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日蓮大聖人・池田大作

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第二章 永遠なるものを求めて  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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2  労苦の歳月
 池田 一九八五年(昭和六十年)の秋、すばらしい油彩画を先生より頂戴いたしました。「雪の莫高窟」と題するその絵は、私どもの記念館に、宝として置かせていただいております。絵の添え書きに「五十年の敦煌の歴史を回想して」としたためられてあり、私は敦煌とともにあった先生の人生の風雪をあらためて偲びました。
  池田先生にお贈りした絵には「九層楼」(北大像を収める第九六窟の楼閣)を描いています。私は九層楼に特別な感情をいだいています。初めて駱駝に乗って莫高窟に向かい、あと数キロの地点にいたったとき、目の前が急に明るくなったような気がしました。それは眠るように静かなたたずまいの樹林のところに、崖に沿って九層楼が見えたからです。私はパリで見たペリオの図録のなかの楼を現実に目にしたのです。
 以来、半世紀にわたって、私はこの九層楼の風鐸の音を聞いてきました。とくに夜が更けて、周囲には物音一つしないとき、横になって、深い群青色の空にかかった名月を眺めていると、この風鐸の音が「敦煌芸術の保護と研究にどれだけのことをしてきたか」と私を問い詰めているようにも聞こえました。
 また文化大革命の折、家族から引き離されて耐えがたい苦痛を受けていたとき、眠れないでいると、遠く九層楼から風鐸の音が聞こえてきました。その涼やかな音色は、私を慰め、勇気と希望をあたえ、奮起させてくれました。
 池田 敦煌の芸術を心の底から愛し、それこそわが子を慈しむように大切にされた、その深いご心情をうかがい、なおさら、あの九層楼の絵の意義が私の胸に迫ってきます。もう常先生のような方は出ないでしょうね。敦煌と先生との不思議な縁を私は感じます。
  私の起伏の多い人生の道で、限りない激励をあたえつづけてくれたのは、この九層楼でした。したがって私は九層楼を描くことが好きなのです。とくに新雪の後の九層楼に最も心を魅かれました。池田先生にその絵を贈呈したのも、こうした思いがあったからです。絵には「前事不忘 后事之師」(前事の忘れざるは後事の師なり――前にあったことを心にとどめておけば、後に物事を行うときに良い参考になる)との言葉をしたためました。
 この絵には私の願いがこめられています。それは莫高窟九層楼のように、風砂雨雪を畏れず、敦煌――この芸術の宝庫の重要な価値を永久に歴史にとどめたい、という私の心からの願望です。
 池田 重ねてご厚情に感謝いたします。
 ところで先生が行かれた当初のことを考えると、「陸の孤島」である莫高窟での生活は、衣、食、住のどれ一つをとってみても、初めて経験するものばかりだったのではないでしょうか。
  離れ小島のような莫高窟のすべての生活用品は、二十五キロ離れている敦煌県城で手に入れねばなりません。私の住居は、中寺の後庭にある、もともとは参拝客のためにあった部屋でした。中にはベッドはなくて、土を固めて煉瓦の形にしたもので作った台に、むしろを敷き、その上に麦藁を置き、布をかぶせて寝台にしました。
 机も土を固めたもので、上に石灰が塗ってあります。窓はとても小さく、枠は木で、その上に紙が張ってあるだけです。電気も当然ありません。皿の中に油を入れて、茎のずいで灯心を作る。このようなランプの光線は弱く、風が吹くとすぐ消えてしまいます。少したってから、敦煌県城でソ連製の石油ランプを購入してきました。これにはガラスのふたがついているので、風には強く光も油ランプよりは明るいものでした。
 池田 慣れない砂漠のなかでの生活で、食料を手に入れるのも人一倍のご苦労があったと思います。
  敦煌に着いた日には、本当は県城で鍋や皿やハシなどの日用品を購入する予定でしたが、あいにく着く前日に、県城が土匪に略奪されたばかりなので、城内の店は全部営業停止で閉店しており、何も買えませんでした。仕方がなく、私たちは砂漠植物の一種の紅柳でハシを作り、ラマ僧から鍋と碗を借りてきて、ソバをつくって食べました。他にはお酢一皿と漬け物一皿だけでした。
 池田 どなたか近くに住んでいらっしゃいましたか。
  当時、画家の張大千先生が、上寺(雷音寺ともいう)に住んでおり、中寺との間は壁一つ隔てているだけです。張大千先生は、私たちの貧しい生活をよく知ってくださっており、ときたま招待し、ごちそうしてくれました。その後、少し砂漠の生活に慣れてきて、私たちは羊を飼いました。毎日、羊から乳がとれます。また、ゴビ灘から「沙葱」というネギを取ってきて食べました。このネギは、普通のネギよりも、歯切れが良く香ばしいのです。
 池田 冬はとくにたいへんだったでしょうね。砂漠のなかだし、どのような工夫をされましたか。
  敦煌の冬はとても寒くて、零下二〇度近くまで下がります。厚い綿入れのコートか、毛皮のコートがなければ冬は過ごせません。私は市場で、遊牧民族の白い羊皮のコートを買いました。コートの襟まわりと裾あたりは、赤と緑の布地で飾ってあります。それを着ると、遊牧民のように見えました。
 池田 今、お話に出た張大千氏は莫高窟を調査し終わって帰られるとき、常先生に「私たちは先に行くよ。君はここで限りのない研究と保護をつづけるのかね。……無期懲役だね」(常書鴻『敦煌の芸術』土居淑子訳、同朋舎出版、参照)(笑い)と言って別れたとうかがっています。もちろん、ユーモアもあったでしょうが、この“無期懲役”という言葉は、たしかに、常先生のそのときの過酷な状況を端的に示している気がいたします。
  その言葉は冗談ではありますが、言いすぎとは思いませんでした。でも、この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした。
 池田 砂漠のなかに開かれた莫高窟は、長年にわたって流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、倒壊の危機に瀕していた。この状態から石窟と窟内の壁画や塑像を保護し、修復するために、常先生は何から始められましたか。
  莫高窟を保護、修復するために、まず植樹から着手しました。植樹すると、土砂崩れを防ぐことができます。
 それから土塀を作りました。動物が木を食べたり、洞窟に入ったりしないように、周囲に塀を造り、洞窟の入り口あたりにも塀を造り、砂がそれ以上、洞窟に流れこまないようにしました。
