Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第一章 シルクロードの宝石  

「敦煌の光彩」常書鴻(池田大作全集第17巻)

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2  敦煌の興亡
 池田 敦煌は、北京から直線距離にして約二千キロ、北にはゴビ砂漠、西にはタクラマカン砂漠が広がり、南はチベット高原へとつづく、ちょうど中央アジアへの門戸に位置しています。統計によれば、これまでの最高気温が四四・一度、最低が零下二二・六度で、とくに春先には“黒風”と呼ばれる砂嵐が吹き荒れる。この敦煌にも、すでに紀元前十一世紀ごろから少数民族が住んでいたといわれています。また、『史記』大宛列伝には「はじめ、月氏は敦煌(甘粛省)と祁連山(甘粛省)の間に居住していました」(『史記』〔下〕野口定男訳、平凡社)とあるように、月氏の活躍の舞台とともに、はっきり「敦煌」という名が歴史上に登場します。
 漢の武帝の時代に敦煌郡が正式に置かれた、と史書に記録されています。漢の西方発展の根拠地として置かれたわけですが、人口は、当時すでに三万八千三百三十五人であったとも記されています。それ以来、敦煌は東と西を結ぶ交易宿場都市、東西両文明が流入する文化の地として、じつに二千年の歴史を有することになりました。
  ええ、唐時代(六一八年―九〇七年)、とくに晩唐時期に繁栄していました。
 池田 『大唐西域記』を著した玄奘はインド、西域を旅しましたが、敦煌についての記録は見あたらないようです。その当時の敦煌は、文献にはどのように記載されていますか。
  玄奘はインドからの帰途、敦煌に立ち寄りました。しかし、非常に急いでいたので長くは滞在しませんでした。そのため彼の西域紀行には、敦煌のことは記載されませんでした。しかし、歴史の記録によると、当時の敦煌はたいへんに繁栄しておりました。商人は皆ここに集まって、朝市、昼市、夜市と、一日に三回、市が開かれ、とても盛況だったようです。その後、五代(九〇七年―九六〇年)、宋(九六〇年―一二七九年)を経て、元(一二七一年―一三六八年)になると、だんだん衰えてきて、明(一三六八年―一六四四年)にいたって、嘉峪関の閉鎖とともにさびれてしまいました。したがって敦煌の壁画には明代のものは残っていません。
 池田 マルコ・ポーロの『東方見聞録』にも敦煌のことが出ていますね。彼は十三世紀の後半に、アジアに大旅行を行って、『東方見聞録』を残しましたが、同書によりますと、そのころの敦煌は元の時代にあたり、「大ハーンの領土」であると記されています。さらに当時の住民の大部分が仏教徒であり、若干のネストリウス派(キリスト教の一派)とイスラム教徒もいたことが、その記述からうかがえます。
 しかし、マルコ・ポーロの眼に映ったこのころの敦煌は、やはり次第に衰えてしまっていたためでしょうか、あまり強烈な印象をあたえていないように見受けられます。
  清の雍正年代(一七二三年―三五年)になってから営みが復活しましたが、漢代、唐代の盛況はもうふたたび見ることができませんでした。現在の敦煌県は清代の雍正三年(一七二五年)に設置されました。
 当時、汪徳容という人が敦煌を通ったときにこう記しました。「今寺已久湮、而図画極工」(今 寺は已に久しく湮れり 而るに図画はきわめて工なり――寺はすでに久しく埋もれているが、壁画はきわめてすばらしい)。
 嘉慶末年(一八二〇年)に西北歴史地理学者の徐松は『西域水道記』の中で、莫高窟について詳しく記載しました。
 光緒五年(一八七九年)には、ハンガリー人のルクスが、ヨーロッパ人として初めて莫高窟を見学しました。彼は、この予想外の発見と収穫にたいへん驚きました。
 莫高窟が世界を驚かせたのはご承知のとおり光緒二十六年(一九〇〇年)の「蔵経洞」の経典、文書等の発見です。
3  敦煌莫高窟の開創
 池田 敦煌周辺には、有名な莫高窟のほかに、西千仏洞、楡林窟などの石窟の遺跡があります。なかでも質量ともに豊富なのが莫高窟です。莫高窟という名称は一説には「砂漠の高いところにある石窟」ということを意味しており、鳴沙山と三危山に挟まれたオアシスにあります。そのまわりは、見わたすかぎりの砂漠と山で、鳴沙山の断崖に最初に石窟が開創されたのは四世紀です。以来、約千年にわたって次々に開かれて、古い記録には「窟室一千余龕」があるという記述がありました。
