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二十世紀文学との類似  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 三つの世代、ほぼ七十五年にわたる物語ですね。分量もさることながら、日本の小説には稀有な、構想の大きな大河小説という感じがする。
 根本 『源氏物語』はウェイレーの英訳によって、世界文学の古典として評価された。
 正宗白鳥氏なども、この英訳で通読して初めて、小説としてのおもしろさがわかった、と言ったそうです。
 池田 私も、通読したのは谷崎潤一郎の現代語訳です。傍らに、原文をおいて、興味のあるところをときどき参照したりして……対訳の逆です。(笑い)
 全体が頭に入ると、今度は原文を拾い読みしても、ほぼ見当がつく。気に入ったところは、じっくりと味わう。
 いささか我流のきらいがあり、正統な古典の読み方とは言えませんが。
 根本 いや、一般にもすすめたい読書法です(笑い)。中村真一郎氏が言っていたと思います。たしかに小説というものは、一息に通読しなければ醍醐味がわからないものですから。
 ところで、西欧では、ブルーストの『失われた時を求めて』との連想で読まれているというのですが、日本の古典が、二十世紀文学の先端の作品との類似を指摘されているのは、不思議な気がします。
 池田 近代文学のいろいろな作品を連想させたりするのも、古典としての『源氏物語』の深さを示しているように思います。たしかに、心理的な描写は、驚くほど細密で、現代的手法を感じさせます。
 根本 長編としての構成については、緊密さを欠くとか、欠陥が論じられていますが。
 池田 ええ。やはり最初から、大長編の構想があったとは考えられない。初めは女房たちの読み物として執筆されたとも言われていますしね。書き進めているうちに、しだいに主題そのものが展開し、成熟していったのだと思います。
 根本 とくに第一部は、短編の連作に近い要素が多い。
 また『竹取物語』や『宇津保物語』のような伝統的な物語の雰囲気も濃い、と言われている。それと、第二部からの重厚な長編的手法とは、ずいぶん印象が違いますね。
 池田 第一部では、私は『伊勢物語』が作者の念頭にあったように思える。とくに前半は、かなり奔放で、情熱的な青春の物語という感じがしますね。
 根本 光源氏の恋愛譚ですね。しかし、たんなるドン・ファン的な好色物語にはなっていない。王氏(源氏)と藤原氏の対立という状況が背景にある。そして光源氏が権力の階段を確実に昇って行く過程として描かれている。そこに、現実性の裏打ちがあるわけです。
 池田 「螢」の巻の、有名な物語論にも、作者の抱負がはっきりうかがえますね。
 「神世より世にある事を、記し置きけるななり。日本紀などは、たゞ、片そばぞかし。これらにこそ、道ゝしく、くはしき事はあらめ」(大系15)
 歴史はたんに事実の集積にすぎない。物語にこそ、人間の真実相が描かれているのだ、という主張だと言っていいでしょう。古い物語の伝統をふまえながら、作者の意識はすでにその殻から脱けだしている。これは、現象の表面にとどまらず、己の内面に深く眼を向けていく式部の資質からもたらされたものでしょう。
 根本 そこで、本居宣長の「もののあはれ」論ですが、彼は『源氏物語玉の小櫛』で、この物語論について論を展開している。それは要するに、儒教や仏教の教義から把握することを排斥して、人情の機微というか、人間性の真実という観点から理解すべきだということですね。

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