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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 シルクロードの宝石  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

前後
5  仏典と貴重な文書
 池田 敦煌が世界の耳目を集めたのは、先ほど述べられたように、二十世紀初頭に大量の経巻や書画、文書が莫高窟の第一七窟「蔵経洞」から発見されたことでした。
 そこには四、五万点に及ぶ貴重な遺産があったといわれています。なぜそこに、そのような膨大な文書が残されたのかということが、井上靖氏の小説『敦煌』のテーマにもなりました。
 これらの多くは、イギリスの中央アジア探検家スタインや、フランスの東洋学者ペリオらによって、国外に持ち去られました。わずかに残った八千巻ほどの経巻や文書が、北京にその後に運ばれました。
 こうした貴重な文献が海外に流出したことはまことに残念なことです。
  私は以前から、各国に散在している文物、古文書を敦煌に返し、各国および中国の学者の共同研究のために使うことを主張してきました。過去に、愛国心の欠けている者、腐敗した官僚によって、蔵経洞で発見されたものは、ほとんど海外各地に流出してしまいました。
 それらは、非常に幅広いものがあると思います。たとえば絵画、古文書、歴史、地理、宗教、古代科学技術、庶民生活、服飾、軍事、小説、通俗文学……等々にわたっています。広く研究するためには、資料が集中すれば、学者に良い研究条件を提供できます。芸術面だけを見ても、敦煌は、中国一国のものだけではなく、世界の芸術宝庫であると思います。
 池田 “人類の至宝を故郷に返そう”――私もまったく同感です。機会あるたびに主張してもきました。
 次に角度を少し変えて、二十世紀初めの第一七窟・蔵経洞の発見から、敦煌への世界的関心が集まりましたが、初めて第一七窟の内部に入られたとき、先生はどのような感想をもたれましたか。
  この話は一九三六年(昭和十一年)に私がフランスのパリでペリオの編集した『敦煌石窟』を見たときから始めなければなりません。
 ペリオの『敦煌石窟』で見ると、蔵経洞はシルク(絹)の画や写経などがいっぱい入っている洞窟ですが、私が蔵経洞に入ったときは、ただの空っぽの洞窟でした。人が引っ越したあとの空っぽの家みたいに、とても寂しい気がしました。壁画に描かれている供養侍女と供養比丘尼は、黙って菩提樹の下に立っています。供養侍女の顔には、善良なほほえみがたたえられていて、あたかも私に声をかけてくるようでした。
 「やっとお会いしましたね。私の子どもよ。ご覧なさい。私はこの洞の宝物を守ることができませんでした。だから、私は今、黙々とここに立っていて歴史の証人になっています」
 そのとき、私も心の中に誓いました。「私も永遠に莫高窟の地に立ち、彼女をすべての災難から守ります」と。
 池田 なるほど。この蔵経洞は、西暦八四八年に漢民族が敦煌をふたたび支配するさい、功労のあった洪べんに関連したものであるといわれています。それはどのような理由から判断されたものでしょうか。
  蔵経洞が発見された当時、その中には晩唐の大中五年(八五一年)の「大番釈門教授和尚洪べん修功徳碑」がありました。王道士はその碑を蔵経洞から取り出して、第一六窟甬道の南壁にはめていました。このことから第一七窟の蔵経洞は洪べん和尚の「御影堂」だということがわかりました。
 ただ、洞窟の中には仏壇や神棚のようなものがありましたが、祭られる洪べん和尚の像はありませんでした。後日、洞窟を調査しているさい、右側上方にある第三六二番の小さな洞窟の中に、晩唐時代の塑像の和尚像が置かれているのがわかりました。この像の芸術的風格と寸法は、ちょうど私が思っていた蔵経洞内の欠けていた洪べん和尚像と一致していました。さらに詳細に研究した結果、最終的にはこの像が蔵経洞の中の洪べん和尚像であることが確定しました。
 そのため、一九六五年(昭和四十年)の洞窟の強化作業のさい、その像を第三六二窟から第一七窟に戻しました。と同時に「大番釈門教授和尚洪べん修功徳碑」も蔵経洞内に戻しました。私は石碑の裏側に題字をして、その石碑の歴史や発見の経過などを書きました。
 池田 なるほど。たいへん明快なご説明です。ところで前にも話が出ましたが、敦煌文物のなかで、仏教経典については、一九〇〇年(明治三十三年)に蔵経洞(第一七窟)から大量に発見されています。その後、常先生が敦煌に行かれてから、蔵経洞以外で経文を発見されていますね。それらは、どのような状況で発見されたのでしょうか。貴重な歴史の証言として、そのときの様子を詳しく、背景等も含めてお話しいただきたいのですが。