 しかし、崩れてしまったものや不明のものもあり、現在は四百九十二窟。それでも長さは千六百メートルもあり、解放前と比べると、百八十三増えているということですね。敦煌の城自体が、歴史の興亡のなかで、かつての姿を消してしまったのに対し、人里離れた砂漠のなかにあった莫高窟は、今に歴史の光を残しています。
  一九四三年(昭和十八年)に、私が敦煌莫高窟に着いてから、洞窟の番号は、張大千先生のつけた番号を使いました。張大千先生は、大きな石窟の通り道にある小さな石窟には別の付嘱番号をつけていました。
 一九四七年から、私たちは莫高窟の全洞窟に新たな番号をつけました。そのときは小さな石窟でも全部番号をつけましたので、当時、合計四百六十八になりました。一九五三年に洞窟の前にある土台を取り壊したときと、一九六三年に石窟を全面的に強化するために周辺を固める作業をしていたときに、新たに二十四の洞窟を発見しました。実際には、莫高窟には七百以上の洞窟があります。そのなかで、壁画と、塑像のある洞窟だけ番号をつけました。その数は合計四百九十二で、北区域には壁画も塑像もない洞窟があるのですが、それらには番号をつけていません。
 今後もさらに新たな発掘は期待できるかということに対して、私はこの四十年余り、ずっとその可能性を放棄していません。補修強化工事をしているときでも、調査しているときでも、つねにこのことを頭に入れております。
 池田 何点かおうかがいしたいのですが、敦煌莫高窟で、一番大きい洞窟は、どの石窟ですか。それは、どのくらいの規模ですか。また、最も小さい石窟は――。
  洞窟の大きさは高さと平面の大きさに分けられます。最も高い洞窟は第九六窟。九層楼で、そこにある弥勒大仏は三十三メートルの高さです。面積からいうと、一番大きいのは宋代の第六一窟です。間口が十三メートル、奥行きは十四メートルあります。最も小さい洞窟は第三七窟。まったく小さな洞窟で、人が入れないくらいです。
 池田 石窟が造営されている「鳴沙山」の“鳴沙”という呼称も、なかなか味のある名ですが。
  人が鳴沙山を下るとき、流砂がたがいにぶつかり合い、摩擦によって小さな音が発生します。それはちょうど飛行機に乗って、感じるそのかすかな震動の音と同じです。そのために、人が「鳴沙山」と呼ぶようになりました。
 池田 鳴沙山は、東西の長さが四十キロもある。これほど大きな砂丘の連なりは、どうしてできたと思われますか。
  一九六二年(昭和三十七年)、私たちは専門家と会議を開き、敦煌の砂の問題などを検討しました。そのとき、砂漠の専門家に鳴沙山の形成についてもうかがいました。だが、さまざまな意見が出てきて、まとまりませんでした。でも、私は次の意見に傾いています。
 それは、鳴沙山の底には、もともとは普通の山脈がありました。西側の砂丘が東に移動したために、これらの大小の山脈を全部覆いかぶせて、今日のような鳴沙山を作り上げたという説です。
 池田 それと鳴沙山中には三千年来、水が涸れたことのない不思議な泉があるそうですね。
  鳴沙山のなかに、四面を砂丘に囲まれている泉があります。三日月のような形をしていますので、中国語では「月牙(三日月)泉」と呼んでいます。
 砂丘に囲まれていますので、風が東より吹く場合は、砂は西面の砂丘に降る。風が西より吹く場合は、砂は東面の砂丘に降りて、泉には降りてこない。この泉の水は三千年来、涸れたことがない。漢代の伝説によると、ここは天馬の出所地であるといわれています。
 池田 月牙泉で採集した砂を「五色の砂」と呼ぶようですが。
  鳴沙山のところで、流砂は大粒と小粒に分かれるのです。大粒の砂はゴマよりも小さいけれど、さまざまな色があるのです。たとえば淡い灰色、ピンク色、濃赤色、紫色等があります。本当は五色以上ありますが、色が多いという意味で、五色砂と呼んでおります。