 池田 一歩一歩、着実に復興の大事業を進められたご様子がしのばれます。
 生活に不可欠な“水”などは、どのようにして確保されたのでしょうか。
  莫高窟の水は三十キロ離れたところから流れてくる水です。水の中にはある種の鉱物が含まれており、日光が当たると、水が苦くなります。「甘水井」と呼ばれている小さな泉の水も例外ではないのです。ただ、その泉は、日照時間が短く、水が苦くなる時間が比較的に少ない。ですから私たちは毎日、朝日が昇る前に、泉から水を運んできて、貯水器のなかに溜め、それを一日の飲料水として使いました。
 私たちは、深いところに地下水があると信じ、長年ずっと井戸を掘り、飲料水を探しつづけてきましたが、成功しませんでした。一九六二年(昭和三十七年)に、洞窟前の十数メートルの深いところに初めて地下水を発見しましたが、サンプルを調べたところ、水質が悪くて、飲み水にはなりませんでした。その後も、ずっと井戸を掘りつづけました。一九八〇年(昭和五十五年)以後、地質隊が調査をし、初めて飲食用にできるような井戸を莫高窟で掘り出しました。しかし、その水も、そのまま飲むのには適さないものでした。
 池田 健康にもずいぶん気をつかわれたと思いますが……。
  水の確保も大きな問題でしたが、病人が出たときはたいへんでした。生命が危険にさらされる場面にも何回も直面しました。莫高窟は、砂漠のなかの孤島で、医師に診てもらうためには、遠くまで行かねばなりません。新中国建国の前、次女が急病になりました。当時、敦煌には医療設備が欠けており、町までの交通もたいへんに不便で、五日後に莫高窟で亡くなってしまいました。研究所の工作員たちが、娘の墓に花輪を捧げてくれました。それには「孤独で貧しい者たちより謹んで贈る」と書かれていました。
 また莫高窟の測量図などを担当していた陳延儒が、急病で高熱を出して寝こんでいたとき、私の手をにぎって、「所長、私はもう長くはないですが、死んだら絶対に私を砂の中には埋めないでください。必ず土の中に埋めてください」と言ったこともありました。
 妻の李承仙も死にそうになったことがあります。午前三時ごろから大量出血して、顔からだんだん血の気が引いていきました。動かすこともできず、人に驢馬で医師を迎えに行ってもらいました。やっと医師が到着したのは午後三時ごろでした。医師の必死の看護で、やっとのことで妻を死の淵から救い出すことができました。
 池田 きっとお嬢さんは常先生の胸の中に生きておられるのだと思います。奥さまも常先生と一体となって生死を超えてこられました。先生のご著書『敦煌の芸術』(土居淑子訳、同朋舎出版)には「敦煌には、わたしの人生の大半がある」と記されています。まさに労苦と忍耐の連続の日々であられたわけですが、それだけに感慨も深く、大きい歳月であったことと思います。
  ありがたいお言葉に感謝します。今まで語ってきたことと重なるかもしれませんが、この四十数年来の私の人生を振り返ってみますと、当初はまさに「艱難辛苦をなめ尽くした、一家離散」のような生活でした。
 このまま敦煌に残って、困難と戦いつづけるか。それとも都会に戻って、安逸な画家生活を送るか。あれこれ悩んでいるとき、さまざまな言葉が蘇ってきました。
 張大千先生の言われた「無期懲役」という言葉。徐悲鴻先生は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」(出典は『後漢書』班超伝。危険を冒さなければ功名は立てられないとの意)と激励してくださいました。梁思成先生は「破釜沈船」(釜を破り船を沈める=最後の不退転の決断を下す)と励ましてくれました。こうした言葉を思いながら私は「人生は戦いの連続である。一つの困難を克服すると、また次の困難が出てくる。人生はその繰り返しだ。私は決して戻らない。どんな困難があろうとも、私は最後まで戦いきっていこう」と心を固めました。
 今になってみると、私のこの選択は正しかったと胸を張って言えます。少しも後悔しておりません。
 池田 「悔いはない」と言いきれるのは勝利の人生です。人生には、さまざまな障害がある。いわんや志が大きければ、それだけ障害も大きい。ひとたび、行き詰まると、安易な道に逃れて、志を途中で捨ててしまう場合があまりにも多いものです。しかし、先生は、あえて苦難の道を歩みぬかれた。
 艱難こそ、わが胸中の珠を磨いてくれる――順風よりも逆風のなかでこそ人間的に成長していくことを、私自身体験し、青年たちにも語ってまいりました。ある青年には「ひとたび 負けたからといって 君よ そんなに歎くことはない 真の勝利というものは 人生の最後の時に 決定されるべきを 信条として立ち向かっていくべきだ」との激励の言葉を贈ったこともあります。先生が言われるとおり、最後まで戦いきったかどうか。そして「私は勝った」と言える人生こそ尊いものです。
3  美しき西湖の湖畔
 池田 ここで、常先生のこれまでの人生、とくに少年時代、青春時代を振り返って語っていただければと思います。お生まれは杭州ということですね。
  そうです。私は風光明媚な西湖の湖畔に生まれました。少年時代、青年時代はずっと、この絵のように美しい所で過ごしました。
 池田 西湖ですか。いい所ですね。じつは私も一度、行ったことがあります。
  それは知りませんでした。いつごろのことですか。
 池田 最初の貴国訪問(一九七四年〈昭和四十九年〉)の折でした。当時は東京―北京間の空路が開かれてなくて、香港から広州を経て北京へまいりました。北京では李先念副総理との会見や、北京大学の訪問などの行事がありました。その後、西安、上海を訪れ、深夜に杭州に入りました。翌日の夕刻には、ふたたび上海へ移動するというたいへんに忙しいスケジュールでしたが、私たちの旅には、ずっと中日友好協会の孫平化会長(当時、秘書長)がご一緒してくださいました。
  そうでしたか。私には杭州は思い出深い所です。
 池田 かつて唐の大詩人・白楽天は、杭州の景勝は天下に比類がないと称えておりましたね。また西湖をうたった北宋の詩人・蘇東坡の有名な詩もありますね。
  「水光瀲艶として 晴れて方に好く
   山色空濛として 雨もまた奇なり」
 (水光瀲艶晴方好 山色空濛雨亦奇――きらきらと さざ波晴れてうるわしく けむりそむ山の姿 雨もうるわし)
 (『蘇東坡詩集』金岡照光訳、角川書店)
 私たちが訪れた日は文字どおり「雨もまた奇なり」の一日でした。「三潭印月」などを見て回りましたが、霧雨煙る六月の西湖は格別なものですね。船を下りてから、花港公園でしばし雨宿りしました。その折、山東省から来ていた十一歳の少年とも友だちになりました。
