国、西洋のものを吸収し、新しいものを創りだし、美術史に価値ある作品を残す可能性が十分出ています。
 私は近い将来に新しい型の中国画の誕生を期待しています。それは敦煌画派の復活になるかもしれません。そのときになって、私が四十余年来期待していた敦煌画派の夢はついに現実となります。私も満足します。
 池田 すでに、常先生は、その種を蒔かれました。時とともに必ず大きく育っていくことでしょう。
6  平山郁夫氏の画業
 池田 日本で印象深い画家は、どなたかいらっしゃいますか。
  平山郁夫先生です。私が平山先生と知り合ったのは一九五七年(昭和三十二年)でした。東京で開催されている敦煌芸術展に出席するために日本を訪れ、東京芸術大学を訪問しました。その折、当時、多分、助手をしていらっしゃった平山先生は、ご自身が模写した絵を見せてくれました。平山先生は、非常に熱心に奈良時代の唐代芸術、つまり敦煌と密接な関係をもっている中国唐代の芸術を研究されていました。
 一九七九年には、私たちは平山先生と美知子夫人を敦煌に招待しました。妻の李承仙はお二人のお供をして、陽関、月牙泉の見学にまいりました。平山先生と接するなかで最も感心したところは、その絵画に対する真剣な姿勢です。わずか数日間だけの滞在で参観、模写し、百二十枚のスケッチを描き上げました。
 その年の十月末に、私たちが東京芸術大学を訪問したさいには、平山先生はわざわざ鎌倉の自宅から、ご自分の絵をもってきて見せてくれました。そのとき、食事に招かれました。最後のデザートにアイスクリームのてんぷらが運ばれました。平山先生は芸術談議に熱中のあまり、アイスクリームが溶けていることにも気がつかず、結局は食べられなくなりました。(笑い)
 平山先生の絵には、一種の宗教的、信仰的な敬虔さと、誠意が感じられます。とても心を和ますような静謐さがあります。平山先生から、広島での被爆体験を聞いたことがありますが、そうした大難を乗り越えたことで、宗教的な心と安寧な精神が得られたと私は思います。
 池田 平山画伯は私も一度お会いしたことがあります。いい方ですね。画伯にも、『忘れ得ぬ出会い』『敦煌を語る』『四季の雁書』などの装画や挿絵でも、たいへんお世話になりました。
 平山画伯の絵には静謐さがあるとのお話ですが、私もそう思います。たとえば「ペルセポリス炎上」をテーマにした絵は、画伯が広島の原爆を目撃したときの紅蓮の炎が、画面をいっぱいにつつみ、一切を燃やし尽くすような激しいものです。しかし、その炎上し崩れゆく宮殿の絵のなかに、人間の営みと、永遠なるものを凝視している静まりかえった精神を私は感じます。画伯が原爆に遭ったのは、中学生のときだったとうかがいました。最も多感な時代に、破壊と悲惨の極みを、目のあたりにされたことは、作品にも深い影響をあたえたのでしょう。
 私がお会いしたときに、画伯は「一切の根源にあるものをつかみたい。それが知りたかった。それは自分自身で感得する以外にないと思います」と語っておられました。また宗教にしても文化にしても「生命の大地」から生まれてきたことを実感すると述べられていました。
 「ペルセポリス炎上」の絵に見られるように、栄華を極めた帝王の宮殿も、いつか破壊されていく。そうした人間の営みの一切をつつみこんでつづいていく遙かなる歴史への思い、平和への祈り、永遠なるものへの憧憬、時代の変遷をくぐりながらひたすら生きぬいていく人間への温かい眼差しが画伯の作品から感じられますね。
 画伯の描いた「敦煌」は、そうした個性があふれていて見事です。鳴沙山から地平まで、茫漠たる大地が広がっている。砂漠のなかに、奇跡のように緑の一角があり、そこに人間が築いた莫高窟が厳として存在する。
 この絵を見ていると、悠久の歴史、大自然のなかの人間の小ささ、反面、そのなかで生きつづけながら、歴史を築いていく人間へのいとおしいような感情がわいてきます。そうした心情は、敦煌の無名の美の創造者、美の探求者たちも共有していたと私は思います。 
7  99999999 *第五章 万代の友好の絆
8  日本文化の源流
  一九五八年(昭和三十三年)に、私が敦煌展開催のために訪日した折、日本の考古学者の原田淑人先生が「敦煌芸術は日本芸術のルーツである」と明確に語っておられました。シルクロードや敦煌と日本文化との関係性を、具体的にうかがいたいのですが……。
 池田 日本の文化は、美術、芸術のみならず、多くの分野で中国文化の大きな影響下にありました。さらにシルクロードを通じて、西域やインド、ペルシャの文化も流入してきましたが、敦煌の文物を見ると、たしかに日本文化につながる文化の流れを感じます。
 平山郁夫氏の画文集(『西から東にかけて』日本経済新聞社)にも、敦煌第二二〇窟の中で見つけられた三尊スタイルの菩薩像が、法隆寺金堂の六号壁画の描法と非常によく似ていることから「日本美術の源流に遭遇した」と書かれていました。
 四世紀末から七世紀にかけての古墳文化の副葬品を見ると、北方アジア伝来と考えられるものが多く見られます。七世紀から遣隋使、遣唐使の制度が始まって、日本は中国を通じて、シルクロード伝来の文化の多くを吸収しました。
 遣隋使、遣唐使の一行には、大工、医師たちも含まれていましたし、多くの学僧や、留学生もいました。彼らは、洛陽や長安の都に滞在して、膨大な仏典を書写し、日本に持ち帰りました。そのなかには『法華経』などの大乗経典や論書が多く含まれています。その淵源をたどっていけば、これらの仏典がシルクロードを経由して伝えられたことは言うまでもありません。
 また“シルクロードの終着点”とさえ言われる奈良の正倉院に収蔵されている宝物、芸術品は、ほとんどが中国からのものですが、なかにはイラン方面からもたらされた芸術品も見られます。
 法隆寺にある玉虫厨子の「捨身飼虎図」にしても、敦煌莫高窟の第四二八窟にある「薩埵太子本生図」と同じ図柄ともいわれていますし、私たちの生活のなかでも、キュウリ、ブドウなどの食べ物から、言語、日常の作法までシルクロード伝来のものが数多く見いだせます。こうしたことからも、シルクロードには日本で関心をもつ人が多くおりましたが、近年はNHKテレビの特集などで、シルクロードが紹介されることも増えて、一層、身近に感じられ、敦煌への関心も高まっています。
  井上靖先生の小説『敦煌』の映画化もあり、日本の敦煌熱はますます高まっています。このことは中日文化交流史のうえからも、すばらしいことだと思います。
 敦煌ブームの出現は、決して偶然ではないと思います。中日両民族は、もともと同一の文化のなかに育ち、成長してきました。敦煌は中日両国の人民の友情のパイプとなり、友好関係を一層深めてくれると私は確信しています。
 池田 敦煌の歴史文物を見れば、仏教の伝来ルートとなったシルクロード、また中国との古くからの文化の絆は明瞭ですし、大きな文化的恩恵を日本が得ていることを知ることができます。
 日本文化の源流に関して、日本民族は南方の“海の道”を北上してきたという説、また北方から朝鮮半島(韓半島)を経由してきたという説などがあり、さまざまに論議されてきました。とくに江上波夫氏(東京大学名誉教授)が、有名な「騎馬民族征服説」を提起されて、東北アジア系騎馬民族が、朝鮮半島(韓半島)から日本に入り、国家を建設したという説も一つの有力な学説となっています。
