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日蓮大聖人・池田大作

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第三章 人類の輝く遺産  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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2  莫高窟の壁画
 池田 莫高窟の壁画は、それぞれがすばらしい敦煌芸術の結晶であり、先生にとって思い出深い作品ばかりと思います。優劣をつけるのはむずかしいかもしれませんが、莫高窟の壁画のうち、どの絵が最も優れていると、お考えですか。
  私は北魏時代(三八六年―五三四年)の第二五四窟の「薩埵太子本生図」、または「捨身飼虎図」とも呼ぶ壁画が、最も優れていると思います。隋の時代(五八一年―六一八年)のものでは、第四二〇窟にある「法華経変」の壁画が最もすばらしい。唐の時代(六一八年―九〇七年)になると、第二二〇窟の南北両壁に描いてある「西方浄土変」と「薬師如来」の壁画がいちばん良いと思います。
 池田 北魏時代は、インド伝来の仏教が中国で次第に定着し、勢いをもち始めたころといえます。しかし、まだまだ中国固有の道教の勢力も強く、ときには道教が用いられて仏教が廃止されたりもしています。初めに挙げられた北魏時代の壁画は、そうした時代背景もあって、釈尊の前世における菩薩としての修行が題材に選ばれているような気がしますね。これに対して、隋、唐の時代は、それぞれ強力な統一国家が、“一つの世界”として出現したことともあいまって、外来宗教としてのインド仏教から脱皮して、中国の民族性に適合した仏教へと展開していく時代です。
 したがって、このころは、中国の人々のなかから、大乗仏教の壮大な世界や理念、なかんずく『法華経』の宇宙観や永遠性を求める機運が高まってきた時代でもあり、それがそのまま、当時の壁画に反映されているように思います。
 とくに唐の時代は、『法華経』を軸として、中国の仏教が隆盛の頂点に達したという点で、文字どおり、未曾有の時代であったといえるのではないでしょうか。だが、頂点に達した中国の仏教は、やがて衰微していく。その不安と恐れが、唐時代の後半から次第に人々の心を支配し始め、それが、西方の浄土を欣求する浄土教や、加持祈祷に身をゆだねる真言密教といった“異端的”な仏教の流行へとつながっていくわけです。
 今、先生が述べられたそれぞれの壁画は、中国の仏教史の変遷の一端からみても、じつによく時代を映しだしておりますね。
 ところで、最も大きい壁画は何窟の、どの壁画ですか。またそれは、どのくらいの日数をかけて仕上げたものと思われますか。
  最も大きい壁画は、第六一窟の宋代壁画「五台山図」です。高さは三・四二メートル、幅は十三・四五メートルあります。李承仙が、一九四七年(昭和二十二年)から一九四九年(昭和二十四年)まで「五台山図」を模写したことがあります。第六一窟には、八メートルの通路があるため、洞窟の中がとても暗いのです。午前中は、鏡をもって、太陽の反射で模写作業を行うのですが、午後になると、太陽の光が届かなくなり、油ランプを片手にもって、片手で描きます。この方法で二年間かかりました。
 図は地面より二メートルの高さがありますので、作業するには、棚か台を作らなければなりません。絵描きは、夏でも冬でもこの棚に上ったり、下りたりしながら作業をし、しかも、片手でランプをもたなければなりません。壁画の面積が大きいので、作業の難度も増えます。この「五台山図」が、宋代に描かれたときのことを考えると、もし一人の画工が描きつづけた場合は、およそ十年ぐらいの歳月がかかると思います。