 湖は不思議と、若い人の心を美しく育んでくれますね。
  わが家の真ん前に小川があり、蓮の池がありました。春になるとオタマジャクシが池のほとりを泳いで、しばらくすると、尾がなくなっていく。いつのまにかカエルになって蓮の葉の上で跳びはねたり、虫を捕らえたりします。
 また朝になると池のほとりに子エビがたくさん集まってきます。透明な体が水の中に見え、たまに岸まで跳び上がってくるものもいる。私は毎朝早く起きて、エビを釣りました。いつも洗面器にいっぱい釣って母に渡しました。当時は家が貧しく、それをおかずにしていました。
 毎年、季節になると、蓮の葉が水の中から顔を出して、傘のような葉を広げる。間もなく蓮の花が葉より高くなり花が咲く。時期がくると、私たちは蓮の実を包んだ苞を採り、実を食べました。毎年同じことが繰り返されます。蓮の花が満開になると、その美しさに、ついついその景色を絵に描くこともしばしばありました。
 池田 そうそう、私が先生に贈る詩を作るときも、まず思い浮かんだのが蓮の花でした。「西湖の蓮花 碧波に映え 孤山の紅梅 秋月と絶景を競う 少年筆をとり 美の道に進めり」――美しい西湖の湖畔で過ごされていて、多感な常少年が絵の道を志すようになったことも、私はわかる気がいたします。常先生の西湖の湖畔での生活で、とくに印象深かったことは……。
  最も印象深いことは、一九二四年(大正十三年)の出来事です。私が雷峰塔を遠くから写生していると、突然、砂ぼこりが煙のように空に舞い上がっていきました。しばらくして、船頭さんから、雷峰塔が崩れたことを聞きました。幸運にも、私は青年時代に、倒れる以前の雷峰塔の雄姿を見ており、そして、雷峰塔を描いた絵を大事にしていました。絵画は美しい景色と忘れがたい刹那を永久に残すことができるからすばらしいと思います。後日、私が写実主義絵画を選んだのも、こうした出来事が大きく影響を及ぼしています。
 池田 移りゆく時の流れのなかで、一枚の画布に「永遠なる瞬間」が輝いている――。磨かれた画家の心の鏡が映す刹那の美は、幾百年という歳月を超え、遙か遠い国の人の心にも不朽の光を贈ってくれます。
 そうした美の世界をめざして芸術の道に進むようになったきっかけは……。
  私の最初の先生は、三番目の叔父さんでした。私の三番目と四番目の叔父さんは、身体障害者でした。三番目の叔父さんは、ブランコから落ちて障害者になりました。四番目の叔父さんは、小さいとき、とてもかわいくて、大人が高く持ち上げて遊んでいたとき、手がすべって落ち、体が不自由になったのです。
 とくに三番目の叔父さんは、ひどい状態でした。両足が、胸元にぴったりつくぐらい曲がっていました。右手も曲がっていました。しかし、叔父さんは、障害者だといって意気消沈することはありませんでした。いつも一生懸命に生きていました。
 彼は片方の手しか使えません。長期間の訓練の結果、唯一の自由な手で絵が描けるようになりました。お正月やクリスマスあたりになると、子どもの縄跳び、爆竹遊び、提灯遊びなど賀状で使う絵を描きました。
 また絵の下書きを描き、私たち子どもに同じように描かせて、その上に着色して、賀状を作らせました。何回も描いているうちに、私たちもそれらしいものが描けるようになりました。叔父は体が不自由なので、絵を描くのがたいへん困難でした。叔父は、私の絵は悪くない、と思っていたようです。私に絵を手伝うように言ってきました。
 私の家はとても貧しくて、私は生計を助けるために、似顔絵を描き始めました。当時、写真もありましたが、一枚、四、五十元かかり、一般家庭では高すぎました。
 私は家の前に肖像画を描くという看板を出しました。一枚、二、三十元もらえたので、たいへん助かりました。だんだん私の絵もよくなっていきました。三番目の叔父さんは、私の絵画の啓発の師といっても過言ではありません。
 池田 常書鴻先生の場合、どのような気風のご一家でしたか。お祖父さんは満族の軍人ともうかがっていますが、その気風は、ご一家に今も何か残っていますか。
  私の先祖は満族で、苗字は伊爾根覚羅と申します。清の時代に東北の黒龍江から杭州に来て防備にあたりました。以来、杭州に住みつくことになりました。西湖畔の「旗下営」というところで、そこには清の時代、満族の人々が集まって住んでおりました。幼いころ、よく祖母から祖先のことを聞きました。祖母は先祖が戦争で、いかに勇敢に戦ったかといったことなどを語ってくれました。
 毎年、祖先を祭る時期になると、母はいつも髪を高く結いました。高い下駄をはき、旗袍(民族衣装)をまといました。
 辛亥革命時代の「殺韃子」(満族人を殺す)の運動は、私たちにとってたいへんにつらい経験でした。さまざまな噂がとびかって、私は祖母と一緒に逃げて身を隠しました。しかし、町は平静で、家族も無事でした。それでも、こうした体験から、一九五〇年代まで満族であることを明らかにすることはできませんでした。
 私には権力に屈従しないという性格が備わっています。これは祖先から受け継いだ気質で、祖母と母が私の幼いころから、私に教育してくれたものだと信じています。
4  戦争の時流のなかで
  私ばかりでなく、池田先生の少年時代の生活環境についてもうかがえればと思います。(笑い)
 池田 私は一九二八年(昭和三年)の正月二日に、東京(大田区)の今は羽田空港のあるあたりに生まれました。家は海苔製造の仕事をしており、私は五男でした。
 家は庭が広々としていて、春夏秋冬の草や木、たとえば、桜、イチジク、菖蒲、ザクロ、スイカ、マクワウリなどがあったことを覚えております。また大きな池がありました。まあ、少年時代は何でも大きく見えるし、実際のところはわかりませんが(笑い)。池には蓮もあり、鴨の親子が泳いでいることもありました。魚釣りもできましたし、トンボとりもしました。家の前にはきれいな小川が流れていて、その水は飲むことができました。
 家の周囲はズーッと田んぼで、今の羽田空港を利用する人たちには想像もできない光景でした。美しい海岸が近くにあり、いい空気のなかで、自然とともに伸び伸びと過ごしました。一家が食べるぐらいのものは一応、採ることができて、半農半漁という家でした。いってみれば、東京のなかの田舎でしたね。
  なるほど。なるほど。
 池田 しかし、私が小学校二年のとき、働き手の父がリューマチで二年ほど動けなくなりました。生活は最も逆境の時代でした。夜明け前、冬の海で海苔を採る作業は本当に辛い仕事で、手伝った私も、その寒さ、辛さを味わいました。
 戦争が次第に拡大していったときで、長兄をはじめ四人の兄が相次いで兵隊にとられました。私は小学校六年生のときから高等小学校の二年間、合わせて三年間、新聞配達をして少しでも家計を助けるように努力しました。当時は、生きるのが精いっぱいの時代であることを子どもながらも覚悟していたように思います。