 日本文化の源流を尋ねていくと、たとえば、言語、生活、習慣のある部分は、南方にルーツがあるものもあり、またあるものは中国の江南地方、雲南地方に由来すると考えられるものとさまざまですが、考古学、言語学などからみても、朝鮮半島(韓半島)からの流れも大きいものでした。
 統一国家が形成されてからの日本は、中国を政治、文化のモデルとして、制度や文化を取り入れました。儒教、書画なども日本文化に多大な影響をあたえました。なかでも漢訳された仏教経典は、日本文化の形成に大きな役割を果たしました。仏教芸術は日本の芸術文化の基盤ともなりましたし、精神文化の中心軸になってきました。古代、中世の日本美術の宝といってよい作品の多くは、仏教美術です。
 しかし、明治維新になり、国家主義の台頭によって仏教は弾圧されました。とくに対外侵略を行い、軍国主義化していくなかで、国家神道が大きな力をもって、仏教文化の光は消えてしまったかのような時期もありました。
 軍国主義権力の横暴な弾圧によって、牧口常三郎初代会長が投獄されたのも、また戸田城聖第二代会長が二年間、獄中の身となったのも、それが最も顕著な時代でした。
 かつて敦煌に絢爛と花を咲かせ、中国、日本文化を豊かにしてきた仏教文化の流れが、軍国主義の時代には、砂漠のなかに消滅していく流れのように、視界から消えてしまったわけです。しかし、二十一世紀を展望するにあたって、今日、新しい仏教文化の開花に着眼する西欧の識者も数多くおります。
 インドから流れ始めた仏教文化の流れが、中国、日本へと時代を潤しながら大河となっていったように、まことに地道ではありますが、仏法を基調にした平和と文化の運動が、アジアひいては世界の安定と繁栄に、大いなる貢献を果たすべき時代が到来していると私は見ております。
9  民衆と民衆の心に懸け橋
  創価学会について、いくつかお尋ねしたいのですが、初めに、創価学会の方針、および目的はどのようなものであるかについて、簡単で結構ですので説明していただければと思います。
 池田 一言でいえば、「人間」そのものに仏法という生命哲理の本源の光を当てながら「平和の価値」「文化の価値」「人生の価値」を創造していくことです。つまり、一人一人の絶えざる人間革命の歩みを機軸にしながら、平和実現に絶えまなき挑戦をなしゆく運動体といえるでしょう。
  創価学会は仏教団体であるのに、反戦平和運動と相通ずるところ、また関係するところは、どこにあるのでしょうか。
 池田 先生のご質問の根本には、仏教は本来、悩める一人一人の心や内面に、やすらぎをあたえ、救いをもたらす、広い意味での“個人主義”的な宗教である、とのお考えがあるように思います。ところで、私が認識している真実の仏教は、元来、慈悲と生命の尊厳を説くことから出発しております。つまり人間としての成長の方途は、たんに個人的な安穏にとどまらず、他者と苦楽をともにし、他者の生存の力を強化するための行為のなかにあることを鋭く見抜いております。そして尊き生命を傷つけ、破壊するような社会や環境を変革していくことに主体的に関わっていくべきことを教えています。
 インドに生まれた仏教の開祖・釈尊の生命尊厳の理念は、釈尊が王位を捨てて出家し成道して、一切の衆生の殺傷を禁じていることからも明らかです。これに加えて釈尊の晩年のエピソードは仏教の本質が平和思想にあることを雄弁に物語っています。
 釈尊が晩年、霊鷲山において『法華経』などを説いていたころ、マガダ国の王の阿闍世は隣国のヴァッジ族を征伐しようとしていました。阿闍世王は大臣のヴァルシャカーラを霊鷲山にいる釈尊のもとに使いとして送り、ヴァッジ族征伐の旨を告げさせました。これに対して、釈尊は自分はかつて、ヴァッジ族に対して“衰亡をきたさない七種の法”(それらを実行しておれば国が滅びない七つの事柄)を説いたことを明かすとともに、現在、ヴァッジ族は七つとも実行しているので繁栄し、衰亡もしないと述べています。そして、使者の大臣に、繁栄するヴァッジ族に対して戦争を起こすことの非を説き、こうして好戦的な阿闍世王を思いとどまらせた、というものです。
 このエピソードからも明らかなように、釈尊はたんに個人の内面的な救いのみを説いただけではなく、時には国や部族が繁栄し衰亡をきたさないための方法も説いて、平和実現のための積極的な仏教の展開を試みてもいることがわかります。
 また、釈尊滅後、同じマガダ国の暴君として恐れられた阿育王は、仏教に敵対していた時期には十数万人の人を殺し、さらに各国を侵略して版図を拡大していました。ところが即位して十年後に仏法を信奉するようになると、阿育王は一大改心をして侵略することをやめました。
 徹底した平和憲章ともいうべき阿育王の石刻の法勅は、二千二百年後の現在でも、インド、パキスタン、アフガニスタンなどで次々と発見されております。この阿育王の石刻の流布は、いわば、仏教の平和思想が東から西へと伝播されていった文化交流の偉大な事跡の先例といってよく、逆に西から東への文化交流を進めたマケドニアの大王アレクサンドロス(アレキサンダー大王とも)の東征と相呼応するものです。
 阿育王とアレクサンドロス大王とは、それぞれ古代において東西の文化交流に大きな役割を果たしたわけですが、興味深いことに、阿育王が仏教に帰依して戦争を放棄した後、平和の石刻を各地にもたらすという平和の交流であったのに対し、アレクサンドロスは、武力による征服により、被征服地の国々にギリシャ文化をもたらし交流を促しました。それはともかくとして、創価学会では仏法の歴史を貫く慈悲の思想と生命尊厳の理念を基調として、幅広く平和・文化・教育の運動を展開しています。
 私どもが信仰する日蓮大聖人の仏法では「生命の尊厳」を深い人間観、生命観のうえから徹底して説かれております。たとえば「命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(御書九八六㌻)、あるいは「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」(御書一五九六㌻)などと仰せられています。
 ここでは、命、生命というものは、宇宙に敷き満つるほど無量の宝をもってしても、代えることのできない絶対的な価値をそれ自体のなかに所有している、とわかりやすく説かれている。こうした生命の尊厳の確かなる思想基盤を築くことこそ仏法者の使命です。
 また、この尊い生命の価値を真実に実現するためには、社会・環境の平和と安定が不可欠であることを「国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祈らん者か」(御書三一㌻)と示されています。ここでは、“一身の安堵”つまり、各人一人一人の身体と心の安定を思うならば、まず第一に考えなければならないことは、“四表の静謐”すなわち個人を取り巻く四囲の環境世界の静穏、平和が実現するように祈っていくべきである、また行動していくべきであると説かれています。
