Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 永遠なるものを求めて  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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6  人生を決定した出合い
 池田 パリにはいつ、何歳の時に行かれましたか。
  一九二七年(昭和二年)に行きました。二十三歳のときでした。行くさいに、ある人に旅費のほとんどをだまし取られてしまいました。私が幼稚だったために、同郷の人が「自分はパリの中国大使とは親交がある。一切の面倒をみてあげる」と言うので、彼の話を信じて、彼の言うままに旅費の二千元を彼に預けました。ところが彼は、そのほとんどの金を女性のために使いこんで、私には上海からマルセイユ行きの船のいちばん最低の切符を買ってくれただけでした。その席はわずか百元で、船の最低部にありました。空気が悪く、熱くて、おまけに毎日、皿洗いやポテトの皮むきなどの仕事もさせられました。
 一カ月余りでマルセイユに着きましたが、ポケットには食事一回分の金しか残っていませんでした。「大使のところへ行けば大丈夫だ。仕事も金もある」と聞かされていましたが、やっとの思いで大使館に辿り着いたら、その大使はとっくに交代されたと言われ、途方にくれてしまいました。別の同郷の人を訪ねて、パリの中華料理店の雑役の仕事を紹介してもらい、なんとか一日三食できるようになりました。
 その後、試験に合格し、公費生としてリヨンの中仏大学で勉強するようになりました。そこで毎日フランス語を学びながら、リヨン国立美術専門学校でも絵画を勉強することができるようになりました。
 池田 フランス語を一心に勉強されて、一冊のフランス語辞典を暗記したほどだそうですが。
  私は小さな仏語辞典をもっていましたが、つねにポケットに携帯していたのは、辞書ではなく、フランス語の単語を書き写していたチョコレートの包み紙でした。
 私は、おばからチョコレートの包み紙をもらい、それに単語を書き写し、一つ一つ暗誦していきました。そのために、ポケットの中はつねにチョコレートの包み紙でいっぱいでした。
 一枚の単語を暗唱完了すると、紙を捨ててしまう。そのようにして、二年間で一冊の仏語辞典を全部暗記してしまったわけです。
 池田 そういう思い出は、一生涯忘れないでしょうね。若いときは何でもできるし、いくらでも自分を磨ける。
 パリ、リヨンでは主にどのようなことを学ばれましたか。
  パリでは、主に美術史と油絵技術を習いました。リヨンは織物の非常に発達している都市であり、機械織り模様の芸術性がとても高いところです。また、機械織り模様は、美術図案と緊密な関連性をもっています。それで私は、リヨンで美術以外に、毎週日曜日はジャカードマシン(フランスの発明家、ジョセフ・マリー・ジャカールが発明した紋織機械)の技術を学びました。その機械はフランスで普及していました。かつて中国の甲種工業学校で勉強したことが、ジャカードマシンを活用するのに役立ちました。
 池田 当時、セーヌ河畔の露店の本屋で、ポール・ペリオの『敦煌石窟』という図録を見つけ、そのときの敦煌との出合いが常先生の人生を決定したとうかがっていますが。
  一九三六年(昭和十一年)の六月、ペリオの『敦煌石窟』という図録を偶然に発見したときが、私の人生で最大の転機を迎えたときであるといっても過言ではありません。この本が私を最大に啓発し、その後、私の歩む道を決定してくれました。
 当時、私はフランスで西洋画の勉強に没頭していました。十年の間に私はフランスのパリ、リヨン美術家協会から三回の金賞と二回の銀賞を獲得しました。また、フランス・リヨンサロン(美術家協会)の委員、フランス肖像画協会の会員にもなり、モンパルナスの画家であることを自負しておりました。
 私はペリオの『敦煌石窟』の図録を見た瞬間、自分の目を疑いました。祖国にこんなにすばらしい古代遺産が残されている事実をうれしく思いながら、信じられなかったほどでした。よく見ると、ペリオは序のなかに、これらの写真は、一九〇八年、敦煌の石窟で撮影したものであることを明記しておりました。私は祖国の仏教美術のすばらしさに驚きました。それまで崇拝していた西洋ルネサンス時代の芸術を、目の前にある敦煌石窟の芸術と比較してみましたが、時代の古さから見ても、芸術表現の技巧から見ても、敦煌芸術のほうが、はるかに優れているということが一目瞭然でした。
