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女房社会から見た政治  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  根本 少し視点を変えて、王朝文学の生まれた背景としての社会や生活の現実について、考えていきた
 いと思います。
 当時は、藤原氏の全盛時代で、いわゆる摂関政治が行われていた。
 経済的には荘園という土地の大規模な私的所有の形態がとられた。つまり律令の政治・経済体制が、形骸化していく過程にあった。また、対外的には、前代までに輸入された大陸文化の日本化の時期として特徴づけられます。
 池田 ところが『源氏物語』を読んで、だれでも気のつくことですが、登場人物は、いずれも朝廷の中枢を掌握している貴族階級であるのに、ほとんど政治や行政に関することは語られていない。
 まるで一日じゅう、歌を詠んだり、恋愛に身をやつしているように描かれている。いくら藤原氏の権力独占で、久しく平和が続いていたにしても、日常の政務はかなり多繁であったはずですが。(笑い)
 根本 それは王朝の女房社会の、政治からの隔絶、無関心を示していると言えます。
 池田 『源氏物語』は偉大な作品だし、女流の日記・随想は、どれもすばらしい魂の真実の記録だと思える。だが、この時代の現実をどこまで反映しているかという点になると、それは驚くほど狭い、閉ざされた環境にあったと考えるほかはない。
 たとえば、この平和な時代でも、政治の実権をめぐる争いは、実際に頻繁にあった。それは『大鏡』などを見ても、よくわかるわけです。藤原氏と王氏(源氏)の争ぃ、藤原一門の争い、――天皇の外戚の地位をねらっての、じつに錯綜した野望葛藤の跡がうかがわれる。
 根本 光源氏の須磨・明石行は、政治的な左遷だと言われていますね。
 池田 ええ。しかし、光源氏は、自分から身を逃れていくのですね。しかも数年で復帰して、のちに最高位に就く。私はこれは、当時の政治的現実のなかでは不可解な、奇妙な一種の流罪のようなものだと思う。
 根本 左遷の発端が、光源氏と朧月夜尚侍おぼろづきよないしのかみとの情事にあるというのも、よく考えればおかしい。本来、公的な事件を、私的な問題としてとらえるという、あくまで後宮的な次元での発想ですね。
 池田 それによって、かえって文学的には純粋化したというか、独自な想像の世界をつくっているとも言える。また、もう一面から見れば、政治が私的な場面に鋭く反映している証左ともみたい。
 今日でも、家庭を守り、台所を預かる主婦が、政治や経済の動向に、あるいは夫の職場の動きなどに敏感な反応をするという場合がある。その独特な感覚はじつに鋭いものがある。(笑い)
 根本 いや、まったく同感です。(笑い)
 それにこの時代は、一種の鎖国状態だったわけですね。徳川時代の鎖国などのように、抑圧された暗鬱なものではないが、日本全体が大陸から孤絶していた。そのなかの朝廷貴族というのは、京の都に限られ、一つの閉鎖社会を形成していた。だから、王朝の文学には、当時の庶民、下層階級の生活も、ほとんど表現されることがない。
 池田 「夕顔」の巻の場面などは、雲間から月の光が漏れて射すように、かすかに市井の一断面をとらえて、非常に印象的です。ただそれも、むしろ、みやびた情趣あるものとして一つ一つが結び合わされているわけで、『今昔物語』に生き生きと描かれているような、庶民のたくましい、エネルギッシュな生活そのものではない。
 根本 それは女房たちには、嫌悪の対象だったようです。清少納言などは、「にげなきもの、下衆げすの家に雪の降りたる。また、月のさし入りたるもくちをし」(大系19)などと言ったりしている。(笑い)
 池田 祭に集まる民衆を見て、あまりの混雑に、押し倒してやりたい気がするとか。(笑い)
 彼女たちには、ある意味の成り上がり者根性が、たしかにあったと思う。もてはやされて、いい気になっている面がある。だが、それは当時の身分観であり、今日の眼から、階級的偏見などと非難しても始まらないでしょう。

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