 そうした平和観に基づいて、さまざまな活動が展開されてきました。国連でも開催されましたが、核兵器のない世界へ、戦争のない地球への世論を高めるための展示会もその一つです。また戦争を体験した人々の平和への思いを結集した反戦出版の発刊も行われてきました。教育、文化交流などもその一環です。私どもは生命の尊厳性を民衆の一人一人が深く自覚していくような運動が今こそ大切と思っております。
  私の七回の訪日のなかで印象深かったのは、一九八五年(昭和六十年)に、埼玉県での創価学会の青年平和文化祭に参加したときでした。たいへんに感動しました。あのような青年平和文化祭は、毎年、何回くらい開催されるのですか。また、どのような意義と反響がありますか。
 池田 常先生がお寄せくださったご感想(「聖教新聞」一九八五年十月十七日付)を読ませていただきました。「中国敦煌展」が遠い歴史の“静の美”とすれば、文化祭で見た青年の躍動は未来に広がりゆく“動の美”であると、見事に対照させて語ってくださり、過分なおほめのお言葉と恐縮しております。
 あの埼玉県での文化祭は、その年、全国各地で催された二十三回の文化祭のうち、十四番目にあたるものでした。そこで文化祭を毎年、何回くらい開催するか、とのご質問ですが、年ごとに「核の脅威展」や「世界の少年少女絵画展」「世界の教科書展」、また、文化的な講演会や展示会等、さまざまな運動の潮流もあり、必ずしも一定しておりません。ただ同年は、ちょうど創価学会の創立五十五周年にもあたっており、各地からの要望もあって、その祝賀の意義もこめて、かなり多く開催されました。
 いずれにせよ、私どもは、青年たちの新しい平和と文化の運動を最大に大切にしていきたいと思っています。各地域において、青年や学生たちが自発的に結集し、一切を企画・運営していく文化祭には主役も脇役もありません。一人一人が主体者です。そして壮年や婦人、芸術家等の会員も協力して“人間と平和と文化”を謳い上げていく地域の祭典とも言えると思います。
 私どもの文化祭は、あくまでも民衆のなかから、民衆一人一人の手によって作られていくものです。地域の文化と伝統を生かして、新たな志向も加味しつつ“地域の発展”と、“人間の共感”、“平和への意志”を深め、広げることが大きな目的です。反響は、さまざまです。多い感想は、文化祭に参加した人々の目が生き生きと輝いていたという意見でしょうか。また、わが地域に、このようにはつらつと希望に満ちた青年が多くいることを目のあたりにして、心強く思った等の声も寄せられます。
 未来を担いゆく青年たちが、こうした文化運動を自分たちの手で、一つ一つ創造しゆく過程にあって、みずからを強く深く鍛錬していってもらえれば、また、そこで得たかけがえのない友情や感動を発条として、さらにそれぞれの分野で人生の勝利をかち取ってほしいということが私の願いです。
 なお、当然、それぞれの国柄によって内容も特色も異なりますが、日本だけでなくアメリカ、ブラジル、ペルー、香港、シンガポール、マレーシア、ドミニカ、パナマ等の国・地域でも文化祭が行われてきました。そこには世界各国の青年たちが人種の違い、肌の色の違いを超えて手をつなぎ、平和という共通の目的に向かう、うるわしい姿があります。いわば地球家族の縮図ともいうべき人類一体感がそこにはあると思っております。
  創価学会の推進する平和文化活動、なかんずく青年の育成の面においての貢献に、私は感服しております。というのは、青年は未来世界の主人公だからです。青年を正しく導き、正しい生き方を教えていくことは、私たち先輩の責任です。池田先生が青年の育成に力を入れておられるのは、将来を見とおした行動だと思います。
 池田 ありがとうございます。私どもへの励ましと期待のお言葉と受けとめ、さらに未来のために力を尽くしてまいりたいと思います。
  池田先生は幅広く中国の文化・芸術界と交流しておられますが、そのご感想および今後の展望についてはいかがでしょうか。
 池田 私の恩師は「中国がこれからの世界史に重要な役割を果たす」とよく言われておりました。また隣国である貴国と日本の友好と交流が、アジアの安定と世界の平和に絶対に欠かすことができない。そして民衆と民衆との信頼に貫かれた深く強い交流こそが、新しい時代を開くと展望しておりました。民間交流の広範なネットワークを作ることが世界平和への基盤を固める正しき道であると私も確信しております。
 そこで民衆と民衆とがたがいに友好を深めるということは、まず異なる文化を対等に認め合うところから始めなければなりません。そこから、たがいに人間としてのより深い共感が生まれ、信頼が芽生えていくと思うからです。とくに貴国は悠久の歴史のなかで育まれてきた偉大なる文化の伝統があります。また、日本文化の恩人の国でもあります。
 私どもも今日まで北京大学、復旦大学、武漢大学との教育交流、青年の交流、学者、医師、教育者、女性などの交流、あるいは富士美術館などでの貴国の文化財の展観、また民主音楽協会の主催による中国演劇、歌舞団の公演などを行ってまいりました。すでに日本と中国の人々の心には平和と友好の橋が幾重にも架けられています。二十一世紀を前に、今度は両国の新しい世代の間に、太い信頼の絆を結んでいくことが大切であると私は思っております。
10  文化交流の推進
 池田 敦煌美術を媒介とした日中間の友好の進展を考えますと、日本で初めて敦煌芸術展覧会が開催されたとき、東京と京都で延べ十万人の入場者があったという事実は、大きな歴史であったように思います。
 このときの反響について先生は振り返られてどのようなご感想をおもちでしょうか。
  敦煌芸術が初めて日本で展示されたのは、一九五八年(昭和三十三年)のことでした。
 当時、中日両国の国交はまだ回復していませんでした。私たちは日本の元首相の片山哲先生、日中文化交流協会の中島健蔵会長、毎日新聞社、高島屋の招聘で日本に行きました。敦煌の芸術は、東京の高島屋デパートと京都の博物館で展示することになりました。
 敦煌展の代表団員は、私のほかに日本語版「人民中国」編集長の康大川氏、敦煌文物研究所の李承仙と、対外文化委員会の崔泰山氏、計四人の構成でした。私たちは十二月二十一日に東京に着きました。到着後に展示品の運搬船が来日途中に台風に遭い、日本に着くのは十二月三十一日正午ごろになるという知らせを受けました。
 そのために、日本側はたいへんあせっておりました。というのは、デパート側はすでに八階の会場をそのためにあけていました。広告にしてもすでに、クリスマスに開催、と発表しておりました。もし、間に合わなければ、デパート側は大きな損害をこうむることになります。しかし、どうしても間に合わない場合は、高島屋八階の展示会場は他に貸すことになります。
 敦煌展の会場としては、十二月三十一日午後六時からあけてくれることになりました。それから元旦のオープニングまでに仕上げなければなりません。つまり、展示品は十二月三十一日正午ごろ日本に着き、すぐ開封して展示を準備することになったのです。開始から完了までわずか半日。三十一日の午後六時から深夜零時までの六時間内で全部完了しなければなりませんでした。これはたいへんに困難な任務でした。
 しかし、たいへん緊張した雰囲気のなかではありましたが、愉快に行うことができました。この敦煌芸術展覧会の配置作業のことは、今でも目の前で行われているようにはっきりと覚えています。