 池田 後世に残る仕事というのは、そういうものでしょうね。
  池田先生が親しみを感じられた絵、お好きな絵は、どの絵でしょうか。
 池田 親しみ深いという点からいえば、やはり「法華経変」です。「中国敦煌展」でも、「譬喩品」「化城喩品」「観世音菩薩普門品」などの経文に基づいた模写絵が展示されていて興味深く拝見しました。
 「譬喩品」の三車火宅の譬喩、「化城喩品」の化城の譬喩などが絵で表現されているのを見ると、『法華経』が民衆のなかに生き、無名の画家たちのなかに脈打っていたことを実感します。
 私が知っている絵は、そんなに多くありませんが、「中国敦煌展」で見た絵に限って言えば、第二三窟(盛唐)の「雨中耕作図」でした。この絵は『法華経』の「薬草喩品」などの文によって描かれていますが、当時の庶民の生活をとらえ、じつに生き生きと表現しているように私は感じます。
 空に雲がたれこめ、雨が降ってきた。荷物を天秤棒でかついだ人が、あぜ道を急いでいる。田では農夫が牛を追い、地を耕しています。農民夫婦が子どもと食事をしている場面もあります。その下には一人の農婦が踊り、六人が笛やさまざまな楽器を演奏していますね。そのそばでは子どもたちが砂遊びをしています。
 上にはつらい耕作の場面が描かれ、下は多分、収穫を終えたあとの喜びでしょう。よく見ていくと、とても楽しいし、大地とともに生きぬいてきた庶民の強さ、生活の哀歓が感じられて、深い味わいがあります。表現技術、色彩感覚といった面ではむしろ素朴な作品と言うべきかもしれませんが、私は好きな絵です。
 仏法においては雨が、よく仏の慈悲を象徴するものとして表現されます。雨は天から地上のあらゆる存在に対して、平等に降り注ぎます。それは、いかなる衆生をも平等に救おうとして「法」(教え)を説かれる仏の慈悲心を表すのにふさわしいとされたのでしょう。
 とくに、仏の慈悲心を強調する大乗仏教、なかんずく、『法華経』においては雨に関する記述や譬喩が少なくありません。
 たとえば、『妙法蓮華経』の「序品」には「今仏世尊。欲説大法。雨大法雨。吹大法螺。撃大法鼓。演大法義(今仏世尊、大法を説き、大法の雨を雨し、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん)」(今、仏世尊は偉大な法を説き、偉大な法の雨を降らし、偉大な法の法螺貝を吹き、偉大な法の太鼓を打ち、偉大な法の意義を演説しようとされているのであろう)と説かれています。また「仏当雨法雨 充足求道者(仏当に法雨を雨して 道を求むる者に充足したもうべし)」(仏は必ずや法の雨を降らせて仏道を求める者を満足させられるでしょう)とあります。
 さらに、この「雨中耕作図」の題材となっている「薬草喩品」の「三草二木の譬喩」は、まさに雨そのものがテーマとなっているともいえますね。
 この譬喩は、薬草に大・中・小という三種の草、木に大・小という二種の木というように違いがあっても、天から降る雨に潤されると、すべてが育って開花し結実していく。これと同じように、人々に素質や能力の差があり、国や民族などの違いがあっても、仏の慈悲はどのような衆生にも等しく注がれる、という絶対平等の仏陀の慈悲を述べ、深い法理を示したものです。
  私が最も親しみ深く、好きな壁画は、莫高窟の第二五四窟(北魏)の「薩埵太子本生図」です。飢えた虎を哀れんで、薩埵太子がみずから身を刺し、血を流して、崖からわが身を虎に投ずる。虎が太子を食べる。二人の兄弟が、太子の残骸を見て大泣きする。国王、王妃が悲しんで泣く。太子のために塔を造り骨を埋める。そうした情景が、つまり全物語の場面が一つの四方形の画面のなかに表現されています。衣の模様や、線に力があって、なめらかです。色彩は暗い茶色が主調で、青、緑、灰色、白等で、荘厳で沈着な雰囲気を作り出しています。この画を見ると、画史のなかに記載されている大家・顧愷之先生の逸話を思い出します。