 池田 よくわかりました。敦煌莫高窟の最初の石窟が開かれたのは、李懐譲の「重修莫高窟仏龕碑」によると建元二年(三六六年)ということですね。そこには、その年に、沙門(僧)・楽僔(らくそん)が、林野を歩くうちに、山が金色の光に照らされ、あたかもそこに千仏が現れたかに見えたことから、石窟を一つ造ったと記されています。
 これが莫高窟開創の由来といわれていますが、いったい楽僔が見たという千仏とは何であったと思われますか。
 ちなみに、黄河上流にある炳霊寺石窟の「炳霊」とはチベット語の“十万仏”あるいは“千仏”に由来するなどという話もありますが。
  三危山の「金色の光」という莫高窟の奇異な現象が、最初に記録に残っていたのは、たしかに今お話があったとおり、莫高窟第三三二窟で発見された唐代の聖暦元年(六九八年)、李懐譲が莫高窟の仏龕を修復するとき建てた「重修莫高窟仏龕碑」です。
 私は莫高窟に数十年来生活しておりましたが、このように金色の光は、実際に見る美しい景色です。とくに真夏の八月あたり、雨が降ったあと(敦煌は砂漠気候で、あまり雨が降らない)、夕方になると、莫高窟の東方向にある三危山に映る夕映えは、完熟したミカンのような黄金色になるのです。三危山の背後には、だんだん暗くなっていく空、前方には暗く茶色の砂漠、三危山だけが黄金色の夕映えにくっきりと見える。その帯状の黄金色は、あたかも千の仏が山脈に並列して座っているように見えます。私は何回も屋根に登って、この美しい景色を絵に描いたことがあります。
 五〇年代に、私は画家の葉浅予、李斛先生らと一緒にこの奇異な光景を莫高窟で見ました。
 李先生曰く「あの小さな山々が、本当に千仏並列のように見えますね!」。葉先生は「あのあたりの山頂は、あたかも文殊菩薩が座っているように見えます」と溜め息をつきました。一九七八年、画家の馮真が、三危山から四方に放っている金色の光の光景を見たと私に言いました。あまりにも美しくて、びっくりしたが、一刹那で消えてしまったということでした。
 私の息子の嘉煌も似たような光景を見たことがありました。彼は山の頂で絵を描いていました。太陽が西に傾き、ちょうど地平線に沈んでいく瞬間、三危山の方角から千万の金色の光線が放たれている。彼は急いでカメラを取り出し撮影しようと思いましたが、間に合いませんでした。
 この金色の光は、偶然にしか出合えない光景ですが、唐代の碑文に記載してある楽僔が見た千仏のような金色の光は真実だと思います。この金色の光は、画家、詩人にたくさんの幻想と夢をあたえてきました。私もこの金色の光を見たときの「千仏の姿がいるような」光景を思い出すたびに、いつも懐かしく、うっとりとさせられます。
 池田 なるほど。なんとなくイメージがわいてきました。(笑い)
 ところで、この“千仏”という言葉は、『法華経』の「普賢菩薩勧発品」には「是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず、悪趣に堕ちざらしめたもうことを為」とあります。
 日蓮大聖人の御書には、この普賢菩薩勧発品の文を引かれての「千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒来迎し法華経の行者は千仏来迎し給うべし」(創価学会版『日蓮大聖人御書全集』七八〇㌻。以下、御書と略記)、「一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん」(御書一三三七㌻)などの御文があります。これらは『法華経』の信仰のすばらしさを示されたものです。
 浄土三部経による阿弥陀信仰では、命終すると観音菩薩と勢至菩薩が来迎すると説かれているのに対して、『法華経』では「千仏来迎」という遙かに荘厳で、スケールの大きい表現で、その偉大さを際立たせています。こうしたこともあって、“千仏”という言葉は、私たちにも、かなり親しい仏教用語となっています。
 また私には大乗仏典の仏や仏国土の象徴としての描写が思い起こされます。『法華経』の「序品」では、仏が眉間から一条の光明を放って、東方万八千という数多くの国土を照らした結果、それらの国土が皆金色のようになった、という場面があります。
 おそらく、三危山の金色の光を見た人々は、一瞬、仏国土を垣間見るような荘厳さのなかにつつまれたのでしょうね。