 「これは奇跡だ」――私は、すぐ敦煌芸術のとりこになり、祖国へ帰って敦煌へ行こうと決意しました。必ず自分の目で、これらの宝物を確かめたい。そして、中国人であるならば、これらの宝物を保護する責任があるはずだと心の中に決めました。
 池田 それほどまでに心をとらえられたというのはどういう……。
  ペリオの『敦煌石窟』の図録のなかでは、ジャカードマシンで織り出した模様と似ている壁画の図案部分と、北魏や唐代敦煌芸術を代表する壁画にいちばん心を魅かれました。店主に『敦煌石窟』の値段を聞くと、とても私の経済力では買うことができないものでした。
 店の主人は、近くのギメ美術館に敦煌から出土した絹絵がたくさんあると私に教えてくれました。私はただちに見に行きました。そこで初めて唐代の絵画と対面しました。それらは、とても見事で、きれいに描かれていて、私は大感激でした。
 池田 よくわかりました。その後、帰国された先生は、初めて敦煌へ行くさいには、油絵の個展を開き、絵を売られて旅費に充てられたそうですね。
  フランスでペリオの『敦煌石窟』の図録を見てから、心の中に祖国に帰って敦煌へ行くことを固く誓いました。当時、繁華なパリのなかで、私はすでにある程度の地位を獲得していました。リヨンサロンの委員であり、フランス肖像画協会会員でもある私は、安定した生活を送っていました。このような立場をすべて手放して、祖国に帰るということ自体がむずかしい判断であるのに、ましてや流人しか行かないような、人家のない砂漠のなかにあるところへ行くという決断は、並大抵のものではありませんでした。
 真っ先に直面した諸問題のなかの一つは、旅費の問題でした。敦煌へ行く旅費を準備するために、私は重慶で個展を開きました。そこでフランスと中国で描いた四十枚の絵を売って旅費にあてました。当時、政府の教育部も、私の敦煌行きを支持しませんでした。しかし、私は背水の陣の決意で、あとは何もいらないが、旅費さえできたら、さっそく敦煌へ出かけるつもりでした。
 私にとってはペリオの『敦煌石窟』との出合いが、その後の私の人生を決定するほどの影響をもたらしましたが、池田先生の場合には、どのような体験があったでしょうか。
 池田 私の人生に最大の影響を及ぼしたのは、戸田城聖先生(創価学会第二代会長)との出会いでした。
  先生はいつ、どのような機縁で戸田先生に会われたのですか。
 池田 日本の敗戦後のことでした。一九四七年(昭和二十二年)の夏、二回目の終戦記念日を迎えようとしているころ、私が十九歳のときでした。私の友人が訪ねてきて「生命哲学について」の会があるから、一緒に来ないかというのです。ベルクソンの「生の哲学」のことかと思いましたが「そうではない」ということでした。
 ともかく興味がありましたので、友人と一緒に出かけました。その会合はじつは創価学会の座談会で、そこで講義をされていたのが戸田先生でした。
  そのときの第一印象はどのようなものでしたか。また、なぜ戸田先生を自分の人生の師と決められたのでしょうか。
 池田 戸田先生は当時、四十七歳でしたが、第一印象を一言で言うと、傑出した方だということでした。とにかく、それまでに会ったことのないタイプの方で、度の強い眼鏡の奥の眼差しは独特の優しさをたたえておられました。その屈託のない人柄、話し方に、初対面のときから、不思議に限りない親しみをおぼえました。
 日本は敗戦二年目で、人々はなんとか生きていくのがやっとで、人の心もすさんでいたときでしたが、電灯も薄暗いなかで、その会場には明るさと活気がありました。
 私は戸田先生の自然な振る舞いと話に、初対面にもかかわらず、ぜひとも教えていただきたいと言って単刀直入に質問いたしました。
  「正しい人生とは?」
  「真の愛国者とは?」
  「天皇をどう考えられるのか?」
 それに対する戸田先生の回答は、簡明直截で誠実な心情にあふれておりました。私は「この人の言っていることは本当だ。この人なら信じられる」と直感的に思いました。言葉では尽くしがたいそのときの思いを「私は、なにかしらうれしかった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)と、のちに回想し記したことがあります。その折の感慨はこの年になっても鮮烈です。
 そのうえで、さらに聞くところによると、戸田先生は戦時中、創価教育学会の会長であった牧口常三郎先生とともに、入獄し、牧口先生は獄死、戸田先生は二年間獄中にあったということでした。仏法者の立場から、かの軍国主義が国家神道をふりかざしたことに、真っ向から反対したために、二人は傲慢な権力の弾圧を受けました。しかし、決して節を曲げなかったために、治安維持法違反、ならびに不敬罪で検挙され投獄された、と。