 顧愷之先生はある寺廟に十万元の供養をしたいと申し入れました。しかし、顧愷之先生は、とても貧乏であり、寺の住職はどこからそんな大金が出るのかと嘲笑しました。彼は戸を閉じて、一カ月の間に、そこの壁に維摩詰の絵を描きました。完成した日に、彼はその戸を開けた。それは見事な、目を奪うばかりの絵でした。人々はその絵に圧倒され、われもわれもと競って供養し、あっという間に十万元が集まったという。この逸話のような北朝絵画の技術のすばらしさを垣間見ることができると思います。
 池田 莫高窟の壁画には、こうした本生図や仏教説話の絵が多く描かれていますが、この「薩埵太子本生図」は構成が劇的で、荘重な雰囲気がたいへん印象深いものです。
 釈尊が過去の世において、さまざまな形で、自分の命を投げ出して、人々や動物などを救った、というような物語が「ジャータカ」(本生譚〈釈尊の前世の物語〉)として、今日数多く残されていますね。この薩埵太子の物語もその一つです。
 仏教説話や本生は、やさしい物語をとおして、仏教の重要な考え方や理念を教えようとしているものであり、なかでも、この薩埵太子の物語はじつになじみ深いものです。
 「ジャータカ」が作られていった要因としては、釈尊が偉大なる仏陀に成り得た原因を、遠く過去の無数の生涯における限りない菩薩行に求め、その報いとして、仏陀の悟りに到達した、という思想が背景にあるようです。
 したがって、ジャータカの意図の中心は、あくまで釈尊の偉大さを称える点にあり、実際に虎に自分の肉を与えたのかどうか、また、自分の生命を動物のために投げ出すことが是か非か、といった問題は二の次であったにちがいありません。
 この話から、仏教の慈悲というものが、人間愛にとどまらず、生きとし生けるもの悉くを含む、いわば“生命共同体”ともいうべき広大さと寛容性とを有していることを私たちは知ることができます。
  よくわかりました。その他の絵で先生の印象に残る絵はまだありますか。
 池田 北魏のものでは、第二六三窟の「供養菩薩」。この絵は、釈尊の鹿野苑での初説法の場面を描いたものの一部ですが、表現が伸びやかです。また「中国敦煌展」にも出品されていましたが、西魏時代(五三五年―五五六年)の第二八五窟の「伎楽飛天」と隋代の第四二七窟の「飛天」。『法華経』の「如来寿量品」に「諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華(諸天天鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し 曼陀羅華を雨らして)」(諸天は天の太鼓を打って いつもさまざま音楽を奏で 天上界の華である曼陀羅華を降らして)とありますが、さまざまな楽器を奏でながら飛翔する伎楽天、散華の飛天が描かれています。
 これはすばらしいですね。西魏の「伎楽飛天」は、さまざまな姿態の十二体が連続して描かれています。衣はなびいて、スピード感にあふれています。隋・第四二七窟の「飛天」も軽やかで躍動している。西洋画に描かれる天使は、体に大きな翼をつけていますが、ここでは天衣によって、自由自在に飛翔していますね。インドの仏教が中国に伝来して、神仙説話と融合していく過程、画家の想像力の卓抜さもうかがえて印象に残っています。
 初唐の第二二〇窟の「維摩経変相」は、表現力が豊かで緻密ですね。堂々とした帝王の風格、従う大臣たちの表情も、一人一人個性があり、絢爛たる雰囲気がよく出ていて、維摩詰の顔、文殊菩薩の表情は、維摩経の内容をよくとらえていると思います。