 われわれ中日双方の百人の作業員は、李承仙の総指揮の下で作業を行いました。私と李承仙は、日本語がわかりませんでした。李承仙は、この種の一つ一つの作業が、緊密に連動している配置作業は、いちいち通訳していたのでは間に合わないことを予測していました。それで色によって各時代を色分けすると同時に、二十分の一の縮図を用いて配置位置を明らかにしました。
 箱を開けて展示品を点検し渡すときには、すぐに具体的に壁画を掛ける位置を確定して、ラベルを貼ることができたのです。だれ一人として手のあいている人間はおらず、また、少しの作業ミスもありませんでした。それぞれの組み合わせ配置作業は、黙々と進められ、五時間四十分で配置作業の全工程を完了することができました。すなわち、われわれは、予定より二十分前に全展示品の配置作業を終わらせることができたのです。
 私たちと日本の友人たちは、高島屋から外に出ました。静寂な大通りを、われわれ十人(私たち四人と日本人六人)は肩を並べて歩きました。小さな店に入って大晦日の年越しソバを食べると、ちょうど大晦日の除夜の鐘の音が聞こえてきました。
 このとき、初めて日本の友人はこう言いました。彼らは李承仙という三十過ぎの一女性が、どうして六時間という短い時間内で、計画を立て指揮を執り、このように複雑な展示品の配置作業を完了させることができるのだろうかとたいへん心配していたとのことです。
 そして彼らは口々にこう言いました。「中国の女性はすばらしいね」と。
 もう一つ忘れられないことがあります。それは、この敦煌芸術展覧会は参観者がたいへんに多かったため、会場に入るには長蛇の列で、あるときは、二時間も並んでやっと入場できるというありさまでした。日本のある友人が私たちに話してくれたのですが、敦煌芸術展覧会と同じ会場で、以前にアメリカの写真展を行ったときは、口笛を吹いたりたいへんに騒がしかったが、敦煌芸術展覧会では会場内を移動するときの「ツァ、ツァ」という足音が聞こえるだけでした。
 また、あるとき、年配の大学教授が長い列の後ろのほうに並んでいました。一番前の位置に並んでいた一人の若い学生が、みずから進んで老教授に自分の位置を譲り、老教授に先に入場してもらい、自分はあらためて入場まで二時間もかかる列に並び直したとのことでした。日本の年配の友人は、こう語っていました。「敦煌芸術展覧会は、私たちに文明(礼節)をもたらしてくれた」と。
 池田 いいお話ですね。その年は、私どもにとっては、恩師戸田先生が逝去された年でした。早いもので、今年で三十三回忌を迎えました。
 それはそれとして、文化財、美術品の展示による各国の文化の紹介は大きな意義があります。良質な文化の交流は相互理解と信頼感をもたらします。
 今もよく覚えていますが、一九七五年(昭和五十年)に静岡県の富士美術館で「魯迅と中国版画展」が行われました。これには魯迅が指導した版画運動によって生まれた木版画と魯迅関係資料など合計四百点が展示されました。
 この年にソ連のトレチャコフ美術館、プーシキン美術館所蔵の名画展も開催されました。一九八三年(昭和五十八年)には「近代中国の書と画展」が行われ、秋には東京・八王子に東京富士美術館がオープンしました。
 開館記念展としてルーブルなどフランスの八美術館が所蔵する作品による「近世フランス絵画展」が開催されました。クールベの「プルードンの肖像」、グロの「アルコル橋のボナパルト」、ドラクロワ、ワトー、フラゴナールなどの名品が多くの人々を魅了しました。これには常先生が、青年時代、フランスでご覧になった懐かしい作品も含まれていたであろうと思います。
 八五年(昭和六十年)には「中国敦煌展」が開催され、八七年には「中国歴代女性像展」が、日中国交正常化ならびに富士美術館創立十五周年を記念して行われました。これには、貴国の中国歴史博物館、故宮博物院のご協力で、国宝級の文物などを展示していただきました。
 このほか今日までに「栄光の十八世紀フランス名画展」、フランス革命二百年記念行事の最初の公式行事として認定された「フランス革命とロマン主義展」、また「黄金の十七世紀フランドル絵画展」、タイ王国のプーミポン国王陛下御撮影の「特別写真展」、「英国王室のローブ展」、イタリアの「ボローニャ大学特別重宝展」「西洋絵画の名作展」「コロンビア大黄金展」などが行われてきました。これらはいわば第一歩ともいうべきものですが、世界に確かなる道さえ開いておけば、平和を願う青年たちが、その道をさらに広げ、延ばしていけると私は思っております。
  幅広い文化交流、人民と人民の間に心を通わすことを通じて、相互理解に達していくことができます。中日両国の人民たちが戦争の苦杯を味わってから、たがいに寛容な心で許し合い、理解し合い、少数の過激な反対勢力の妨害を乗り越えてきたように、これからも恒久平和をめざして、まっしぐらに前進することが必要です。
 私はすでに高齢であり、あまり大きく貢献することはできませんが、しかし、子々孫々の絶えまない努力によって、きっとこの地球上に大同世界(平和で栄える世界)という理想を実現できると固く信じています。
11  周恩来総理の思い出
  池田先生は、周恩来総理と会見された最後の外国人の一人とうかがっています。周恩来総理の印象について語っていただきたいと思います。
 池田 周恩来総理にお会いしたのは、一九七四年(昭和四十九年)十二月五日の夜のことでした。私の二回目の訪中の折で、場所は北京市内の病院でした。時間は十時近くだったと記憶しております。
 周総理は病身にもかかわらず、わざわざ玄関まで出迎えてくださいました。にこやかに手を差し伸べられ、握手いたしましたが、精悍で、相手の心を射るような、それでいて柔和さをたたえた眼が印象的でした。
 じつはその十年ぐらい前から、周総理より伝言をいただいたりしておりました。中日友好協会の孫平化会長に対して、周総理は一九六〇年代の初めごろに、創価学会を重要視し、交流するように指示されたとうかがっております。一九六四年ごろ、ある人をとおして、総理からの最初の伝言をいただきました。さらに日中間の関係改善に尽力されていた政治家の松村謙三氏、高碕達之助氏、作家の有吉佐和子氏からも総理よりの連絡をうかがったことがありました。
 実際にお会いして、歴史の行方を見すえる巨視眼と、人間の微妙な心理を洞察する顕微鏡のような眼をもつ傑出した指導者だと直感いたしました。
 公平でバランスのとれた感覚、大きな実行力と細心の配慮をあわせもっていて、さわやかさと深い信頼感が心に残る方でした。
  会見では、どのようなことが話し合われましたか。
 池田 一つは「中日平和友好条約」に対して、周総理は、速やかに締結できるよう希望すると話されました。この条約については、周総理にお会いする前に、私も締結を主張しておりました。
 当時は、日中戦争の終結後、四半世紀も経ながら、いまだ日中間に国交はなく、たいへんに不幸な状態がつづいておりました。私はこうした不自然な関係は、あの戦争と直接関係をもたない若い青年たちのためにも、両国の民衆のためにも、変えなければならないと思っておりました。そのためにも日本は万難を排して、中国と「平和友好条約」を結ぶべきであると主張いたしました。