  国立敦煌芸術研究所は、敦煌県城(県庁所在地)から二十五キロも離れている莫高窟に設置されています。そこは四方は人家のない砂漠です。県城から莫高窟へは、長年、人間が通っているうちにできた小道しかありませんでした。
 主な交通手段は牛車、馬、驢馬でした。一九四三年(昭和十八年)、研究所を設立した当時、二頭の驢馬と一頭の牛を車を牽くためと田畑を耕すために購入しました。馬が欲しかったのですが、研究所の経費が少ないため買えませんでした。ある日、敦煌県の県長である陳西谷先生からこういう話を聞きました。県の裁判所が南山で捕らえた土匪からナツメ色の馬を没収した。この馬を研究所が欲しければあげてもよいということでした。敦煌には二種類の馬がいます。一つは馬車用、もう一つは訓練されている馬です。
 このナツメ色の馬は乗るためのとても良い馬でした。それをもらい受けた私たちは四頭の家畜を飼うことになりました。家畜を飼い、その飼料を貯蔵する場所として、私たちは中寺(皇慶寺ともいう)の後庭にある廟を選びました。その廟の中に清朝末期に作られた三つの塑像がありました。それらはあまり良い作品でもないし、私たちはそれを移動することにしました。
 敦煌の塑像の一般的な作り方は、まず中心に一本の木を置きます。木の上端に別な木を縛り、十字に作ります。その周りを草と葦でくるっと包み、その上に麦わらと泥で大まかな形を作り、綿と泥で細部と表面を完成し、最後に着色します。
 一九四四年八月三十日に、廟の三つの塑像を移動するさい、その塑像の作り方が一般的なものと違うことに気がつきました。この移動作業を担当した老工作員の竇占彪がこのように私に報告しました。
 「廟の三つの塑像を移動しようとしましたが、これらの塑像の中心の木の棒が、土台の深くまで埋められており、そのままでは移動できません。仕方がなく、塑像を壊すしかないと判断し、壊してみたら中心の木の棒は、桃の木であることがわかりました。敦煌の昔の住民には、迷信を信ずる人も多く、彼らは桃の木には鬼を退治する力があると信じていたのです。それで桃の木を選んだのですが、それを包んでいるのは草でも葦でもなく、写経の残片です。それでただちに常書鴻所長に報告に来ました」
 池田 思いもよらぬところから新しい発見をされたわけですね。
  私は非常に特殊なケースであると思い、すぐに調べに行きました。桃の木の棒を包んでいるのは、麻紙に書かれた写経であり、紙質と字体から見ると、北朝期のものであることが判明しました。これは重大な発見だと思い、すぐこれらの写経をきちんと保管するように封をしました。そして研究所の全員(董希文、李浴、蘇瑩輝、陳延儒、張琳瑛、邵芳、陳芝秀、辛普徳、劉栄曽等)と、当時、ちょうど敦煌の仏爺廟の調査、発掘のために来られた中央研究院の考古学者・夏鼐(かだい)、向達等とともに鑑定作業に入りました。合計すると、経文等六十六種、残片三十二点。これは一九〇〇年(明治三十三年)の蔵経洞の発見以来の重大な発見でした。
 この発見は、もう一つの重要な意義をもっています。私は、当時、莫高窟に住んでいた寺の老住職に聞きましたが、彼は、この廟の塑像は、一九〇〇年の蔵経洞の発見以前にすでにできていたと言いました。つまり、これらの写経は、蔵経洞のものではないということでした。これらは六朝の紙質と字体で、この発見は、第一七窟の蔵経洞以外にも、写経が発見される可能性があることを証明しました。この観点を私は四十余年来ずっと信じつづけています。
 また長い歴史を有している故城址には、必ず多くの文物が残されていると確信しています。歳月の経過とともに、自然の作用と人的な変化によって、多くの遺跡があるいは崩され、あるいは流砂に埋没されてきました。
 その一つの具体例は、一九六三年(昭和三十八年)に莫高窟の全面強化工事を進めていたさい、洞窟の前を掘っていましたら、地下四、五メートルのところに、新たに石窟と窟前寺の遺跡を発見しました。このことは現代の莫高窟の地面は、唐、宋代よりも四メートル以上も高くなったことを証明してくれました。この発見は、私たち莫高窟の遺跡を調査する人間にとって、たいへん重要なものでした。
 また一九五八年には、私たちは南の洞窟の端から五十メートル離れた場所で、地下五メートルのところに寺の遺跡を発見しました。これは火事で焼かれたものでした。こうしたことからも、これからもっとすばらしい遺跡文物が莫高窟周辺から発見されると信じています。
 池田 莫高窟とともに敦煌の故城址の発掘が進むと、唐代に十七大寺があったという敦煌の様子がより明らかになってきますね。
  たしかに敦煌の故城址は悠久の歴史があります。しかし明代に敦煌故城は遺棄されてしまいました。その後、破壊されたり、流砂に埋没していきました。敦煌の故城址は、現在の敦煌県城の西側にあります。沙州故城と呼ばれていますが、その本格的な発掘はたいへんに意義のある仕事だと思います。

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