 「蔵経洞」(第一七窟)北壁の壁画は、数万点にものぼる敦煌文書が、どのようにしてこの洞窟に隠され、どのようにして持ち出されたかを見た歴史の証人といわれていますね。そうしたことでも、関心をそそられるものですが、それを別にしても、菩提樹、侍女、比丘尼が、確かな表現力で描き出されていて、敦煌壁画のなかで「白眉」という評価もうなずけます。
  この第一七窟(晩唐)の「侍女・比丘尼像」からは、当時の典型的な侍女と比丘尼の姿を見ることができます。描かれた絵の彼女たちには、十分に中国女性のしとやかさと柔順な性格が出ていると思います。そして彼女たちは、世の移り変わりを経験し尽くして、逆境を耐え忍び、じつに世間のことを冷淡といえるくらい静かに見ているような気が私にはいたします。
 池田 第一五六窟(晩唐)には、南壁の「張議潮出行図」と向かい合って、北壁に「宋国夫人出行図」が描かれています。そこには騎馬姿の女官や儀仗隊に先導され、白馬にまたがって静々と進む宋国夫人の姿が印象深いですね。
  敦煌壁画のなかには、女性の騎馬の姿が確かに見られます。小説などのなかにも女性が戦陣に臨み、たくましく戦って戦いに勝つという物語が中国には多く残されています。たとえば、穆桂英、花木蘭などの逸話は、その代表的なものです。中国では、彼女たちを「巾幗英雄」(巾幗は女性の頭に飾る頭巾、つまり女性のこと。女性の英雄という意味)と呼んでおります。
 池田 騎馬姿の女性といえば、『水滸伝』で活躍する女傑・一丈青の扈三娘の勇姿なども思い出されます。彼女は、梁山泊軍に敵対する祝家荘を応援する扈家荘の女性武者として登場します。
 両手に日月の剣を振るい、梁山泊の猛者たちを相手に奮闘する。しかし、さしもの彼女も、小張飛とあだ名される蛇矛の名人・林沖に敗れ、捕らえられる。のちに彼女も梁山泊軍に加わり、騎兵隊長になります。
 扈三娘自体は、架空の人物かもしれませんが、梁山泊百八将のなかに、彼女をはじめ数人も女性の大将が描かれていることからも、北宋末という他国からの圧迫を受けた混乱の時代に、女性も男性に伍して戦闘に加わっていたことが想像されます。
 常先生が紹介された花木蘭は『木蘭詩』で日本でも知られています。年老いた父母をかかえ、機を織って家計を支える親孝行な娘・木蘭――彼女の家に国境守備の徴兵令状が届く。彼女の家には若い男がいない。老父を苛酷な任地へ赴かせれば、死は明らかであった。
 そこで木蘭は決心し男装をしてみずから従軍します。十年の後、木蘭は大功労の身となって郷里へ帰る。一目散に父母の待つ家に帰り、戦塵にまみれた姿から、かつての娘の姿に戻る。一緒についてきた戦友たちは木蘭が女性であったことに唖然とする。
 『木蘭詩』は五、六世紀の北魏時代に作られたもののようですが、京劇や映画にもなったそうですね。それも木蘭の健気な生き方が、広く長く庶民に愛しつづけられたゆえでしょう。また唐の創業の主である李淵(高祖)の娘・平陽公主は、父が隋に対して挙兵した報に接するや、みずからも立ち上がる。安穏なる生活を捨て家財を売り払い、七万の軍勢を集めて参戦する。彼女の部隊は関中を脅かす。これが娘子軍です。私もかつて万里の長城を訪れた折、かの娘子軍が駐屯したという娘子関に思いを馳せました。まあ、今もいざというとき、現実に根を張った婦人のほうが強い場合が多い。
 さて、第六一窟には、四十九体にも及ぶ曹氏一族の女子供養者と三体の比丘尼像、于闐国王のもとに嫁いだ曹議金の娘も描かれていますね。
  五代の時代には、中原(黄河の中流地域)は、戦乱状態におちいりました。敦煌における曹氏三代の統治政策の一環として、安定を求めるために、東西の婚姻交流が図られました。したがって当時の女性の果たした役割は、非常に重要なものがありました。
