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日蓮大聖人・池田大作

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情緒としての無常観  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 『源氏物語』と仏教思想との関係については、またあらためて論じたいと思いますが、結論的に言うと、仏教の無常観により深められたとは言えますが、しかし、それによって初めて生じたものではない。
 無常観という思想のまえに、いやおうなく無常を実感せざるをえない人生の現実があった。それに直面して反応する態度は、本来、決して一様のものではないはずです。
 瞬間に現前するものに、かぎりない感動をおぼえ、深く味わおうとする心情は、無常観というより、もっと情緒的なものだと思われてならない。これは優劣、よしあしの問題ではなく、日本人の生活構造、習性に根ざす、独特の審美観によるものではないでしょうか。
 根本 それが「もののあはれ」という理念の基盤でしようか。
 池田 一応は、そう言えるでしょう。ただ、私は「もののあはれ」にしても、「無常」にしても、たんに概念的に考えるのは誤りだと思うのです。
 つまり、情緒としての無常観と、思想としての無常観とは、はっきり区別して考えなければならなぃ。「もののあはれ」にも、その二面性があるのではないか、という気がするのです。
 根本 たしかに、「もののあはれ」というのは、本居宣長の卓説ですが、その意味については、より深く検討すべき問題があるようですね。この点は、後にあわせて掘り下げてみることにして、なぜ、王朝時代に、女流文学が未曾有の開花をしたのか、という問題にふれておきたいと思います。
 まず、何といっても、文字、言葉の問題がある。男子の実用の学問が漢字であったのに対して、女性は、日本の固有文字である平仮名を駆使して、微妙な心の襞を表現することに成功したわけです。
 池田 政治と実用の学問の世界から、いわば疎外されていた女性が、新しい文学創造の担い手になったというのはおもしろいですね。
 また、彼女たちはほとんど、「雨夜の品定め」(「帚木ははきぎ」大系14)で言えば「中の品」――受領ずりょう層と言われる下級貴族の子女であったわけで、貴族社会や宮廷の実態を、ある程度、距離を、おいて対象化して見ることができたのでしょう。
 根本 いろいろな条件が、本格的な文学作品を創造する契機となったのですね。
 池田 なかでも、当時の女性の特殊な社会的地位を無視するわけにはいかない。先ほど言われたように、結婚生活のあり方は、女性にとって、一面では自由なものであるとともに、反面、不安定なものでもあった――。
 根本 一夫多妻制には違いないが、男女の関係は、ほぼ対等といってもよく、結婚も離婚も、かなりかなり奔放な恋愛遍歴を送る女性がいるかと思えば、他方では『蜻蛉日記』の作者のように、美貌と才気とをあわせもちながら、たえず嫉妬と不安に悩む女性がいたわけですね。
 池田 自由で対等といっても、現実には、どうもサルトルとボーボワールのようにはいかないみたいですね。(笑い)
 「タ霧」の巻で、紫上が皇女・落葉宮おちばのみやの身上について「女ばかり、身をもてなすさまも、所せう、あはれなるべきものはなし。物のあはれ、をりをかしき事をも、見しらぬさまに引き入り、沈みなどすれば、何につけてか、世に経るはえゞしさも、常なき世のつれゞをも、なぐさむべきぞは」(大系17)と思いめぐらすところがありますが、それは制度のいかんにかかわらず、現実の社会的、経済的関係におかれたときの、女性の背負わざるをえない宿命を象徴していると言っていい。
 根本 『紫式部日記』を見ても、これは作者自身の痛切な体験であったことがわかりますね。

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