 その条約の名称は、一つには、戦争が二度とあってはならないという平和への思いと、両国は万代までも友好関係をつづけていかなければならない、それがひいてはアジア、そして世界の安定につながるとの気持ちから「平和友好条約」が、ふさわしいと私は考えました。そして一九六九年(昭和四十四年)六月に、「聖教新聞」(小説『人間革命』六月二十日付)で「平和友好条約」の締結を訴えました。それから五年経って、周総理から、「平和友好条約」の締結への希望を直接、耳にして、時代は大きく変わっていくだろうと実感できました。
 会談の折、周総理が、若き日に日本に留学されたことを振り返られ、「私は五十年前、桜の咲くころに日本から帰国しました」と語られたことも忘れられません。私は「桜の花の咲くころ、ふたたび日本を訪問してください」と申し上げました。
 周総理は、もう、ご自身のことを自覚されていたのでしょう、「その願望はありますが、実現は無理でしょう」と語られました。その一年あまり後には、残念なことにご逝去の報を聞かねばなりませんでした。
 私は周総理を記念して桜の木を創価大学の中に、中国からの留学生の方々とともに植樹させていただきました。日本に留学した大先輩でもあり、戦後は日中の国交正常化に最大に尽力され、ご苦労されてきた周総理の思いを、日本の学生たちにも伝え、万代に残したいとの心情からでした。この桜は「周桜」という名で、年ごとに大きく育ち、美しい花を咲かせています。
 周総理は「二十世紀の最後の二十五年間は世界にとって大事な時である」と言われ、おたがいに平等な立場で助け合い努力していきましょう、と私に語っておられました。
 このときから、早くも十六年、二十一世紀へあと十年。新しい世紀に生きる人々はより平和で繁栄を享受していけるように、平等互恵、平和友好がより発展していけるように、私は私なりに、生涯、尽力していく決心でおります。
  私自身の周総理の思い出については、これまでも何度か触れてきましたが、一九五一年(昭和二十六年)に「敦煌文物展覧会」を北京で開いたときに周総理が参観されました。この折の周総理のお話を忘れることができません。
 周総理は私たちに、どんなに困難があろうと決して挫けず、最大の努力で敦煌の保護を訴えていくのだと語られました。その激励は、私の信条になっています。
 池田 その折の周総理との対話については、私も常先生のご著書で拝見いたしました。周総理は芸術に深い理解をもたれ、敦煌の貴重な民族芸術の遺産を保護、研究することの大切さを強調されていましたね。
 また「古きを今に役立て、陳きから新しきをつくり出す」(常書鴻『敦煌の風鐸』秋岡家栄訳、学習研究社)ことの重要性に触れ、「私たちはこれら古代の文化を、生命を大切にするのと同様に大事に保存していかなくてはなりません」(同前)と語っておられました。
 周総理の古代文化への理解、展示品に寄せてのお話にうかがえる教養の深さ、見識もさすがだと思いましたが、辺境の地で営々と努力されてきた先生たちのお仕事も、最大に激励されている様子に感銘をおぼえました。こうした激励に常先生は「私に残された道はただ、総理の与えられた教訓と期待をいつまでも心に銘じ、それを実現するため『生涯を敦煌文物の研究、保護の仕事のために尽くす』だけである」(同前)と書かれておりましたね。
  一九六二年(昭和三十七年)の第三回全国人民代表大会の折には、次のようなことが印象深く残っております。会議の途中に十分間の休憩があり、私たち三人が周総理に呼ばれました。
 周総理は、私に尋ねられました。「敦煌では、鉄鋼を精錬するときに、樹木がたくさん切られましたか。鐘は壊されましたか」。私は「樹木は、それほどたくさんは切られていません。鐘のことでは県の政策が良くて、価値のある古いもの、また年号の刻まれているものは全部保存してあります」と答えました。
 総理はまた、「あなたのお孫さんたちも、しっかり頑張っていますか」と聞かれました。私の娘の常沙娜が、かつて人民大会堂・宴会ホールの天井の図案を担当したことがありました。人民大会堂が一九五九年に落成したさい、周総理が、その図案の美しさに乾杯を提案されたことがありました。
 そのため私は周総理が聞かれたのは、沙娜のことかと思いました。それで「沙娜は北京にいます」と答えました。すると総理は「私が言っている意味は、敦煌――この宝庫の事業は、私たち一代だけでやる事業ではなく、子々孫々、世々代々まで、その研究と保護を継承していくべきものだということです」と説明されました。
 つまり、周総理は、敦煌で仕事をしている私の同僚、後輩のことを聞かれていたのです。私は生涯、周総理のこの心温まる指導を、決して忘れまいと決意しました。私の一生、子々孫々まで敦煌のためにという思いで、頑張ってきました。
 池田 すばらしいエピソードです。周総理のような指導者がいらしたことは、中国の関係者にとどまらず、外国の研究者、専門家、そして敦煌に関心をもつ世界の多くの人々にとっても幸せなことでした。
 また私がお会いしてから五年後、「人民日報」に掲載された王冶秋氏(国家文物事業管理局長)の文章で、一つのことを知りました。
 王冶秋氏は、周総理に富士山とその清流が描かれた一枚の版画を届けました。「そのころは、ちょうど『四人組』がきわめて陰険に、あくどく周総理を攻撃しているときであった」(「日中文化交流」一九七九年十一月一日付)と王氏は書かれていました。しばらくたってから、周総理は一通の手紙をつけて、その版画を王氏に返されました。
 その手紙は総理ご自身が鉛筆でしたためられたものでした。日付は、私がお会いした日になっていました。「版画はもう何回も鑑賞させてもらいました」(同前)との感謝の言葉につづいて、私から絵が贈られたので、いままで掛けていた版画は返すということと、病気治療中ですが、状況は良くなっているので安心してください、ということが書いてありました。このことをとおして、私がお会いしたすぐあと、王氏に手紙を書かれたことを知りました。周総理の誠実な人柄、温かい人間性を、さらに強く感じ、感慨深いものがありました。
 周総理が逝去されたとき、私は京都におりました。京都は周総理が日本留学時代に立ち寄られたゆかりの地で、嵐山には総理の詩碑があります。
 私はご逝去の悲報を聞き、深い感慨とともに、ご冥福を祈りました。病気がガンであったことも知りました。「今回は病気も快方に向かっておりますので、どうしてもお会いしたいと思いました」と語られたことが思い出され、胸に迫ってまいりました。あのときは強靭な精神力で、内外の難問題に対処されていることが、ひしひしと感じられました。
 常先生は周総理に対して「その生涯を通じて公明正大であった。国のために力の限りを尽くされた、誰よりも心が澄んだ方だった」(前掲『敦煌の風鐸』)と述べられていましたが、お国の多くの方々から、総理のそうした人柄、生き方をうかがっております。
 周総理が逝去されてから二年後に、夫人の鄧穎超先生に北京でお会いしました。この折、翌年春、桜の季節に女史が訪日される意向であることもうかがいました。来日された折には迎賓館でお会いし、今回の訪中の折にも、私ども夫婦を再度ご自宅に招いてくださいました。