 当時とられた政策は、家族支配を維持するためのものでした。曹議金の娘は、于闐国の国王に嫁いで皇后となりました。于闐国の国王は、また自分の娘を曹議金の子どもの嫁にやる。このような婚姻関係で曹氏家族の支配権が固められたわけです。
 池田 曹議金の娘が描かれた第九八窟(五代)の絵は、王妃の生活の豊かさをよく表していますね。頭には鳳冠、胸には宝玉の飾りをつけ、手には香炉をもっている。王妃らしい気品があり、西域の往時の繁栄がしのばれます。彼女の嫁いだ国は特産の玉により富を蓄積したことで知られていますが、胸の宝玉の飾りがその玉のようですね。
 シルクロードで最も早く開け、栄えた西域南道の最大のオアシス国家へ、はるばる嫁いでいった彼女の時代は、仏教が人々のなかに受け入れられて、敬われ、生活のなかに生きていたことも感じられます。
 ところで、敦煌の装飾意匠には、蓮華紋、団華紋、雲気紋、格子紋、唐草紋など独特の紋様が多く見られますね。
  中国では、古くから装飾意匠がとても重視されていました。その発展は、ずっと衰えませんでした。敦煌芸術の基盤は、宗教信仰にあります。敦煌の装飾意匠は、宗教の伝来とともに、中原、そして外国からの図案も幅広く吸収していました。たとえば忍冬紋、葡萄紋、連珠紋、宝相華、蓮華、雲気紋等です。敦煌壁画に描かれている図案内容は、非常に豊富であり、当時の中原地域、西域、外国の異なった画派、風格を全部網羅しておりました。
 池田 西域からの影響と考えられるものも多いですね。
  たしかに敦煌莫高窟壁画のなかには、大量の忍冬紋、連珠紋、葡萄紋等があります。それらは西域から伝わってきたものもありますし、画工の師弟たちが代々伝えてきたものもあります。
 時代の最も早い洞窟の中で、すでに忍冬紋があるのが発見されました。隋代から連珠紋が出現します。各時代の洞窟で最も多く発見されたのは蓮華紋です。
 池田 植物紋様のほか動物の紋様も見られますが。
  莫高窟付近の仏爺廟から画像磚が出土しましたが、それらは莫高窟建窟以前のものでした。そのなかに虎の紋様がありました。その虎の紋様は、漢代の墓碑の上にある虎の特徴とまったく同じです。
 早期の動物紋様は比較的に抽象的、ロマンティックであり、後になって動物はだんだん本物に似てきて、気品があり、生き生きしていますが、パターン化し、典型的になってきているような気がします。
 池田 次に先ほども話が出ました飛天の絵をテーマにしたいのですが。
  壁画では、千仏につづいて、二番目に多く描かれたのが飛天でした。飛天はサンスクリット(梵語)では「乾闥婆」といい仏教の神々の一つです。五世紀に鳩摩羅什が『法華経』を漢訳しましたが、その「譬喩品」に飛天のことをこう述べています。
 「爾時四部衆。比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。天。龍。夜叉。乾闥婆。阿修羅。迦楼羅。緊那羅。摩羅伽等大衆。見舎利弗。於仏前受。阿耨多羅三藐三菩提記。心大歓喜。踊躍無量。各各脱身。所著上衣。以供養仏。釈提桓因。梵天王等。与無数天子。亦以天妙衣。天曼陀羅華。摩訶曼陀羅華等。供養於仏。所散天衣。住虚空中。而自回転。諸天伎楽。百千万種。於虚空中。一時倶作。雨衆天華。而作是言(爾の時に四部の衆、比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩羅伽等の大衆、舎利弗の仏前に於いて、阿耨多羅三藐三菩提の記を受くるを見て、心大いに歓喜し、踊躍すること無量なり。各各に、身に著けたる所の上衣を脱ぎて、以って仏に供養す。釈提桓因、梵天王等、無数の天子と、亦天の妙衣、天の曼陀羅華、摩訶曼陀羅華等を以って仏に供養す。所散の天衣、虚空の中に住して自ら回転す。諸天の伎楽百千万種、虚空の中に於いて一時に倶に作し、衆の天華を雨して是の言を作さく)」