4  砂漠の大画廊
 池田 敦煌の石窟の中に描かれた絵画は、四世紀から元代までの千年近い歴史のなかで残されてきた貴重なものです。それらの絵を画集や図録などで見るとき、北涼、北魏、西魏、北周、隋、唐、五代、宋、西夏、元などの歴史のなかを生きた人々の息づかいや、さらには生活様式、美しいものへの探求心、平安への祈り、などが感じられてなりません。
  中国の古い時代の絵画資料は、ほとんどが流出してしまって、あまり残存しておりません。歴史的な建物の多くも、自然の浸食や人為的な破壊によって壊れ、なくなってしまいました。
 敦煌だけは、歴代絵画の風格と仏教資料等を比較的に良い状態で保存しているので、その遺産は非常に貴重です。「砂漠の大画廊」という言葉に恥じないものがあります。
 池田 まさに歴史的な文化遺産です。描かれた絵は、四万五千平方メートルもあるということですね。それは、縦が一メートルの絵だとすると、横に並べれば、四十五キロもの長さになり、規模からいっても、まさに空前の大画廊となります。
 莫高窟の北部には、このようなすばらしい絵を残した無名の画工たちの住居といわれている洞窟群が見られます。そこで彼らは当時、どのような生活をしていたと先生はお考えですか。
  私たちは、そのような洞窟を「画工窟」と呼んでいます。「画工窟」は高さがとても低く、人間が真っすぐに立つことができないほどです。彼らの生活は、たいへん困難であったようです。現存する画工に関する資料は、非常に少ないのですが、敦煌文書のなかには洞窟を掘る石匠と画工たちが、貧困のために子どもを質の担保にしてお金を借りたという話があります。
 池田 非常に悲惨な話ですが、しかし、なぜ彼らがそうした厳しい生活環境のなかで、あれだけの石窟を残すことができたのか――。このような事業が成就されていく根底にはやはり、永遠なるものに対する信仰、ここでは、仏教への篤い信仰心が、画工たちの精神的な支えとなっていたことは想像に難くありません。
  はっきりした資料に基づいて、分析し説明することはできませんが、画工たちは、ずっとしゃがんだままの姿勢や、伏して一日中、絵を描き、彫刻をし、少しもいいかげんなことはしていません。
 きちんとした仕事をして、すばらしい作品を残しています。生活環境の困難ななかでの彼らのこの気力、この忍耐は、金銭に替えることのできないものです。私は敬虔な信仰心こそ、彼らがこの偉業を完成させる支えだったのだと思います。
 池田 壁画のなかには、当時の民衆の生活も描かれていますが、それらは庶民生活の貴重な歴史資料になっていますね。
  一九五〇年代に私は「敦煌壁画――人間の生活」という論文を書きました。そこで壁画に描かれている歴代人民の生活資料をまとめました。
 壁画のなかには当時の生活が生き生きと表現されています。そこに描かれたいくつかの習慣は、現在でも見ることができます。たとえば農村で見られる牛が犂を引くような情景は、壁画に描かれている様子とそっくりです。つまり壁画は、忠実に人々の生活を描き出しているのです。
 また、さまざまな古い文献に記載されていることも壁画のなかに発見できます。したがって、敦煌壁画は宮廷および庶民生活の百科大図鑑でもあるのです。
5  仏典と貴重な文書
 池田 敦煌が世界の耳目を集めたのは、先ほど述べられたように、二十世紀初頭に大量の経巻や書画、文書が莫高窟の第一七窟「蔵経洞」から発見されたことでした。
 そこには四、五万点に及ぶ貴重な遺産があったといわれています。なぜそこに、そのような膨大な文書が残されたのかということが、井上靖氏の小説『敦煌』のテーマにもなりました。
 これらの多くは、イギリスの中央アジア探検家スタインや、フランスの東洋学者ペリオらによって、国外に持ち去られました。わずかに残った八千巻ほどの経巻や文書が、北京にその後に運ばれました。
 こうした貴重な文献が海外に流出したことはまことに残念なことです。
  私は以前から、各国に散在している文物、古文書を敦煌に返し、各国および中国の学者の共同研究のために使うことを主張してきました。過去に、愛国心の欠けている者、腐敗した官僚によって、蔵経洞で発見されたものは、ほとんど海外各地に流出してしまいました。
