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日蓮大聖人・池田大作

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光源氏と薫の世界  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 光源氏や薫の人生には、そうした思想的意味があるわけですね。
 池田 現実の苦悩、葛藤は、すべて究極の悟りへ到達するための、一つの階梯であると、作者は考えていたようです。
 「御法みのり」の巻で、紫上を喪った光源氏が、悲嘆に沈みながら、自分の生涯をかえりみて、「鏡に見ゆる影をはじめて、人には異なりける身ながら、いはけなき程より、かなしく、常なき世を、思ひ知らすべく、仏などのすゝめ給ひける身を、心強く過ぐして、つひに、『来し方・行く先も、ためしあらじ』と、おぼゆる悲しさを、見つるかな」(大系17)と想い、また「幻」の巻で、さらに、「この世につけては、飽かず思ふべきこと、をさをさあるまじう、高き身には生まれながら、又、『人よりも、殊に口惜しき契りにもありけるかな』と思ふ事絶えず。世の、はかなく憂きを知らすべく、仏などの、おきて給へる身なるべし」(大系17)と述懐している。
 根本 薫にも、そういう自覚がありますね。
 「総角あげまき」の大君の死に臨むところで、「世の中を、ことさらに、『厭ひ離れね』と、すゝめ給ふ仏などの、いと、かくいみじき物は、思はせ給ふにやあらん」(大系17)とあり、また「蜻蛉かげろう」の巻で、浮舟の最期を聞いて、「かゝる、事の筋につけて、いみじう、物思ふべき宿世なりけり。様異に心ざしたりし身の、思ひの外に、かく、例の人にて、長らふるを、仏などの、『憎し』と、見給ふにや。『人の心を起させん』とて、仏のし給ふ方便は、慈悲をも隠して、かやうにこそはあなれ」(大系18)と、思い悩んでいる。
 池田 光源氏も、薫も、その生涯は、煩悩生死の海に漂い、流されながら、菩提涅槃を求めてやまないものとして、作者は設定していたのだと思えてならない。
 道心と愛欲の煩悩とのあいだを揺れ動く人間像として、この二人は描かれている。
 宿世とか、人間の「業」というものが、紫式部自身に、切実に意識されていたのではないか。どんな虚構をこらした文学作品も、結局は、自己を写し、描くものだとすれば、光源氏や薫の造型は、作者の内面の苦悩の深さを投影したもの、と見られるでしょう。
 根本 ここには「方便」という言葉が用いられていますね。
 池田 それは法華経方便品にもとづいたものでしょう。
 今では「嘘も方便」などと、つごうよく使われていますが。(笑い)
 天台大師は「方便」を法用、能通、秘妙という三義に解釈していますが、ふつうには民衆教化のために、その機根にしたがって説いた種々の法をいうのですね。
 声聞乗には四諦の法を説き、縁覚乗には十二因縁の法を説き、菩薩乗には六度の法を説いた。これらの方便説は、すべて真実の一乗法(仏乗)へ入るための門であるという。
 しかしじつは、それらの三乗法即一乗法であると顕したのが、方便品の意であるというのです。
 方便品には、「是諸仏。亦以無量。無数方便。種種因縁。譬喩言辞。而為衆生。演説諸法。是法皆為。一仏乗故(是の諸仏も、亦無量無数の方便、種種の因縁、譬喩、言辞を以って、衆生の為に諸法を演説したもう。是の法も、皆一仏乗の為の故なり)」(開結168㌻)と説かれている。「螢」の巻の物語論の趣旨も、この法理をふまえているわけです
 また、寿量品にも「方便」の語は表れています。
 とくに、有名な「良医の譬え」では、毒薬を飲んで本心を失った子をあわれんで、「我今当設方便。令服此薬(我今当に方便を設けて、此の薬を服せしむべし)」(開結504㌻)と、父が念ずる部分がある。子は衆生で、父は仏です。自我偈では、「如医善方便 為治狂子故(医の善き方便をもって、狂子を治せんが為の故に)」(開結509㌻)ともある。
 光源氏や薫が、自分たちの受ける現世の苦悩は、無上の菩提を証得するための仏の方便であると考えるあたりには、岩瀬氏も、『花鳥余情』や『湖月抄』をふまえて、詳しく論じていますが、おそらく、こうした経説の影響があるとみていいのではないでしようか。
 根本 たしかに、そう考えられますね。
 池田 本居宣長などは、こうした解釈をけなすかもしれませんが。(笑い)

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