 (そのとき、四部の衆生である僧・尼僧・在家の男性信者・在家の女性信者と、天、龍、夜叉、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩羅伽などの大衆は、舎利弗が、仏前において最高の完全な悟りを得るであろうという予言を仏から受けるのを見て、心が大いに歓喜し、計り知れないほど躍りあがって喜んだ。各々のものは、身に着けている上衣を脱いで、それを供養した。釈提桓因すなわち帝釈天、梵天王など、そのほか数えきれないほどの天子とともに、また天のすばらしい衣服、天の曼陀羅華や摩訶曼陀羅華などをもって、仏に供養した。
 そのとき仏の前に供養され、散り敷かれた天の衣服は、虚空のなかにとどまって、そこで自然にぐるりと回転した。多くの天は、百千万種類もの音楽を虚空のなかで、一時にともに演奏し、多くの天の華を降らせて、次のように言った)
 池田 「乾闥婆」は仏法を守護する八種の衆(八部衆)の一つです。同じ『法華経』の「法師品」には「我時広遣。天龍鬼神。乾闥婆。阿修羅等。聴其説法(我時に広く天、龍、鬼神、乾闥婆、阿修羅等を遣して、其の説法を聴かしめん)」(仏はその時に広く天、龍、鬼神、乾闥婆、阿修羅等を遣して、『法華経』が説かれるのを聴かせるであろう)とあります。乾闥婆は天界の楽神で、酒肉を食べず香だけを食し、緊那羅とともに帝釈天の前で音楽を奏するといわれています。
 それが敦煌では画家の想像力のなかで無量の飛天となって描かれました。先ほど先生が述べられた「譬喩品」の「所散の天衣、虚空の中に住して自ら回転す。諸天の伎楽百千万種、虚空の中に於いて一時に倶に作し、衆の天華を雨して是の言を作さく」という文などは、敦煌の無数の飛天の姿とイメージが重なり合います。
  敦煌壁画では音楽と太鼓が共に鳴り、散華が始まり、仏の説法の厳粛なときに飛天があらゆる姿で随意に飛んでいる場面が壁画のいたるところに描かれています。洞窟の天井、説法図の上方、楼閣の門、窓、柱、また仏が説法するときの背中の光等々に描かれ、美しく装飾されています。まさに「天衣飛揚、満壁風動(飛天の衣が翻り、洞窟中に風を生じる)」の世界です。
 李承仙が敦煌の四百九十二の洞窟を調査しました。そのうち二百七十余の洞窟に飛天が描かれていました。なかでも第二九〇窟(北周)の中には百五十四体の飛天がありました。最も大きい飛天は第一三〇窟(盛唐)にあり、それは身長に天衣を加えると二・五メートルあります。小さい飛天は五センチにも達しないものがあります。
 池田 また時代によって男性的に描かれていたり、女性的になったり、表情も姿形も変化していますね。
  たとえば、西魏時代の第二八五窟の壁画では、面立ちが眉目秀麗で、衣服は大きい袖のもので、ゆったりした帯をつけています。また裸体の男性の飛天も描かれています。
 隋代の飛天は、しなやかで飄逸です。とても美しい姿をしています。唐代になると飛天は豊満でうるおいがあります。あたかも歴史書や文学作品のなかに描かれた楊貴妃のような典型的な唐代美人の姿をしています。
 池田 第一三〇窟(盛唐)に「都督夫人太原王氏礼仏図」がありますね。都督夫人と娘、九人の侍女が描かれていますが、女性たちは皆、「曲眉豊頬」でふくよかです。いわゆる楊貴妃型の特徴を備えている。
 こうした美意識で、軽やかに天を舞う飛天もまた豊かな姿に描いている。時代によって美への感覚に違いがあることがよくわかります。
  莫高窟の壁画は、時代ごとに風格が異なっていきます。それは、それぞれの時代によって、歴史感覚、芸術風格、美的感覚が違っているからです。
 池田 私には、莫高窟の飛天というと、画家たちが想像したさまざまな姿、形の自由な伸びやかな世界とともに、もう一つのイメージが浮かんできます。それは井上靖氏の『敦煌詩篇』のなかに描かれた飛天の姿です。