 このことは、私にとって決定的でした。というのも、悪しき権力に対しては、それと闘うか否か――端的にいえば、当時の私には、戦争に反対して獄に入ったかどうかが、当時の指導者を判断する決定的な尺度ともなっていたからです。
 一国の敗戦という破局のなかで、人々は二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと、真剣に考え始めていました。
 まさに、そのときに、私は、会いがたい、人生の師となる人に、会うべくして出会ったという思いがありました。ただし、このときには、戸田先生との出会いが、私の運命を変えることになろうとは、まだ知るべくもありませんでした。しかし心の暗雲が払われ、この人について、もっと深いものを求めていきたいという強い思いがありました。
 しばらくして私は、戸田先生の会社に入り、先生のもとで朝も夜もなく働く日々を過ごすことになりました。
 じつは戸田先生は「日本と中国との友好が最も大事である」とよく私に語っておりました。それはもう三十年以上も前のことですが、そうしたこともあり、私は先生の弟子として、いつの日か日中友好のために働きたいと考えておりました。
  先生は若くして創価学会の会長に就任されましたが、就任したときの感想、当時の抱負はどんなものでしたか。
 池田 私が会長に就任したのは三十二歳のときでした。恩師であった戸田前会長の逝去から二年後のことで、理事会での決定です。それまでにも幾度か要請がありましたが、私は当時、健康に不安もあり、また若すぎるとの思いがあって、そのつど固辞してきました。しかし、恩師から生前「自分の仕事は全部終わった。後は頼むぞ」と念を押されていましたので、いつかは引き受けざるをえないと覚悟しておりました。
 就任後、日本のある指導者にあいさつした折、「あなたのことは戸田前会長からうかがっておりました」と言われ、恩師の打ってくださった布石にあらためて感謝の思いを深くしたものです。私の願いは「私はどうなってもいい。ただ生涯、全会員の“屋根”となって守りぬいていきたい」ということでした。
 途上に多くの障害があり、嵐があることも覚悟していましたし、会長職が大任であることも十分承知しておりました。しかし、就任した以上は、ひたすら前へ進む以外にはありません。とくに私としては最初の二年間が勝負だと思っていました。
 お国の言葉に「日々に孜々せんことを思う」(自分は毎日毎日ただ一生懸命にやろうと考えている)とありますが、これは当時の私の心境といえるかもしれません。
 また私は身近な一つ一つを疎かにしないことをみずからに言い聞かせてきたつもりです。会長に就任して一年間は、毎朝、信濃町(新宿区)の本部に行くときも、大田区の自宅から自転車で駅に行き、電車を使いました。「創価学会の会長が……」という人もいましたが、私としては、若い人たちに、また将来のために、贅沢はしないという範を示さねばならないと思ったからです。
  池田先生は中国でもたいへんに有名ですが、現在の活動の淵源は戸田先生にあったわけですね。
 池田 私は平凡な人間ですが、恩師の構想は、すべて実現する決意で、今日まで走ってきました。そして今、何も悔いはありません。むしろ最極の生き方を教えていただいたことに感謝してやみません。
 学会は、その後十年間で、七十五万世帯から十倍になりました。宗門を外護し、先生もご存じのように政党も、大学、研究所、学園も、美術館も、そして日本で最大の音楽文化団体も創立しました。また、世界へ仏法を基調とした平和、文化、教育の運動を展開しております。それは恩師の構想に基づくものでした。
 私が忘れられないのは、亡くなる直前のある日、恩師が私に「学会は少数精鋭でいいから、本当にいい人だけでやっていきなさい」と遺言のように言われたことです。私の性格を知りぬかれていた恩師ですから、私に負担をかけまい、という配慮もあったと思います。本当にありがたい先生でした。
  今日まで最も困難を感じられたことは何ですか。
 池田 いや、それは、人生の先輩である先生におうかがいしようと思ったことです(笑い)。ただ私は若いときから体が弱かったものですから、健康にはずいぶん気をつかいました。この年齢で元気に働けることは、若いときは想像もできませんでした。
 先ほど先生が「人生は戦いの連続である。一つの困難を克服すると、また次の困難が出てくる。人生はその繰り返しだ」と述べられましたが、私もまったく同じ気持ちでおります。だから若くなれるのかもしれませんが。(笑い)