  少年時代に、ご両親から受けた教育はどのようなものでしたか。
 池田 子どもが多かったこともあり、また今、申し上げたように、父も病気で寝こみがちでしたし、これという教育を受けたことはありませんでした。ただ両親とも正直で誠実な人柄で、善良な市民といえたのではないでしょうか。たいした教育も受けられなかったけれども、自然のうちに、人間らしく育っていくことを身につけさせてくれたと思っております。
  ご両親はどういう方でしたか。いろいろと思い出があると思いますが。
 池田 私の父は生前、近所の人たちからも“強情さま”と呼ばれたほどで、頑固一徹の人でした。生活は窮しましたが、父は「他人に迷惑をかけてはいけない」と、口ぐせのように言っていたのを覚えています。
 以前、日本経済新聞社発刊の本(『私の履歴書』=本全集第22巻収録)にも書いたことがありますが、父は清潔好きで、なんでも、きちんとしてないとすまない性格でした。障子の桟を人さし指でサッとなでて、ほこりがついたりすると、掃除が行き届いてないと言って叱られました。(笑い)
 そのため、わが家のガラスは年中、ピカピカでした(笑い)。私も身のまわりが綺麗に、きちんとしていないと落ち着きませんが、これは父親ゆずりかもしれません。強情で、厳格な父でしたが、人が好くて、人の面倒を、精いっぱいみていた姿を思い出します。父は戦争が嫌いで、私の志願を絶対に許しませんでした。
 また私は庭先の大きな池に落ち、おぼれそうになったことがあります。そのとき、私は大声を出し、必死にもがきましたが、今にも力が尽きそうになりました。友だちの連絡を聞いて父が駆けつけてくれました。そのとき、引き揚げてくれた父の手のぬくもりは、今でも鮮明に覚えています。
 常書鴻先生も子どものころ、生まれ故郷の杭州で西湖に落ち、おぼれかかったことがあると聞きました(笑い)。そのときは、若者が湖水に飛び込んで助けてくれたようですね。
  ええ、そうです。池田先生はご兄弟が多かったそうですが、お母さんはどういう……。
 池田 そうですね。母は頑固な夫に仕えて愚痴ひとつこぼさず、いつも黙々と働いていました。少年時代の私は、その母の姿をとおして、働くことの尊さを自然のうちに学ぶことができたと思います。優しい母でしたが、父と同じように「人さまに迷惑をかけるな」「ウソをつくな」という二点は、やかましいぐらい教えられました。平凡ですが、人間として最も基本の教育であったと思います。
  兄上は戦争中に戦地で亡くなられたとうかがいました。また、少年時代は体が弱かったということですが、そうしたことは、どのような影響をあたえましたか。
 池田 四人の兄は皆、徴兵されました。一九四一年(昭和十六年)、長兄が一度日本に帰還したとき、私はまだ十三歳でしたが、長兄から戦場での悲惨な状況を聞いたのを、はっきり記憶しています。
 兄は私を諭すように「日本軍は、ひどすぎるよ。あれでは中国の人が、あまりにもかわいそうだ」と語っていました。このときの兄の言葉は、今も心に深く残っています。
 兄はふたたび召集されました。わが家は、働き盛りの兄たちが戦争に引き出されたために生活は困窮する一方でした。戦後、長兄を除く兄三人が一、二年のうちに復員しました。母は長兄の復員を信じ、帰ってくる日を心待ちにしていたのですが、ビルマで戦死していました。二十九歳でした。
 それが伝えられたのは終戦から二年も過ぎてからです。兄の遺骨が納められた白木の箱を、抱きかかえた母の姿を、私は正視できませんでした。最愛の子どもを失った母親の深い悲しみに、戦争の悲惨さ、残酷さを痛いほどに感じました。私の同級生の何人かは“少年志願兵”として戦場に行き、若い命を失った友もいます。私自身も大空襲で家を二度も焼かれ、焼け跡の瓦礫の中をさまよったことがあります。
 また、昔の尋常小学校に入学する前、私は肺炎を患いました。それ以来、病弱な体との戦いがずいぶん長くつづきました。その体験によって私は体の弱い人や病人に対して敏感な反応をするようになった気がします。これは健康な人には、なかなかわからないことかもしれません。小学生のころ、寝汗をびっしょりかいてうなされながら、子ども心にも“人間は死んだらどうなるんだろう”と考えた記憶があります。
 戦時中のことですが、私は青年学校での軍事教練の最中に、血啖を吐き、それからは咳と寝汗の連続でした。肺病が進行し、医師にも静養を勧告されるような状態でしたが、大空襲に遭い、ゆっくり静養することもできない。肋膜炎も患ったりして、医師は三十歳までもつかどうか、と言っていたようです。
 そうしたこともあって、私の脳裏からは、人間の生死という問題が去らず、哲学、思想の書もずいぶん読みました。私の関心は「生命」と「平和」という点に深まっていきました。
5  わが友 わが教師
 池田 日本の読者が期待していると思いますので、もう少し私のほうから質問させてください。まず先生は美術学校ではなく、工業学校の染織科で勉強されたそうですが、そのことが、敦煌の壁画と取り組むようになられたときに、役立ったことはございますか。
  私は豊富な色彩と、装飾的な花卉が好きです。これが後日の敦煌壁画模写にたいへんに役立ちました。私は少年期から絵を描くのが好きでした。美術学校に入りたかったのですが、父に「出世しないから、やめなさい」と言われました。そして国のために実業家になれ、と工学を勧められました。
 仕方がなく、私は浙江省立甲種工業学校(現・浙江大学)に入学しました。しかし、どうしても代数、幾何などが好きになれず、幸い染織科があったので、それを選びました。布地の上に赤とか緑とかの色を染めていくうちに、私は新天地を開拓するような気がしました。このことは私の油絵にも大きな影響をあたえました。
 池田 学校時代の恩師で印象に残っている方は、どんな先生でしたか。また学友についてどんな思い出がありますか。
  最も尊敬する先生は、浙江省立甲種工業学校時代のある先生です。その先生は私たちに、実業をもって祖国を救うことを訴えました。そのために先進的な技術を学んでいくことの大切さを話していました。それは私の救国の思想の起点になり、祖国のために、懸命に勉強しなければならないという考えの原動力になりました。
 友だちのなかでいちばん記憶に残っているのは、工業学校時代の同級生、沈西苓です。彼も美術が好きで私とともに染織科に入りました。彼と一緒によく西湖へ写生に行きました。私たちはもっと美術を勉強するために西湖画会に入会しました。そこでたがいに励まし合いながら勉強し、杭州の先輩の画家たちとも知り合うことができました。