 氏は、莫高窟の疎林の中に三十数年住んでいる敦煌文物研究所の人が語った言葉を次のように書いていました。
 「――二十年程前に、一度飛天の夢を見たことがあります。深夜でした。何百かの天女が衣の袖をひるがえして、天の一角に上って行きました。最後の天女が消えるまで、遠くから微かに風鐸の音と、駱駝の鈴の音が聞えていました」(「飛天と千仏」)
 広大な砂漠のなかに、深夜、何百もの天女が飛翔していくという壮大、厳粛な光景。静寂ななかに微かに聞こえてくる風鐸と駱駝の鈴の音。一編の詩が、私の心にも広がってきます。
3  法華経の伝来
  ところで、池田先生は「中国敦煌展」の展示品のなかで、何に興味をもたれましたか。またご感想は何かありますか。
 池田 そうですね。百二十七点の展示品のうち、どれか一つを選ぶということはたいへんに困難なことです。ある学者は、シルクロードの至宝といわれるものばかりで、ちょうど宝の山に入ったときのように、目移りしてしまったと語っていました。
 私としては、やはり三十数点もの『法華経』の写本を展示していただいたことに、とくに心より感謝の言葉を申し上げたい。
 なかでも、北朝期の『法華経』は、羅什三蔵が漢訳して間もないころの写本とうかがっております。
 それから、なかに一点、図解本西夏文字の『法華経』が展示されていましたね。西夏の主要民族は、チベット系のタングート族で、西夏文字は十一世紀に創作されたと言われていますね。一つの民族が、自分たちの文字を作るということは、たいへんな事業です。さらに『法華経』を、その西夏文字に翻訳して読み、信奉していた。また『法華経』の三つの漢訳のなかで、この西夏文字の『法華経』は、鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』によっているということですね。この史実にも『妙法蓮華経』が、民族を超えて広く信奉されていたことがうかがえます。
  莫高窟には、元代(一二六〇年―一三六七年)に造られた多くの土塔があります。土塔の骨格になるのは真ん中にある柱です。その柱の下の塔の基礎にあたる部分には、つねにさまざまな物が埋めてあります。そのために土匪や軍隊の破壊を受け、よく倒れたり、崩れたりしました。
 一九五九年に竇占彪が塔の基礎部分を修復したさい、土のかたまりみたいな包みを発見しました。最初は、たんなる土のかたまりかと思いましたが、手にとってみると、包みであることがわかりました。開いてみると、模様の印刷されている布地のなかに、西夏文字の木刻図解『法華経』が包まれていたのです。それは蔵経洞の数万にのぼる経文のなかにもないもので、とても貴重な発見でした。
 池田 私は一九六一年(昭和三十六年)に初めてインドを訪問いたしました。会長に就任した翌年のことですが、この旅の折、釈尊の成道の地であるブッダガヤーにもまいりました。中国はすばらしい歴史と文化の宝庫であり、インドは精神と哲学の宝庫ともいえるのではないでしょうか。
 この仏教発祥の地から、はるばると天山を通り、砂漠を渡り、中国に仏教が伝来し、さらに海を越えて日本に伝えられました。シルクロードは、長安とローマを結ぶ長遠な通商の道でしたが、もう一つの壮大な仏教の道、文化の道が、この地から大陸を貫き、日本へまで広がっていることをあらためて実感いたしました。その道は「精神のシルクロード」とも呼ぶべきでしょう。インド、中国、日本をはじめアジア諸国のそれぞれの時代に、精神文化の豊かな土壌となり、深い心の絆を結んだ仏教の伝来の道でした。常書鴻先生もインドに「敦煌芸術展」で行かれましたね。
  一九五一年(昭和二十六年)にまいりました。
 池田 仏教発祥地であるインドでの反響は、どのようなものでしたか。
  当時はビッグニュースでした。ネルー首相は、娘さんのインディラ・ガンジーと一緒に見にきました。僧侶も大勢、参観にまいりました。