 私は信仰者ですから、良いときも、悪いときも、一喜一憂しませんし、淡々と、また堂々と、信念の道を歩みぬければよいと思ってきました。さまざまなことがあり、ありとあらゆる人間模様も見てきましたが、全部私を強くしてくれました。ありがたいことと思っております。
 とともに、一緒に幾多の苦難を乗り越えてくれた多くの友人を生涯、否、永遠に私は守っていく決心の昨今です。
 それはともかく、常先生こそ今日までの人生には、言葉に表現できないような辛いことがあったのではないか、と想像いたします。
  いろいろありましたが、強いて最も辛かったことを挙げるとすれば、私が敦煌莫高窟の千仏洞に初めて着いたとき、敦煌の洞窟が崩れ落ちて砂漠に埋まり、壁画も落ちてしまっているのを目のあたりにしたことです。
 池田 そのときのご心境は、察するにあまりあります。しかし、先生の場合、その“哀惜の念”を敦煌の保護の必要性を各所に訴える、という行動の発条に転じましたね。
  そのときの私には、ただただ莫高窟をいかにして保護するかが最重要課題でした。私は何度も何度も、上級の指導者や社会に対して呼びかけ、政府や民間の人々が敦煌の保護と研究の仕事を重視するようお願いしました。
 また、ソ連の地質専門家が、ちょうど玉門で石油採取の実地調査を行っていたときには、彼らに来てもらい、敦煌の保護の仕方について、彼らのアドバイスを求めました。私は、さらに何度も何度も、敦煌の危険な状態と、洞窟の割れ目や壁画の崩れ落ちている状態を説明したり、リポートを書き、各方面に保護を呼びかけました。そして、ついに周恩来総理の許可を得て、莫高窟の固定工事を行うことができました。文化大革命の始まる前には、ほぼこの工事を完成させることができたのです。
 池田 最も苦しかった時期といえば、どの時期にあたるのでしょうか。
  前にも触れたと思いますが、前の妻の家出が、私に大きな打撃をあたえました。当時は、敦煌の仕事を始めたばかりで、私は仕事のために毎日、朝から晩まで忙しくて、前妻の変化にぜんぜん気がつきませんでした。私は本当に内外ともに打撃を受けていました。当時の国民党政府の教育部が経費を支払わず、しかも敦煌芸術研究所の解散を命じていました。
 私は異国から千万の苦難を乗り越えて、やっと敦煌石窟に辿り着いたのです。そして、この自然と人為的な迫害を受けながら、今日まで存命してきた石窟を見て、それ以上の被害を断じて受けさせないようにと決意したのです。
 ところが、国民党政府から敦煌芸術研究所を解散すると言われ、とても悲しくて、あらゆるところに救援を求めました。私が苦しんでいるときに、前妻が家出をし、十三歳の娘と三歳の幼い息子が残されました。私たちは砂漠のなかに三人で助け合いながら生活していくことになりました。私は宿命を信じませんが、でもそのときばかりは「なぜ私にこんな不運な運命が……」と心を痛めました。
 悲しみのなかで、とくに真夜中、周囲が静まっているとき、九層楼の風鐸の鈴の音を耳にし、深い藍色の夜空の一面の星々と、深く眠っている敦煌石窟を見ていると、壁画の飛天たちが、光を発しながら、私に声をかけているような錯覚をたびたびしておりました。彼女たちは私に「あなたの夫人はあなたを見放したが、あなたは決して私たち、敦煌を見放してはいけない」と訴えていました。
 当時、最も強く自分を責め、そして励ましていたのは自分の良心でした。「書鴻よ、あなたはなぜ帰国したのか。なぜこの辺鄙な砂漠に来ているのか。しっかりしなさい。同じ志をもてなければ、夫婦でなくてもいいじゃないか。ここで転んでも、また立ち上がって、大地をしっかりと踏んで、また前進しようではないか。たとえ前にどんな困難があろうとも」と。
 また私は、先ほども池田先生から紹介のあったように、張大千先生が敦煌を離れる折に言われた言葉を思い出しました。「私は帰る。君はここで無期懲役を受けるのだ」と。そして私は「そうだ、最後まで頑張りつづけるのだ」と決意しました。
 池田 日本の多くの読者も感銘することでしょう。偉大な人は、逆境にこそ真価を発揮する。光っている。これは私が世界の一流といわれる人々とお会いした結論です。
 そして、その後、李承仙先生と出会われたのですね。
  そのとおりです。一九四五年(昭和二十年)、国民党政府の教育部が、国立敦煌芸術研究所の解散を命じました。私は重慶にある教育部、文化部に行って、敦煌芸術研究所の存続を訴えました。一年間ぐらいの抗議と懇請で、最後に中央研究院が国立敦煌研究所の面倒をみることになり、それから研究所は中央研究院の所属となりました。