 鄧穎超先生からは、青春時代の思い出、また、お二人が出会われたときのこと、周総理が亡くなられる前後のことなど感慨深いお話をうかがったことがあります。とくに総理の遺骨を祖国の大地に撒いたことについて、女史はこう語っておられました。「若い日、恩来同志と二人で約束したことがあります。それは、人民のために奉仕するということです。死んでもこのことは同じです。したがって、遺骨は保存しない、と二人で約束しあったのです。恩来同志は重病になって両脇を看護の人に支えられるようになったとき『私たち二人の約束を必ず実行してくれるんだよ』と念を押しました」と。
 世界には、いわゆる“偉い人”と言われる人は多い。しかし、私生活を含めた一人の人間として、偉大な人格の人は少ない。そのなかで、周総理は卓抜した政治家であっただけでなく、洗練された教養と礼節の人であり、清廉にして高潔な人格の人でした。夫人とともに、人民のために全生命を捧げて生きぬいてこられた。私は、お二人のことを詩に託しました。
  「時は去り時は巡り
   現し世に移ろいあれど
   縁の桜は輝き増して
   友好の万代なるを語り継げり
   年年歳歳花開くとき
   人々は称えん
   人民の総理と
   人民の母の誉れの生を
   我も称えん
   心の庭に友誼の桜は永遠なりと」
  (中国婦人の先駆者 鄧穎超女史に贈る「縁の桜」一九八七年四月五日=本全集第40巻収録)
12  井上靖氏との友誼
 池田 ところで、先ほど常先生が井上靖氏の名作『敦煌』の映画のお話をされていましたが、文化大革命後に、井上氏が初めて敦煌に行かれたときも、常先生はご一緒だったとうかがいました。
  一九七八年(昭和五十三年)五月、井上靖先生、夫人の芙美さんと、清水正夫氏(松山バレエ団団長、日本中国友好協会理事長)と夫人の松山樹子さん(同団副団長)が孫平化同志(中日友好協会会長)の案内で初めてみえました。これは文革(文化大革命)後、敦煌が初めて開放されたケースでした。井上夫妻と清水夫妻は、敦煌を真剣に参観しました。敦煌の石窟をはじめとして、砂漠上の一草一木までとても興味をもたれていました。
 私もお供して、玉門関まで参観に行きました。玉門関は敦煌から八十キロ余り離れているところにあります。当時、車の道がなく、車はずっとゴビ灘の上を走っておりました。とても揺れて、後で、芙美夫人が冗談でこう言いました。「今度来るときには、頭の上にもっと何枚かの帽子をかぶせなくては」と。これには皆が大笑いしました。私たちは漢の長城のもとにピクニックをしました。井上夫妻はいつも上機嫌で、和やかに談笑します。芙美夫人はとくに砂漠にある植物にたいへん興味をもっています。
 二回目は一九七九年(昭和五十四年)の十月四日。私たちは蘭州より出発。シルクロードに沿って敦煌へ向かいました。車で河西回廊に沿ってテレビ・シリーズ「シルクロード」の撮影に行ったときのことです。この折の井上靖先生が私にいちばん深い印象をあたえました。
 車がゴビ灘を走っているとき、井上先生はつねに周りの大自然の景色を、つぶさに観察しています。ときには車を止めて撮影を行います。そのとき、彼はいつも携帯しているティッシュペーパーで顔や髪の毛などをふき、そして小さな櫛できちんと髪の毛を梳かします。
 また井上先生は、つねに小さなノートに、詩や文章などを書かれていました。あるとき、私たちは「布隆吉」という風の名所で、ゴビ特有の龍巻「沙龍」の撮影を準備していました。私たちと、NHKの取材班、中国中央テレビ局の皆が、おなかをすかして、ひたすら風の吹くのを待っていました。午前から午後までずっと待っていても、いっこうに風が吹いてくれませんでした。もっていた食べ物は少しの果物とジュースでした。皆のおなかが鳴っているときに、井上先生だけが何ともないように、落ち着いて詩を書きつづけていました。
 やっと大風が吹き始めました。井上先生と私たちは一緒に廃墟の土台に登り、古代の人々と同じように「沙龍」を見ました。広大なゴビ灘の上を、大きな龍が舞い踊っているように、龍巻が砂を吸い込んで空へ運んでいきました。
 皆が大喜びでした。カメラマンはすぐテレビカメラで記録し、井上先生はすぐその印象を詩文で自分のノートに記されました。このような思い出が蘇ると、昨日の出来事のような気がします。
 池田 井上氏とは、日本の伝統の美、日中の真実の友好の在り方、氏の作品『蒼き狼』などについて、たいへんに楽しく語り合いました。その誠実な人柄も印象深いものでした。(「聖教新聞」一九七五年三月五日付参照)
 また、一年間、書簡を交わしたこともありました。それは、ちょうど私が第三次の貴国訪問を終えて、帰国したとき(一九七五年)から、翌年春までのあいだのことでした。この間には周恩来総理の逝去もありました。私も所懐をつづりましたが、氏の周総理の人柄をしのんだ文章は感銘深いものでした。「礼儀正しく、心優しい世界の大きな星が落ちた感じ」(往復書簡『四季の雁書』潮出版社=本巻一七一㌻参照)という言葉は、私の実感でもありました。
 この往復書簡をとおして、私は氏から多くのことを学ぶことができました。その一つは、長江を見たときのご自身の感慨のなかにある、氏の文学に対する姿勢です。滔々と流れている悠久の大河。その壮んな大きい流れの岸で、何人かの女の人たちが甕を洗っている。その姿を目にして「一人の文学の徒として、いつでも永遠に触れたところで仕事をしていたい」「永遠を信じ、人間を信じ、人間が造る社会を信じ、中国の女の人たちが手を赤くして甕を洗っていたように、私もまた手を赤くして自分の文章を綴りたい」(同前=本巻二七㌻参照)との心情を吐露されていました。
 そうした思いは小説『敦煌』などの作品にも流れていますし、敦煌やシルクロードの紀行文からも感じます。これらの文章をとおして、井上氏の文学の根っこにあるものがより深く理解できたように思います。
13  恒久平和を願って
 池田 常先生は何回か日本を訪問されていますね。今まで訪問されたところで、どこが最も印象的でしたか。
  私は七回、訪問しました。一回目は一九五七年(昭和三十二年)十二月二十一日から翌年の二月五日まででした。その折は、東京、京都、奈良、大阪、名古屋にまいりました。二回目は一九七九年十月二十六日から十一月十二日まで。東京、京都、奈良、大阪、福岡へ行きました。
 次は一九八三年四月十日から十月末まで。途中、全国政治協商会議に出席するため一時帰国しましたので、厳密にいうと二回訪日したことになりました。そのときは東京、京都、奈良のほか、北海道の札幌、根室から納沙布岬、そして東北の青森、仙台、岡山まで回りました。五回目は一九八五年七月から十月、東京、奈良へ。六回目は一九八六年八月。やはり東京、奈良。七回目も同じく東京、奈良コースで、一九八八年四月九日から十七日まででした。
 印象の最も深い都市は京都と奈良です。ともに古代文化を所有している都市です。市内には多くの文化遺跡が保存されており、一つ一つが中国文化と密接な関係をもっていました。たとえば奈良時代の法隆寺の壁画です。一九五七年、私が日本を訪問したとき、一九四七年に模写された法隆寺金堂壁画を見ることができました。これらの壁画は、中国敦煌の壁画によく似ているということも聞きました。京都と奈良を訪問している間、これらの地の仏教美術遺産と中国芸術との密接な歴史的関係を知ると、印象が一層深くなりました。敦煌の仕事を四、五十年間やってきましたので、敦煌に近い文化芸術を拝見すると、なんともいえない特別な親近感がわいてくるのです。