 彼は工業学校を卒業後、日本へ留学しました。彼は私によく手紙をくれました。日本に留学したいなら応援する、と日本への留学を勧めてくれましたが、私はフランス留学を決意していましたので行きませんでした。
 彼は日本から帰国すると「祖国はすでに重病に侵されている。絵画では民衆を目覚めさすことはできない」と言って映画製作の道に入りました。
 池田 なるほど。
  また西湖画会には同じ年の画友の馬施得がいました。彼は師範学校の先生で非常に礼儀正しい真面目な人でした。軍閥のためにでっち上げられた罪で、家族全員が逮捕されましたが、彼だけは裏窓から逃げました。
 ある日、私が西湖へ写生に行く途中、軍隊に出会いました。彼らは捕らわれた青年を私たちの目の前で処刑しました。殺されたのが馬施得であることがわかったとき、私はショックを受けました。この軍閥が横行する腐敗社会に落胆し、一刻も早くパリに行きたいと思いました。
 池田先生の少年時代、学校の先生で尊敬する人はどのような方でしたか。
 池田 小学校では二人の女の先生と二人の男の先生に教えていただきました。皆、熱心に教えてくださり、忘れられない方々です。とりわけ、桧山先生は卒業のときの担任でもあり、印象深く残っております。桧山先生は、少年の活発な心とそれぞれの個性を、大切にされながら、人間として守るべきことを納得のいくように、自然のうちに教えてくださったと思います。
 桧山先生には年月が経つにつれて感謝の気持ちが増してくる一つの思い出があります。修学旅行の折、私が気前よくおごったりして、お小遣いを使い果たしてしまったのを、じっとご覧になっていたのでしょう。「池田君、お兄さんは兵隊に行っているんだろう。せめてお父さん、お母さんにお土産を買っていくんですよ」と諭されて、私をそっと物陰に呼ばれ、お小遣いをくださいました。
 また羽田の萩中国民学校のときに習った岡辺克海先生も印象深い先生でした。先生は生徒とよく相撲をとったり、なんの飾りもなく、全力で生徒に対してくれました。たいへんにわかりやすい授業をされました。先生は、子どもたちを大らかに振る舞わせながら、一人一人の個性と特質を、的確に引き出していくというタイプの先生であったように思います。
 私にとってたいへんに幸せだったのは、こうした、生徒の特質を生かし、大きく育んでいこうとする情熱をもった先生方に出会えたことでした。
  青少年時代に読まれた本で、とくに印象深い本にはどのようなものがありますか。
 池田 まず、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』があります。初めて読んだのは、十四、五歳のころだったと思いますが、ジャン・ヴァルジャンの数奇な人生行路と、人間の魂の内部に迫っていくユゴーの洞察力の深さに引きつけられて何回も読み返しました。
 「人の心眼は人間のうちにおいて最も多く光輝と闇黒とを見出す。またこれ以上恐るべき、複雑な、神秘な、無限なものは、何も見ることが出来ない。海洋よりも壮大なる光景、それは天空である。天空よりも壮大なる光景、それは実に人の魂の内奥である」(『世界名作全集14レ・ミゼラブルⅠ』豊島與志雄訳、筑摩書房)というたいへん有名な一節がありますが、人間の内面を見つめ、そこに善の光源を探求していくユゴーの姿勢に共感しました。
 ホイットマンの『草の葉』も、たいへんに印象深いものでした。この詩集を初めて手にしたのは、二十三歳ごろと記憶しておりますが、当時、感動して読み、好きな詩をいくつも暗誦して、夜道をわが家に向かう折などに、小さな声で口ずさみながら帰ったこともありました。
 貴国の本では『三国志』『水滸伝』『十八史略』などを夢中になって読みました。恩師の戸田先生は、私たち青年の訓練育成のために、小説や歴史書をとおして、さまざまなことを教えてくださいましたが、その教材として選ばれた本のなかにも『三国志』がはいっていました。その他の教材としてはアレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』、ホール・ケインの『永遠の都』、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』などがありました。これらの本には、それぞれに師との語らいの思い出があります。
 ともかく若いときの良き書物との出合いは、何物にもかえがたい人生の宝となっていくと思います。
6  人生を決定した出合い
 池田 パリにはいつ、何歳の時に行かれましたか。
  一九二七年(昭和二年)に行きました。二十三歳のときでした。行くさいに、ある人に旅費のほとんどをだまし取られてしまいました。私が幼稚だったために、同郷の人が「自分はパリの中国大使とは親交がある。一切の面倒をみてあげる」と言うので、彼の話を信じて、彼の言うままに旅費の二千元を彼に預けました。ところが彼は、そのほとんどの金を女性のために使いこんで、私には上海からマルセイユ行きの船のいちばん最低の切符を買ってくれただけでした。その席はわずか百元で、船の最低部にありました。空気が悪く、熱くて、おまけに毎日、皿洗いやポテトの皮むきなどの仕事もさせられました。
 一カ月余りでマルセイユに着きましたが、ポケットには食事一回分の金しか残っていませんでした。「大使のところへ行けば大丈夫だ。仕事も金もある」と聞かされていましたが、やっとの思いで大使館に辿り着いたら、その大使はとっくに交代されたと言われ、途方にくれてしまいました。別の同郷の人を訪ねて、パリの中華料理店の雑役の仕事を紹介してもらい、なんとか一日三食できるようになりました。
 その後、試験に合格し、公費生としてリヨンの中仏大学で勉強するようになりました。そこで毎日フランス語を学びながら、リヨン国立美術専門学校でも絵画を勉強することができるようになりました。
 池田 フランス語を一心に勉強されて、一冊のフランス語辞典を暗記したほどだそうですが。
  私は小さな仏語辞典をもっていましたが、つねにポケットに携帯していたのは、辞書ではなく、フランス語の単語を書き写していたチョコレートの包み紙でした。
 私は、おばからチョコレートの包み紙をもらい、それに単語を書き写し、一つ一つ暗誦していきました。そのために、ポケットの中はつねにチョコレートの包み紙でいっぱいでした。
 一枚の単語を暗唱完了すると、紙を捨ててしまう。そのようにして、二年間で一冊の仏語辞典を全部暗記してしまったわけです。
 池田 そういう思い出は、一生涯忘れないでしょうね。若いときは何でもできるし、いくらでも自分を磨ける。
 パリ、リヨンでは主にどのようなことを学ばれましたか。
