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日蓮大聖人・池田大作

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紫式部の仏教観  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 無常の追究が、一貫した主題であるわけですね。
 池田 その文学的な中心主題に関するかぎり、密教も浄土教も、所詮は物語の世界の美的な装飾であり、積極的な支柱では、なかったと思う。
 根本 やはり法華経の哲理が根本であると……。
 池田 ええ。天台法華、つまり法華経の影響性が根幹をなしていると言っていいと思います。
 たとえば、池田亀鑑編著『源氏物語事典』(東京堂出版)の所引仏典索引を見ると、紫式部の領解していた仏教典がいかなるものであるかが、目瞭然とするのではないでしょうか。
 そこには観無量寿経、阿弥陀経や『往生要集』からの引用も少なくないが、普賢経、大般涅槃経とともに、妙法蓮華経に典拠をもつものは圧倒的に頻度が高い。
 一、二の例をあげてみると、たとえば「薄雲」の巻の、藤壷中宮が他界するところで、「ともし火などの消え入るやうにて、はて給ひぬれば……」(大系15)とあるのは、法華経序品の「如薪尽火減にょしんじんかめつたきぎ尽きて火の滅するが如し)(開結149㌻)からきている。
 また「若紫」の巻で、光源氏が、「仏の御しるべは、暗きに入りても、更にたがふまじかなるものを」(大系14)というのは、化城喩品の「従冥入於冥永不聞仏名(くらきより冥きに入って、永く仏のみなを聞かず)」(開結316㌻)によっている。
 根本「総角あげまき」の巻に出てくる雪山童子の話は、涅槃経に出ているのですね。
 「恋ひわびて死ぬる薬のゆかしきに雪の山にや跡を消なまし
 『なかばなる偈、教へけん鬼もがな。ことつけて投げん』と思すぞ、心ぎたなきひじり心なりける」(大系17)と、薫について述べているところです。
 池田 同じ巻には常不軽菩薩の名も見えますね。
 また「手習」の巻で、横川僧都が浮舟のことを語って、「ゐ中人のむすめも、さるさましたるこそは侍らめ。龍の中より、仏まれ給はずばこそ、侍らめ。たゞ人にては、いと、罪軽きさまの人になむ、侍りける」(大系18)というところは、提婆品の竜女成仏をふまえており、さらに随喜功徳品に説かれているように、前世の福報によって、容貌美しく生まれるという考え方を示していると指摘されている。

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