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日蓮大聖人・池田大作

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現実への鋭い凝視  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  池田 さて、このような「時代」と「世界」への開眼は、あくまでも地盤としての現実に、深い根拠をもっていた。言い換えれば、そこで開かれた眼は、また必然的に、現実への鋭い凝視に向けられた、とみたい。
 すでに『今昔』の「本朝」部における新しい「人間」の発見を指摘しました。それにはもちろん、王朝文学、たとえば『源氏』の世界には、ほとんど影しか見せていなかった、さまざまの階層、職業、地方の風俗や生活が、ふんだんに取り上げあれているという側面もあります。
 根本 餌取えとり法師の話(巻十五・第27話、第28話)とか、巻二十三のいわゆる剛力譚ごうりきたんに収められた相撲人の話などは、とくに珍しく、風俗資料としての価値がありますね。
 池田 それはしかし、まだ外面的な新しさでしかないでしょう。『今昔』の「人間」発見の本領は、これもまえに述べたように、そのとらえ方、描き方にあると言える。
 たとえば、老僧同士が葛藤する話(巻二十八・第18話)のように、僧体のちにひそむ醜い欲望をあからさまに剔出している。また、芥川の『鼻』(巻二十八・第20話)や『芋粥』(巻二十六・第17話)で周知の説話では、人間の虚栄心の愚かさや卑小さを、ありのままに描き出している。
 かと思えば、娘を猿神の生贄いけにえにされようとして悲しむ親たちに、東国からきた人が、「世にアル人、命ニマサル物無。亦、人ノ財ニスル物、子ニマサル物無。其ニ、只一人持給ヘラム娘ヲ、目ノ前ニテナマスツクラセテ見給ハムモ、イトシ。(中略)仏神も命ノ為ニコソ怖シケレ、子ノ為ニコソ身モ惜ケレ」(巻二十六・第7話、大系25)という話には、人間的な生命尊重の念や、俗習にとらわれぬ勇気といったものが、力強く肯定されています。
 根本 人間の本能や欲望を、あるがままに見、かつ描くという態度ですね。
 池田 そうです。
 根本 これは、ある意味では、反宗教的というか、あるいは非宗教的な態度である――という考え方がありますが。つまり、なるほど『今昔』は当初、仏教説話として発想されたかもしれないが、それにしては、あまりに「三宝への帰依」を歓信する方向とは矛盾している要素が多い。
 『今昔』の作者は、初めの志向から大きく逸脱してしまったのではないか。そして、その逸脱のなかにこそ、かえって、新しい「人間」の発見があり、また文学的価値が見られるのだ、というわけです。
 池田 たしかに、そういう疑問は、いちがいに否定できないでしょう。実際、集成された説話のなかには、宗教的関心というには、度を超えた猟奇心や残虐趣味に惹かされたものも、決して少なくはないようです。だが、そこにむしろ、私は末法という危機的な時代における宗教意識の、特異なあり方があるとみたい。
 たとえば、巻十一から巻二十に及ぶ「仏法」部は、一応、仏教伝来以後の列伝的な日本仏教史という構成になっている。しかし、そのなかに、すでに伝統的な宗教的権威の崩壊は、はっきりととらえられていると言っていい。
 根本 法華経への尊崇は、やはり中心をなしていますが、とくに顕著なのは、観音、地蔵の霊験譚や浄土往生譚ですね。
 観音霊験譚(巻十六)では、藁しべ長者(第28話)のような民話とともに、信仰のあり方としてみて、いささか首をかしげざるをいない話もありますね。「南無銅鉄万貫白米万石好女多得」(第14話、大系24)と、観音を念じるという話みたいになると……。(笑い)
 池田 半面、巻十九の出家機縁譚を見ると、そこには、芥川の言う「裟婆苦の為に呻吟した」(「今昔物語鑑賞」、『日本文学研究資料叢書“今昔物語集”』、有精堂出版)人々の苦しみが、鮮やかに写しだされている。彼も引用している大江定基の出家話(第二話)をはじめとして、生老病死、また愛別離苦の悲哀をつづって、感銘ぶかい説話が多い。
 根本 僧侶の往生譚(巻十五)では、とくに増賀、源信のような、多少とも貴族仏教のワクから出た人物の物語が、印象的です。

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