 池田 常先生は日本の各都市で、幅広く各界各層の人と交流されてまいりましたが、日本と中国との友好往来について、どのような感想、展望をおもちですか。
  戦争が好きな人はいません。だれでも戦争が嫌いです。とくに中日両国世々代々の友好を望んでいます。私たちは、池田先生の平和友好の構想に共感します。また平和・友好往来を増進するためには、口先だけにとどまってはいけない。そのために、実際に何かをやらなければいけないと思います。
 池田先生は、中国を何回も(一九九〇年〈平成二年〉五月に第七次の訪中)、訪問されたとうかがっていますが、どのような印象をもたれたでしょうか。また先生が中国で会われた人で最も印象深い人はだれでしたか。
 池田 そうですね。たくさんの印象深い方がおられますが、やはり中日友好協会の廖承志会長は忘れられない方です。一九七四年(昭和四十九年)に初めて貴国を訪問したとき、夜の十時近くでしたが、北京空港に出迎えてくださった光景を今でも覚えております。廖承志先生は流暢な日本語で私たちを歓迎してくれました。また現在の孫平化会長には貴国を訪問するたびにお世話になりました。これまでに私は、北京、上海、西安、広州、武漢、南京、鄭州、杭州、蘇州、無錫、桂林などを訪れました。
 その折々の印象については、さまざまな機会に書きつづり、話してきましたが、要約して言えば、中国は限りない未来性をもつ国である。そして社会制度、民族性、風俗習慣などの違いはあっても、人間の奥には共通の光があるということでした。
 中国と日本は、それぞれ異なる条件のもとに、固有の社会を築いてきましたが、表面に現れているのは、その一部であって、民衆のなかへ、人間のなかへ入っていくと、共感と信頼感が生まれ、心の絆が結ばれていくことを実感しました。
 お会いした方々は、周総理、鄧小平副総理、李先念副総理、胡耀邦総書記、華国鋒主席、王震国家副主席、鄧穎超先生ら国家の指導者として活躍されてきた人々もおります。江沢民総書記、李鵬首相とも会見しました。
 廖承志・前会長、孫平化・現会長をはじめ中日友好協会のお一人お一人には、さまざまな思い出があります。北京大学、復旦大学、武漢大学などの先生方とも長く交流してまいりました。文学、芸術界にも親しい友人、尊敬する方々が多くいます。
 中国では、農村、工場、学校、少年宮など人々の生活の場を広く参観させていただきましたが、そうしたところでお会いした方、また、名前も知らない通りすがりの人で、忘れがたい印象を残している人もいます。
 こうした多くの人々のなかで、最も印象深い人は、とのご質問ですが、お会いしたお一人お一人が、私にとっては大切な友人であり、ちょっと難問です。(笑い)
 ただ、私はこうした出会いのなかで、共鳴したこと、学んだこと、日本人が知らなければならないことなどを、多くの機会に書いたり、話してまいりました。そのことをとおして、中国への理解が深まり、友好が強まっていくことに少しでも寄与できればと願ってまいりました。
  池田先生は最も早く日中の国交回復を提唱されたとうかがっています。なぜ中国に対して、このように深い感情をいだかれるようになったのでしょうか。
 池田 直接の動機となった少年時代の出来事、また恩師の私への言葉は、すでにお話ししたとおりです。アジアの地は、戦火と悲惨の歴史が繰り返されてきたといっても過言ではありません。永遠にわたる世界の平和を展望するうえで、世界人口の半数を占めるアジア諸国の安定と繁栄がきわめて重要であることは論をまたないところです。
 中国と日本とは、文化的にもどこの国よりも深い関係をもつ兄と弟の間柄です。このような歴史的な関係、民族性や文化の相似性からいっても、私は日中の友好は自然な流れである。短絡的な見方であってはならない。もっと長期的な未来を展望した見方から発想しなくてはならない、とかねがね考えつづけてきました。
 そこで一九六八年(昭和四十三年)の九月八日、第十一回創価学会学生部総会の席上、約二万人の学生たちに、日中の国交正常化と平和友好を訴えた次第です。私としては二十年、三十年先の世界に思いをめぐらしつつ、発言をしたつもりです。今では、そのころの学生たちも、壮年になりました(笑い)。そのなかにも日中友好の土台として、活躍している多くの人々がいることを、私はたいへんにうれしく思っております。
 日本の長い戦争が終わったとき、私は十七歳でした。東京の大空襲も体験し、長兄も戦争で失いました。私たちの世代は軍国主義教育を受けてきましたが、日本軍の侵略によって中国の民衆が、また朝鮮半島(韓半島)の民衆が、どれほどの苦しみを受けてきたのか、ということを絶対に忘れてはなりません。
 私は一九六五年(昭和四十年)の元旦から、新聞に小説『人間革命』の連載を始めました。その冒頭の一節は、前年の十二月、沖縄で書きました。沖縄はあの戦争の折、“鉄の暴風”と形容されるほどの、すさまじい砲弾を受けて、多くの犠牲者を出したところです。
 冒頭に私は、こう書きました。
 「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争はまだ、つづいていた。愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである」――このことは、あの戦争を体験した私の痛切な実感でした。
 私どもの経験した悲劇を、若い世代には、絶対に二度と体験させてはなりません。一九六八年の提言は、ベトナム戦争が泥沼の状況下にあったときに行ったものです。私は中国との国交正常化はアジアの平和にとって最優先すべきものであり、戦争に直接、関係をもたない若い世代にまで、戦争の傷を残したままであってはならない。青年たちのために、二十一世紀のために、なんとか友好の道だけは残しておかねばならないという思いがありました。
 私は青年たちに「やがて諸君たちが社会の中核となったときには、日本の青年も、中国の青年もともに手を取り合い、明るい社会の建設に笑みを交わしながら働いていけるようでなくてはならない。この日本と中国の友好を軸に、アジアのあらゆる民衆が互いに助け合い、守り合っていくようになったときこそ、今日アジアをおおう戦争の残虐と貧困の暗雲が吹き払われ、希望と幸せの陽光が、燦々と降り注ぐ時代である」と訴えました。
 その翌年には小説『人間革命』(「聖教新聞」一九六九年六月二十日付)の中で、日本は中国と「日中平和友好条約」の締結を万難を排して進めるべきであると提言いたしました。
 多くの日中友好を願う両国の方々の尽力により、この条約は一九七八年(昭和五十三年)に北京で調印され、十月には貴国から鄧小平副総理をはじめとする代表団が来日されました。今は亡き廖承志先生もご一緒に来ておられました。そして十月二十三日に同条約は発効いたしました。その日から十数年の歳月が過ぎ去りました。
 発効十周年という歴史の節目にあたって、私たちは、日中の平和友好に最大に貢献してこられた中日友好協会の孫平化会長はじめ協会の代表の方をご招待させていただきました。歓迎の席で、私は交流が拡大していくなかで、さまざまな歪みが生じたり、新しい問題が起きてくることは、一面では避けられないことかもしれない。しかし、いよいよ世界的な平和の曙光が見られる時代に入った。ともかく平和な交流の拡大は人々の希望であり、願望であると申し上げました。