  パリでは、主に美術史と油絵技術を習いました。リヨンは織物の非常に発達している都市であり、機械織り模様の芸術性がとても高いところです。また、機械織り模様は、美術図案と緊密な関連性をもっています。それで私は、リヨンで美術以外に、毎週日曜日はジャカードマシン(フランスの発明家、ジョセフ・マリー・ジャカールが発明した紋織機械)の技術を学びました。その機械はフランスで普及していました。かつて中国の甲種工業学校で勉強したことが、ジャカードマシンを活用するのに役立ちました。
 池田 当時、セーヌ河畔の露店の本屋で、ポール・ペリオの『敦煌石窟』という図録を見つけ、そのときの敦煌との出合いが常先生の人生を決定したとうかがっていますが。
  一九三六年(昭和十一年)の六月、ペリオの『敦煌石窟』という図録を偶然に発見したときが、私の人生で最大の転機を迎えたときであるといっても過言ではありません。この本が私を最大に啓発し、その後、私の歩む道を決定してくれました。
 当時、私はフランスで西洋画の勉強に没頭していました。十年の間に私はフランスのパリ、リヨン美術家協会から三回の金賞と二回の銀賞を獲得しました。また、フランス・リヨンサロン(美術家協会)の委員、フランス肖像画協会の会員にもなり、モンパルナスの画家であることを自負しておりました。
 私はペリオの『敦煌石窟』の図録を見た瞬間、自分の目を疑いました。祖国にこんなにすばらしい古代遺産が残されている事実をうれしく思いながら、信じられなかったほどでした。よく見ると、ペリオは序のなかに、これらの写真は、一九〇八年、敦煌の石窟で撮影したものであることを明記しておりました。私は祖国の仏教美術のすばらしさに驚きました。それまで崇拝していた西洋ルネサンス時代の芸術を、目の前にある敦煌石窟の芸術と比較してみましたが、時代の古さから見ても、芸術表現の技巧から見ても、敦煌芸術のほうが、はるかに優れているということが一目瞭然でした。
 「これは奇跡だ」――私は、すぐ敦煌芸術のとりこになり、祖国へ帰って敦煌へ行こうと決意しました。必ず自分の目で、これらの宝物を確かめたい。そして、中国人であるならば、これらの宝物を保護する責任があるはずだと心の中に決めました。
 池田 それほどまでに心をとらえられたというのはどういう……。
  ペリオの『敦煌石窟』の図録のなかでは、ジャカードマシンで織り出した模様と似ている壁画の図案部分と、北魏や唐代敦煌芸術を代表する壁画にいちばん心を魅かれました。店主に『敦煌石窟』の値段を聞くと、とても私の経済力では買うことができないものでした。
 店の主人は、近くのギメ美術館に敦煌から出土した絹絵がたくさんあると私に教えてくれました。私はただちに見に行きました。そこで初めて唐代の絵画と対面しました。それらは、とても見事で、きれいに描かれていて、私は大感激でした。
 池田 よくわかりました。その後、帰国された先生は、初めて敦煌へ行くさいには、油絵の個展を開き、絵を売られて旅費に充てられたそうですね。
  フランスでペリオの『敦煌石窟』の図録を見てから、心の中に祖国に帰って敦煌へ行くことを固く誓いました。当時、繁華なパリのなかで、私はすでにある程度の地位を獲得していました。リヨンサロンの委員であり、フランス肖像画協会会員でもある私は、安定した生活を送っていました。このような立場をすべて手放して、祖国に帰るということ自体がむずかしい判断であるのに、ましてや流人しか行かないような、人家のない砂漠のなかにあるところへ行くという決断は、並大抵のものではありませんでした。
 真っ先に直面した諸問題のなかの一つは、旅費の問題でした。敦煌へ行く旅費を準備するために、私は重慶で個展を開きました。そこでフランスと中国で描いた四十枚の絵を売って旅費にあてました。当時、政府の教育部も、私の敦煌行きを支持しませんでした。しかし、私は背水の陣の決意で、あとは何もいらないが、旅費さえできたら、さっそく敦煌へ出かけるつもりでした。
 私にとってはペリオの『敦煌石窟』との出合いが、その後の私の人生を決定するほどの影響をもたらしましたが、池田先生の場合には、どのような体験があったでしょうか。
 池田 私の人生に最大の影響を及ぼしたのは、戸田城聖先生(創価学会第二代会長)との出会いでした。
  先生はいつ、どのような機縁で戸田先生に会われたのですか。
 池田 日本の敗戦後のことでした。一九四七年(昭和二十二年)の夏、二回目の終戦記念日を迎えようとしているころ、私が十九歳のときでした。私の友人が訪ねてきて「生命哲学について」の会があるから、一緒に来ないかというのです。ベルクソンの「生の哲学」のことかと思いましたが「そうではない」ということでした。
 ともかく興味がありましたので、友人と一緒に出かけました。その会合はじつは創価学会の座談会で、そこで講義をされていたのが戸田先生でした。
  そのときの第一印象はどのようなものでしたか。また、なぜ戸田先生を自分の人生の師と決められたのでしょうか。
 池田 戸田先生は当時、四十七歳でしたが、第一印象を一言で言うと、傑出した方だということでした。とにかく、それまでに会ったことのないタイプの方で、度の強い眼鏡の奥の眼差しは独特の優しさをたたえておられました。その屈託のない人柄、話し方に、初対面のときから、不思議に限りない親しみをおぼえました。
 日本は敗戦二年目で、人々はなんとか生きていくのがやっとで、人の心もすさんでいたときでしたが、電灯も薄暗いなかで、その会場には明るさと活気がありました。
 私は戸田先生の自然な振る舞いと話に、初対面にもかかわらず、ぜひとも教えていただきたいと言って単刀直入に質問いたしました。
  「正しい人生とは?」
  「真の愛国者とは?」
  「天皇をどう考えられるのか?」
 それに対する戸田先生の回答は、簡明直截で誠実な心情にあふれておりました。私は「この人の言っていることは本当だ。この人なら信じられる」と直感的に思いました。言葉では尽くしがたいそのときの思いを「私は、なにかしらうれしかった」(『私の履歴書』日本経済新聞社)と、のちに回想し記したことがあります。その折の感慨はこの年になっても鮮烈です。
 そのうえで、さらに聞くところによると、戸田先生は戦時中、創価教育学会の会長であった牧口常三郎先生とともに、入獄し、牧口先生は獄死、戸田先生は二年間獄中にあったということでした。仏法者の立場から、かの軍国主義が国家神道をふりかざしたことに、真っ向から反対したために、二人は傲慢な権力の弾圧を受けました。しかし、決して節を曲げなかったために、治安維持法違反、ならびに不敬罪で検挙され投獄された、と。
 このことは、私にとって決定的でした。というのも、悪しき権力に対しては、それと闘うか否か――端的にいえば、当時の私には、戦争に反対して獄に入ったかどうかが、当時の指導者を判断する決定的な尺度ともなっていたからです。