 それらは、非常に幅広いものがあると思います。たとえば絵画、古文書、歴史、地理、宗教、古代科学技術、庶民生活、服飾、軍事、小説、通俗文学……等々にわたっています。広く研究するためには、資料が集中すれば、学者に良い研究条件を提供できます。芸術面だけを見ても、敦煌は、中国一国のものだけではなく、世界の芸術宝庫であると思います。
 池田 “人類の至宝を故郷に返そう”――私もまったく同感です。機会あるたびに主張してもきました。
 次に角度を少し変えて、二十世紀初めの第一七窟・蔵経洞の発見から、敦煌への世界的関心が集まりましたが、初めて第一七窟の内部に入られたとき、先生はどのような感想をもたれましたか。
  この話は一九三六年(昭和十一年)に私がフランスのパリでペリオの編集した『敦煌石窟』を見たときから始めなければなりません。
 ペリオの『敦煌石窟』で見ると、蔵経洞はシルク(絹)の画や写経などがいっぱい入っている洞窟ですが、私が蔵経洞に入ったときは、ただの空っぽの洞窟でした。人が引っ越したあとの空っぽの家みたいに、とても寂しい気がしました。壁画に描かれている供養侍女と供養比丘尼は、黙って菩提樹の下に立っています。供養侍女の顔には、善良なほほえみがたたえられていて、あたかも私に声をかけてくるようでした。
 「やっとお会いしましたね。私の子どもよ。ご覧なさい。私はこの洞の宝物を守ることができませんでした。だから、私は今、黙々とここに立っていて歴史の証人になっています」
 そのとき、私も心の中に誓いました。「私も永遠に莫高窟の地に立ち、彼女をすべての災難から守ります」と。
 池田 なるほど。この蔵経洞は、西暦八四八年に漢民族が敦煌をふたたび支配するさい、功労のあった洪べんに関連したものであるといわれています。それはどのような理由から判断されたものでしょうか。
  蔵経洞が発見された当時、その中には晩唐の大中五年(八五一年)の「大番釈門教授和尚洪べん修功徳碑」がありました。王道士はその碑を蔵経洞から取り出して、第一六窟甬道の南壁にはめていました。このことから第一七窟の蔵経洞は洪べん和尚の「御影堂」だということがわかりました。
 ただ、洞窟の中には仏壇や神棚のようなものがありましたが、祭られる洪べん和尚の像はありませんでした。後日、洞窟を調査しているさい、右側上方にある第三六二番の小さな洞窟の中に、晩唐時代の塑像の和尚像が置かれているのがわかりました。この像の芸術的風格と寸法は、ちょうど私が思っていた蔵経洞内の欠けていた洪べん和尚像と一致していました。さらに詳細に研究した結果、最終的にはこの像が蔵経洞の中の洪べん和尚像であることが確定しました。
 そのため、一九六五年(昭和四十年)の洞窟の強化作業のさい、その像を第三六二窟から第一七窟に戻しました。と同時に「大番釈門教授和尚洪べん修功徳碑」も蔵経洞内に戻しました。私は石碑の裏側に題字をして、その石碑の歴史や発見の経過などを書きました。
 池田 なるほど。たいへん明快なご説明です。ところで前にも話が出ましたが、敦煌文物のなかで、仏教経典については、一九〇〇年(明治三十三年)に蔵経洞(第一七窟)から大量に発見されています。その後、常先生が敦煌に行かれてから、蔵経洞以外で経文を発見されていますね。それらは、どのような状況で発見されたのでしょうか。貴重な歴史の証言として、そのときの様子を詳しく、背景等も含めてお話しいただきたいのですが。
  国立敦煌芸術研究所は、敦煌県城(県庁所在地)から二十五キロも離れている莫高窟に設置されています。そこは四方は人家のない砂漠です。県城から莫高窟へは、長年、人間が通っているうちにできた小道しかありませんでした。
 主な交通手段は牛車、馬、驢馬でした。一九四三年(昭和十八年)、研究所を設立した当時、二頭の驢馬と一頭の牛を車を牽くためと田畑を耕すために購入しました。馬が欲しかったのですが、研究所の経費が少ないため買えませんでした。ある日、敦煌県の県長である陳西谷先生からこういう話を聞きました。県の裁判所が南山で捕らえた土匪からナツメ色の馬を没収した。この馬を研究所が欲しければあげてもよいということでした。敦煌には二種類の馬がいます。一つは馬車用、もう一つは訓練されている馬です。