 私はこの条約の締結を提言した一人として、平和を願う中国の皆さまとともに、信義と友誼の交流を、さらに広げてまいりたい。そして日中友好が深い深い絆で結ばれ、平和への流れが永遠なる大河となるために、私は私の立場で尽力していく所存です。
14  エピローグ
 (一九九〇年〈平成二年〉六月一日、池田名誉会長の第七次訪中の最終日、北京の宿舎・釣魚台国賓館での対話)
 池田 常先生と初めてお会いした春(一九八〇年〈昭和五十五年〉四月、第五次訪中の折)から、ちょうど十年がたちました。
  池田先生との間には、言葉に尽くせぬ深い深い不思議な縁を感じます。十年間で、こんなにも友好は深くなりました。このうれしさを私は表現するすべを知りません。これからもさらに池田先生との友情を深めたいのです。
 池田 私たちの対談が月刊誌の「大白蓮華」(一九九〇年一月号から七月号まで)に掲載されてきましたが、たいへんに反響が大きく、編集部からも要望があり、連載が当初の予定より延長されました。秋には日本で発刊される予定であり、将来は各国語にも翻訳されることになると思います。(一九九〇年十月『敦煌の光彩』として徳間書店より発刊。一九九一年十二月、中国語版発刊)
  池田先生のおかげで、私たちのこれまでの努力が日本、世界の人に紹介され、歴史に残っていくことは本当にありがたいことです。
 池田 私は、芸術に捧げきった“文化の帝王”の崇高な魂を、ぜひとも後世に伝えたいのです。秋には、またご子息の作品とともに「常書鴻・嘉煌父子絵画展」(静岡・富士美術館、十一月二日―二十五日)が開催されます。その折のご訪日を心待ちにしております。(アルバムをみせながら)創価大学の常書鴻夫婦桜(夫妻を記念して創価大学のキャンパスに植樹された)もこんなに大きくなりました。
  ありがとうございました。秋の絵画展の出品目録をお渡しいたします。
 池田 お国の“宝”ともいうべき貴重な作品を本当にありがとうございます。常先生は“シルクロードの宝石”敦煌の守り人です。本来なら、悠々と送れたはずの安楽の人生コースを投げ捨てて、砂漠に埋もれた永遠の美の宝石を発掘し、研究・保護されました。先生なくしては敦煌の光彩が、世界に放たれることはありませんでした。
 いかなる権力者、富豪よりも、人類に対する偉大な貢献をなされました。「陰徳あれば陽報あり」と、お国の言葉にあります。今、これまでのご苦労が、燦然たる陽報に変わり始めました。私には先生に贈る“天の喝采”が聞こえるようです。
  感謝にたえません。私の雅号は「大漠痴人」といいます。“敦煌気ちがい”という意味です。あらゆる艱難辛苦がありました。歯を食いしばって、ここまで生きてきました。最初は水もない、食料もない、そんなところに何をしに行くのだ、死んでしまうと皆に反対されました。去った人もいました。けれども、ここにいる妻は一緒に生きてくれました。苦しいことばかりがありました。私は決して自分のために行ったのではありません。祖国と人類の文化のためです。どうしても、あのすばらしい芸術を守りたかった……。
 池田 先生の(一九四三年〈昭和十八年〉以来の)半世紀にわたる“敦煌ひとすじ”のご献身は、いかなるドラマよりも感動的です。いずこの世界にあっても“――気ちがい”とさえいわれるほど「徹した人」が一人いれば栄える。勝利するものです。
  私が申し上げたいのは、名誉会長にお会いするたびに、魂が揺さぶられるような感無量の思いがこみあげてくるということです。それは先生が、世界の平和のため、文化と芸術のため、中日の友好のために、あらゆる批判も障害も越えて戦われる姿に、私の一生が二重写しのように振り返られるからです。
 先生が言われたとおり、近年になって光が差し始めました。耐えに耐えて進めてきた仕事も、多くの人の協力で軌道に乗ってきました。子どもたちも大きくなりました。これまでの言い尽くせぬ苦しみも、今となれば、すべて報われたという気持ちです。
 人の一生は短く、理想や目標を、そのまま実現できる人は少ない。しかし幸運にも私は、ある程度、実現することができました。悔いはありません。
 先生も同様のお気持ちではないかと私は思っているのです。理想の実現に向かって進むには、人には見えない困難があります。だれも知らないところで辛苦を重ねねばならない。私の経験からみても、池田先生の大きなお仕事にどれほどのご苦労があったことか。それを思うと万感胸に迫ってくるのです。
 池田 常先生の今のお言葉は、私の胸の奥の部屋から一生涯、離れることはないでしょう。
  先生、敦煌にぜひ来てください。
 池田 願望はあるのですが――。
 先生との対談の連載を読んで、私の妻が言うのです。「常先生のお話のところでは、情景が絵のように浮かんでくる」(笑い)と。やはり実際に行ってみないと、知識だけでは、だめのようです。
 ところで先生が敦煌の莫高窟の内部に初めて足を踏み入れられたのは、たしか……。
  三十八歳のときです。ここにいる息子より少し若いころでした。
 池田 最初の瞬間、何を感じられましたか。
  そのとき、私は、別世界を見ました。それまで(フランス等で)絵を学んできましたが、見たこともないすばらしい芸術の世界が、そこにありました。次の瞬間、私は決意していました。これら“美の女神”を、ゴビのなかに埋もれたままにしておくことはできない。私が守っていこうと。
 池田 貴重な歴史の証言です。
  私どもが以前住んでいた古い家を甘粛省政府(中国西北部、敦煌のある省)で修復し、記念館にしてくれると言われています。そこに池田先生ご夫妻をご案内したいのです。
 池田 ありがとうございます。まさに“宝の家”です。
  その旧居は、寺院の後庭にある小さな家でした。行った当時は、机もベッドもなく、土を固めたレンガ状態のもので台を作り、その上にむしろを敷き、麦ワラを置き、布をかぶせて寝台にしました。机も土を固めて作り、上に石灰を塗りました。窓には紙が張ってあるだけでした。電気もなく、壁に穴をあけて本棚にしました。食事にもこと欠く日々でした。
 池田 ご苦労はこれまでにもうかがってきましたが、あらためて、文化の遺産を人類に残しゆくための深いご苦労を感じました。偉大な仕事をなさる人は、黙々と苦しみながら、それに耐えて、偉業の達成をするものです。利害や名聞のために動く人は決して偉大な仕事はできない。その人たちは陰の苦労をしないからです。
  私こそ、名誉会長が世界のために若き日より展開された、すばらしい社会活動、その思想・哲学、長い展望に敬服しています。“仏教精神”に満ちて行動されている名誉会長ならびに創価学会の皆さまに最大の敬意を表します。そして、私どもの次の世代が、ともに今日、同席していますように、中日友好への信念、私どもの友情を世々代々に伝えていきたいと思います。
 池田 同感です。先生の尊きご生涯と信念は、必ず後世に伝えられていくことでしょう。それでは次は日本でまたお会いしましょう。秋にお待ちしております。

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