 一国の敗戦という破局のなかで、人々は二度と悲惨な戦争を起こしてはならないと、真剣に考え始めていました。
 まさに、そのときに、私は、会いがたい、人生の師となる人に、会うべくして出会ったという思いがありました。ただし、このときには、戸田先生との出会いが、私の運命を変えることになろうとは、まだ知るべくもありませんでした。しかし心の暗雲が払われ、この人について、もっと深いものを求めていきたいという強い思いがありました。
 しばらくして私は、戸田先生の会社に入り、先生のもとで朝も夜もなく働く日々を過ごすことになりました。
 じつは戸田先生は「日本と中国との友好が最も大事である」とよく私に語っておりました。それはもう三十年以上も前のことですが、そうしたこともあり、私は先生の弟子として、いつの日か日中友好のために働きたいと考えておりました。
  先生は若くして創価学会の会長に就任されましたが、就任したときの感想、当時の抱負はどんなものでしたか。
 池田 私が会長に就任したのは三十二歳のときでした。恩師であった戸田前会長の逝去から二年後のことで、理事会での決定です。それまでにも幾度か要請がありましたが、私は当時、健康に不安もあり、また若すぎるとの思いがあって、そのつど固辞してきました。しかし、恩師から生前「自分の仕事は全部終わった。後は頼むぞ」と念を押されていましたので、いつかは引き受けざるをえないと覚悟しておりました。
 就任後、日本のある指導者にあいさつした折、「あなたのことは戸田前会長からうかがっておりました」と言われ、恩師の打ってくださった布石にあらためて感謝の思いを深くしたものです。私の願いは「私はどうなってもいい。ただ生涯、全会員の“屋根”となって守りぬいていきたい」ということでした。
 途上に多くの障害があり、嵐があることも覚悟していましたし、会長職が大任であることも十分承知しておりました。しかし、就任した以上は、ひたすら前へ進む以外にはありません。とくに私としては最初の二年間が勝負だと思っていました。
 お国の言葉に「日々に孜々せんことを思う」(自分は毎日毎日ただ一生懸命にやろうと考えている)とありますが、これは当時の私の心境といえるかもしれません。
 また私は身近な一つ一つを疎かにしないことをみずからに言い聞かせてきたつもりです。会長に就任して一年間は、毎朝、信濃町(新宿区)の本部に行くときも、大田区の自宅から自転車で駅に行き、電車を使いました。「創価学会の会長が……」という人もいましたが、私としては、若い人たちに、また将来のために、贅沢はしないという範を示さねばならないと思ったからです。
  池田先生は中国でもたいへんに有名ですが、現在の活動の淵源は戸田先生にあったわけですね。
 池田 私は平凡な人間ですが、恩師の構想は、すべて実現する決意で、今日まで走ってきました。そして今、何も悔いはありません。むしろ最極の生き方を教えていただいたことに感謝してやみません。
 学会は、その後十年間で、七十五万世帯から十倍になりました。宗門を外護し、先生もご存じのように政党も、大学、研究所、学園も、美術館も、そして日本で最大の音楽文化団体も創立しました。また、世界へ仏法を基調とした平和、文化、教育の運動を展開しております。それは恩師の構想に基づくものでした。
 私が忘れられないのは、亡くなる直前のある日、恩師が私に「学会は少数精鋭でいいから、本当にいい人だけでやっていきなさい」と遺言のように言われたことです。私の性格を知りぬかれていた恩師ですから、私に負担をかけまい、という配慮もあったと思います。本当にありがたい先生でした。
  今日まで最も困難を感じられたことは何ですか。
 池田 いや、それは、人生の先輩である先生におうかがいしようと思ったことです(笑い)。ただ私は若いときから体が弱かったものですから、健康にはずいぶん気をつかいました。この年齢で元気に働けることは、若いときは想像もできませんでした。
 先ほど先生が「人生は戦いの連続である。一つの困難を克服すると、また次の困難が出てくる。人生はその繰り返しだ」と述べられましたが、私もまったく同じ気持ちでおります。だから若くなれるのかもしれませんが。(笑い)
 私は信仰者ですから、良いときも、悪いときも、一喜一憂しませんし、淡々と、また堂々と、信念の道を歩みぬければよいと思ってきました。さまざまなことがあり、ありとあらゆる人間模様も見てきましたが、全部私を強くしてくれました。ありがたいことと思っております。
 とともに、一緒に幾多の苦難を乗り越えてくれた多くの友人を生涯、否、永遠に私は守っていく決心の昨今です。
 それはともかく、常先生こそ今日までの人生には、言葉に表現できないような辛いことがあったのではないか、と想像いたします。
  いろいろありましたが、強いて最も辛かったことを挙げるとすれば、私が敦煌莫高窟の千仏洞に初めて着いたとき、敦煌の洞窟が崩れ落ちて砂漠に埋まり、壁画も落ちてしまっているのを目のあたりにしたことです。
 池田 そのときのご心境は、察するにあまりあります。しかし、先生の場合、その“哀惜の念”を敦煌の保護の必要性を各所に訴える、という行動の発条に転じましたね。
  そのときの私には、ただただ莫高窟をいかにして保護するかが最重要課題でした。私は何度も何度も、上級の指導者や社会に対して呼びかけ、政府や民間の人々が敦煌の保護と研究の仕事を重視するようお願いしました。
 また、ソ連の地質専門家が、ちょうど玉門で石油採取の実地調査を行っていたときには、彼らに来てもらい、敦煌の保護の仕方について、彼らのアドバイスを求めました。私は、さらに何度も何度も、敦煌の危険な状態と、洞窟の割れ目や壁画の崩れ落ちている状態を説明したり、リポートを書き、各方面に保護を呼びかけました。そして、ついに周恩来総理の許可を得て、莫高窟の固定工事を行うことができました。文化大革命の始まる前には、ほぼこの工事を完成させることができたのです。
 池田 最も苦しかった時期といえば、どの時期にあたるのでしょうか。
  前にも触れたと思いますが、前の妻の家出が、私に大きな打撃をあたえました。当時は、敦煌の仕事を始めたばかりで、私は仕事のために毎日、朝から晩まで忙しくて、前妻の変化にぜんぜん気がつきませんでした。私は本当に内外ともに打撃を受けていました。当時の国民党政府の教育部が経費を支払わず、しかも敦煌芸術研究所の解散を命じていました。
 私は異国から千万の苦難を乗り越えて、やっと敦煌石窟に辿り着いたのです。そして、この自然と人為的な迫害を受けながら、今日まで存命してきた石窟を見て、それ以上の被害を断じて受けさせないようにと決意したのです。