 このナツメ色の馬は乗るためのとても良い馬でした。それをもらい受けた私たちは四頭の家畜を飼うことになりました。家畜を飼い、その飼料を貯蔵する場所として、私たちは中寺(皇慶寺ともいう)の後庭にある廟を選びました。その廟の中に清朝末期に作られた三つの塑像がありました。それらはあまり良い作品でもないし、私たちはそれを移動することにしました。
 敦煌の塑像の一般的な作り方は、まず中心に一本の木を置きます。木の上端に別な木を縛り、十字に作ります。その周りを草と葦でくるっと包み、その上に麦わらと泥で大まかな形を作り、綿と泥で細部と表面を完成し、最後に着色します。
 一九四四年八月三十日に、廟の三つの塑像を移動するさい、その塑像の作り方が一般的なものと違うことに気がつきました。この移動作業を担当した老工作員の竇占彪がこのように私に報告しました。
 「廟の三つの塑像を移動しようとしましたが、これらの塑像の中心の木の棒が、土台の深くまで埋められており、そのままでは移動できません。仕方がなく、塑像を壊すしかないと判断し、壊してみたら中心の木の棒は、桃の木であることがわかりました。敦煌の昔の住民には、迷信を信ずる人も多く、彼らは桃の木には鬼を退治する力があると信じていたのです。それで桃の木を選んだのですが、それを包んでいるのは草でも葦でもなく、写経の残片です。それでただちに常書鴻所長に報告に来ました」
 池田 思いもよらぬところから新しい発見をされたわけですね。
  私は非常に特殊なケースであると思い、すぐに調べに行きました。桃の木の棒を包んでいるのは、麻紙に書かれた写経であり、紙質と字体から見ると、北朝期のものであることが判明しました。これは重大な発見だと思い、すぐこれらの写経をきちんと保管するように封をしました。そして研究所の全員(董希文、李浴、蘇瑩輝、陳延儒、張琳瑛、邵芳、陳芝秀、辛普徳、劉栄曽等)と、当時、ちょうど敦煌の仏爺廟の調査、発掘のために来られた中央研究院の考古学者・夏鼐(かだい)、向達等とともに鑑定作業に入りました。合計すると、経文等六十六種、残片三十二点。これは一九〇〇年(明治三十三年)の蔵経洞の発見以来の重大な発見でした。
 この発見は、もう一つの重要な意義をもっています。私は、当時、莫高窟に住んでいた寺の老住職に聞きましたが、彼は、この廟の塑像は、一九〇〇年の蔵経洞の発見以前にすでにできていたと言いました。つまり、これらの写経は、蔵経洞のものではないということでした。これらは六朝の紙質と字体で、この発見は、第一七窟の蔵経洞以外にも、写経が発見される可能性があることを証明しました。この観点を私は四十余年来ずっと信じつづけています。
 また長い歴史を有している故城址には、必ず多くの文物が残されていると確信しています。歳月の経過とともに、自然の作用と人的な変化によって、多くの遺跡があるいは崩され、あるいは流砂に埋没されてきました。
 その一つの具体例は、一九六三年(昭和三十八年)に莫高窟の全面強化工事を進めていたさい、洞窟の前を掘っていましたら、地下四、五メートルのところに、新たに石窟と窟前寺の遺跡を発見しました。このことは現代の莫高窟の地面は、唐、宋代よりも四メートル以上も高くなったことを証明してくれました。この発見は、私たち莫高窟の遺跡を調査する人間にとって、たいへん重要なものでした。
 また一九五八年には、私たちは南の洞窟の端から五十メートル離れた場所で、地下五メートルのところに寺の遺跡を発見しました。これは火事で焼かれたものでした。こうしたことからも、これからもっとすばらしい遺跡文物が莫高窟周辺から発見されると信じています。
 池田 莫高窟とともに敦煌の故城址の発掘が進むと、唐代に十七大寺があったという敦煌の様子がより明らかになってきますね。
  たしかに敦煌の故城址は悠久の歴史があります。しかし明代に敦煌故城は遺棄されてしまいました。その後、破壊されたり、流砂に埋没していきました。敦煌の故城址は、現在の敦煌県城の西側にあります。沙州故城と呼ばれていますが、その本格的な発掘はたいへんに意義のある仕事だと思います。

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