 一件落着で、私はふたたび四川で新しい研究員を募集しました。中央研究院からは大きなトラック一台と各種の器材が配給されました。ちょうど、人員を募集していたころ、国立芸術専科学校の卒業生が私の鳳凰山にある駐在地を訪ねてきて、自分の描いた油絵の人物、静物、草花を見せ、敦煌へ行きたいと言ってきました。
 私は彼女にノートの上に名前を書かせたところ、彼女は「李承仙」と三文字を書きました。「油絵専科なのに、なぜ敦煌へ行きたいのか」と尋ねたら、彼女は「父は李宏恵(辛亥革命のとき、孫文が創立した『同盟会』の幹部で、反清革命家)と言います。現在は李容恢という名前です。二番目のおじは李瑞清で、張大千の先生をしたことがあります。父からは、中国画家であれば、まず敦煌へ行き、中国民族の遺産について勉強し、敦煌を研究し、そして自分の独特の風格を創作すべきだと言われて、心を決めました」と説明してくれました。
 私は彼女に「敦煌の地はとても離れたところにあり、古代では兵隊か、流罪人しか行かないところで、生活はとても苦しい。あなたは耐えられますか」と聞きました。彼女は「芸術のために身を捧げる覚悟です。苦しいから行かないというのは道理に合いません」と答えました。
 池田 なるほど。なるほど。
  しかし、その年は、彼女は父親の病気で、残念ながら、行くことはできませんでした。翌年、彼女は四川省立芸術専科学校の担任助師になり、一年後に、また敦煌へ行きたいと言いだしました。当時、私の親友の沈福文と、学生の畢晋吉が、彼女に私の経歴を紹介しました。その後、沈君と畢君両名が、彼女のことをずっと観察し、彼女の敦煌への志に打たれ、私と同様に「敦煌馬鹿」になれるのではないかと考え、私との結婚話を進めてくれました。一九四七年(昭和二十二年)九月、李承仙は成都より蘭州へ赴き、私は敦煌から蘭州へ行き、そこで結婚して一緒に敦煌へ帰り、ずっと今日までともに敦煌芸術の研究をしてきました。
 池田 息子さんとお嬢さんたちの教育については、どのような信条であたられましたか。
  子どもたちには幼いときから「誠実で正直な人間になれ」と教えました。そして、よく勉強し、向上心をもつことを望みました。ただし、この向上心は、自分自身の名聞名利のためでなく、良心に忠実に、知識人として中国に貢献できるためのものです。
 子どもたちに絵を教えるときは厳しくしました。芸術の基本をしっかり身につけてもらいたかったので、あえて厳しくしたのです。また子どもたちには「人生は決して順風満帆ではない。人の前途は戦いのなかで開いていくものである。困難を克服し、勇敢に前進しなければならない。途中で挫折してはならない。自分のめざしている目標を達成し、事業を成功させるためには、努力と苦しい代価を支払わなければならない」ということも教えてきました。
 池田 それでは次に最も楽しかったこと、うれしかったことについてはどうでしょうか。
  最も楽しかった思い出は、一九五一年(昭和二十六年)四月のある日曜日の午後、北京の午門楼で開かれた敦煌文物展覧会に周恩来総理が参観に来てくださったときのことです。私は、総理に敦煌芸術や展覧会の展示物などについて、種々ご報告いたしました。周恩来総理は参観された二時間余りの間、親切にまた諄々とご指導し、激励してくださいました。
 もう一つうれしかったのは、敦煌の石窟が固定工事を経て、コンクリートの非常に安定した廊下が増築されて、電灯もつけられたことです。これによって、私たちは安心して、行き来することができるようになりました。敦煌は、この工事によって、文化大革命期間中でも、比較的良好に保護されたのでした。さもなければ、どういう結果になっていたかは、想像することもできません。
 池田 電灯が莫高窟についたのは敦煌に行かれて十一年後だったということですね。
  一九五四年十月二十五日、莫高窟に初めて自家発電による電気が輝いたとき、私は洞窟の中で模写をしている同志たちの様子を見に行きました。洞窟内で李承仙に会って、彼女の感想を聞きました。「電気はついていますけど、目の前はかすんで見えません」と彼女は言いました。よく見ると、彼女の目には涙がいっぱいたまっているのです。これは長年、暗い洞窟で仕事をしてきた工作員の感激の涙でした。
 私は、わざわざ第一七窟の蔵経洞を見に行きました。からっぽの洞窟の中で、壁画に描かれている供養侍女が、私に向かって、ほほえみを見せながら歩いてくるような錯覚を起こしました。私も心の中で彼女に話しかけました。「歴史の証人のあなたよ、見てください! 私たちにもついに電気がついたのですよ!」と。

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