 僧侶たちは模写絵と塑像にたいへん尊敬の気持ちをいだいていました。とにかく信仰心の厚い人々でした。
 池田 私はインドへの訪問から十三年後に、今度は貴国を初めて訪れました。この折、西安までまいりましたが、昔の長安の都であったこの地で『法華経』が漢訳されたこともあって、私にはとりわけ感慨深い旅でした。
 西域の亀茲国の人であった鳩摩羅什は、幼いときから仏法を学び、後秦王・姚興に迎えられて長安に入りました。それは西暦四〇一年のことです。そして姚興の保護のもとで多くの経典を漢訳しておりますが、なかでも『妙法蓮華経』は珠玉のような名訳で人類の偉大な精神遺産となりました。
  『法華経』と他の経典の内容は主にどこが違うと、先生は理解されていますか。
 池田 たいへんに鋭くて、大切なご質問です。そのうえ、『法華経』については、「文上」と「文底」とを明確に立て分ける必要があるのですが、敦煌の芸術を論じているこの場では、あえて省略させていただき、「文上」の『法華経』に限ってお答えすることにします。『法華経』が他の経典と比較して、根本的に違うところは、釈尊自身が菩提樹の下で悟ったところの“宇宙と生命の根源の法”を、そのまま説き明かそうとした最高の経典である、ということです。
 釈尊自身、悟りに達した直後、自分の悟った法(真理)は、あまりにも広大で深遠なため、ほとんどの衆生には理解できないであろうと考え、悟りの法を衆生に説くことを、一度は断念する場面がありますね。しかし、いわゆる仏伝で有名な梵天勧請によって翻意し、以後、四十余年にわたって、説法の旅をインド国内に展開することになります。だが、一度は説法を断念したほどの難解な法ですから、これを最初からそのまま衆生に説いたのではありません。「対機説法」といって人々の理解能力(機)をみては、それぞれの能力や苦悩に対応した教えを、当意即妙に説いていっては、人々を救っていったのです。
 こうして説法しつづけた釈尊は、最晩年、生涯にわたる民衆救済の総仕上げとして、さらには、自分自身の滅後における人々への遺産として、かの菩提樹下での悟りの法を、そのまま、ありのままに説き明かすことにより、釈尊自身が、前々から本当に説きたかった「真実」を明確にしたのです。これが『法華経』という経典です。
 これに対して、『法華経』に対する他の諸経典は、釈尊が人々の理解能力をみては、それぞれの能力や苦悩に応じて、そのつど説いていったものですから、『法華経』という「真実」から見れば、「方便」の教えにすぎず、高低浅深、種々雑多な教えから成っている。たとえば、あるときは声聞や縁覚では仏になれない、と説いたり、女性や悪人は仏になれない、と戒めたかと思えば、菩薩になることを奨励したりしています。
 このように、『法華経』と他の諸経典では、その成立の背景と内容において、決定的に違うのですが、少し整理して申し上げれば、第一には『法華経』が、釈尊の悟りの“法”を、全体像のままに、ありのままに説き明かそうとしたのに対し、他の諸経典は悟りの法を、部分部分の側面から垣間見た教えにすぎない、ということです。
 第二には、『法華経』は宇宙と生命の根源の法を説き明かした。ということは、生きとし生けるものの悉くが、この根源の法に基づいて生きているということを明らかにしたことでもあります。ここから、『法華経』は生きとし生けるものの絶対の平等を説き明かしたことになります。他の経典では、女性や悪人、声聞・縁覚の人々は仏になれない、として差別してきたのに対し、『法華経』では、すべての人々が仏になることができると説いていることからもこのことは明らかです。

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