 ところが、国民党政府から敦煌芸術研究所を解散すると言われ、とても悲しくて、あらゆるところに救援を求めました。私が苦しんでいるときに、前妻が家出をし、十三歳の娘と三歳の幼い息子が残されました。私たちは砂漠のなかに三人で助け合いながら生活していくことになりました。私は宿命を信じませんが、でもそのときばかりは「なぜ私にこんな不運な運命が……」と心を痛めました。
 悲しみのなかで、とくに真夜中、周囲が静まっているとき、九層楼の風鐸の鈴の音を耳にし、深い藍色の夜空の一面の星々と、深く眠っている敦煌石窟を見ていると、壁画の飛天たちが、光を発しながら、私に声をかけているような錯覚をたびたびしておりました。彼女たちは私に「あなたの夫人はあなたを見放したが、あなたは決して私たち、敦煌を見放してはいけない」と訴えていました。
 当時、最も強く自分を責め、そして励ましていたのは自分の良心でした。「書鴻よ、あなたはなぜ帰国したのか。なぜこの辺鄙な砂漠に来ているのか。しっかりしなさい。同じ志をもてなければ、夫婦でなくてもいいじゃないか。ここで転んでも、また立ち上がって、大地をしっかりと踏んで、また前進しようではないか。たとえ前にどんな困難があろうとも」と。
 また私は、先ほども池田先生から紹介のあったように、張大千先生が敦煌を離れる折に言われた言葉を思い出しました。「私は帰る。君はここで無期懲役を受けるのだ」と。そして私は「そうだ、最後まで頑張りつづけるのだ」と決意しました。
 池田 日本の多くの読者も感銘することでしょう。偉大な人は、逆境にこそ真価を発揮する。光っている。これは私が世界の一流といわれる人々とお会いした結論です。
 そして、その後、李承仙先生と出会われたのですね。
  そのとおりです。一九四五年(昭和二十年)、国民党政府の教育部が、国立敦煌芸術研究所の解散を命じました。私は重慶にある教育部、文化部に行って、敦煌芸術研究所の存続を訴えました。一年間ぐらいの抗議と懇請で、最後に中央研究院が国立敦煌研究所の面倒をみることになり、それから研究所は中央研究院の所属となりました。
 一件落着で、私はふたたび四川で新しい研究員を募集しました。中央研究院からは大きなトラック一台と各種の器材が配給されました。ちょうど、人員を募集していたころ、国立芸術専科学校の卒業生が私の鳳凰山にある駐在地を訪ねてきて、自分の描いた油絵の人物、静物、草花を見せ、敦煌へ行きたいと言ってきました。
 私は彼女にノートの上に名前を書かせたところ、彼女は「李承仙」と三文字を書きました。「油絵専科なのに、なぜ敦煌へ行きたいのか」と尋ねたら、彼女は「父は李宏恵(辛亥革命のとき、孫文が創立した『同盟会』の幹部で、反清革命家)と言います。現在は李容恢という名前です。二番目のおじは李瑞清で、張大千の先生をしたことがあります。父からは、中国画家であれば、まず敦煌へ行き、中国民族の遺産について勉強し、敦煌を研究し、そして自分の独特の風格を創作すべきだと言われて、心を決めました」と説明してくれました。
 私は彼女に「敦煌の地はとても離れたところにあり、古代では兵隊か、流罪人しか行かないところで、生活はとても苦しい。あなたは耐えられますか」と聞きました。彼女は「芸術のために身を捧げる覚悟です。苦しいから行かないというのは道理に合いません」と答えました。
 池田 なるほど。なるほど。
  しかし、その年は、彼女は父親の病気で、残念ながら、行くことはできませんでした。翌年、彼女は四川省立芸術専科学校の担任助師になり、一年後に、また敦煌へ行きたいと言いだしました。当時、私の親友の沈福文と、学生の畢晋吉が、彼女に私の経歴を紹介しました。その後、沈君と畢君両名が、彼女のことをずっと観察し、彼女の敦煌への志に打たれ、私と同様に「敦煌馬鹿」になれるのではないかと考え、私との結婚話を進めてくれました。一九四七年(昭和二十二年)九月、李承仙は成都より蘭州へ赴き、私は敦煌から蘭州へ行き、そこで結婚して一緒に敦煌へ帰り、ずっと今日までともに敦煌芸術の研究をしてきました。
 池田 息子さんとお嬢さんたちの教育については、どのような信条であたられましたか。
  子どもたちには幼いときから「誠実で正直な人間になれ」と教えました。そして、よく勉強し、向上心をもつことを望みました。ただし、この向上心は、自分自身の名聞名利のためでなく、良心に忠実に、知識人として中国に貢献できるためのものです。
 子どもたちに絵を教えるときは厳しくしました。芸術の基本をしっかり身につけてもらいたかったので、あえて厳しくしたのです。また子どもたちには「人生は決して順風満帆ではない。人の前途は戦いのなかで開いていくものである。困難を克服し、勇敢に前進しなければならない。途中で挫折してはならない。自分のめざしている目標を達成し、事業を成功させるためには、努力と苦しい代価を支払わなければならない」ということも教えてきました。
 池田 それでは次に最も楽しかったこと、うれしかったことについてはどうでしょうか。
  最も楽しかった思い出は、一九五一年(昭和二十六年)四月のある日曜日の午後、北京の午門楼で開かれた敦煌文物展覧会に周恩来総理が参観に来てくださったときのことです。私は、総理に敦煌芸術や展覧会の展示物などについて、種々ご報告いたしました。周恩来総理は参観された二時間余りの間、親切にまた諄々とご指導し、激励してくださいました。
 もう一つうれしかったのは、敦煌の石窟が固定工事を経て、コンクリートの非常に安定した廊下が増築されて、電灯もつけられたことです。これによって、私たちは安心して、行き来することができるようになりました。敦煌は、この工事によって、文化大革命期間中でも、比較的良好に保護されたのでした。さもなければ、どういう結果になっていたかは、想像することもできません。
 池田 電灯が莫高窟についたのは敦煌に行かれて十一年後だったということですね。
  一九五四年十月二十五日、莫高窟に初めて自家発電による電気が輝いたとき、私は洞窟の中で模写をしている同志たちの様子を見に行きました。洞窟内で李承仙に会って、彼女の感想を聞きました。「電気はついていますけど、目の前はかすんで見えません」と彼女は言いました。よく見ると、彼女の目には涙がいっぱいたまっているのです。これは長年、暗い洞窟で仕事をしてきた工作員の感激の涙でした。
 私は、わざわざ第一七窟の蔵経洞を見に行きました。からっぽの洞窟の中で、壁画に描かれている供養侍女が、私に向かって、ほほえみを見せながら歩いてくるような錯覚を起こしました。私も心の中で彼女に話しかけました。「歴史の証人のあなたよ、見てください! 私たちにもついに電気がついたのですよ!」と。

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