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春夏秋冬の味わい  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 ところで四季のうちでは、どの季節がいちばんお好きですか。
 池田 なにか物語のなかの、春秋の優劣争いみたいですね。(笑い)
 「春の花の林、秋の野のさかりを、とりゞに、人争ひ侍りける。そのろうの、『げに』と、心よるばかり、あらはなる定めこそ、侍らざなれ」(「薄雲」大系15)と、ひかる源氏が言っているように、春秋の優劣論議は、日本の伝統のようです『古事記』にも、春山のかすみ壮夫おとこと秋山の下氷したび壮夫の話が出ている。春の霞、秋の紅葉の擬人化です。ここでは、春山が勝っていますが、日本人の感受性は、どちらかというと、やはり秋の情趣に軍配を上げるのが多い。
 『万葉集』では、額田王が、
  ……秋山の 木の葉を見ては 黄葉もみちをば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは(大系4)
 と判定しているし、『拾遺集』の「読人不知よみびとしらず」にも、
  春はたゞ花のひとへに咲くばかり物のあはれは秋ぞまされる
  (小町谷照彦校注『拾遺和歌集』、『新日本古典文学大系』7巻所収、岩波書店)
 と歌われている。
 根本 王朝の歌合わせなどでも、盛んに春秋優劣の争いが交されていますね。同じ争いでも、これは平和で優雅でいい。(笑い)
 池田 しいて言えば、私もやはり秋にもっとも惹かれるものがあります。しかしそれも、四季のとりどりの美しさ、味わいがあるからで、春秋の争いは、日本人の季節や自然への関心の深さを象徴していると考えられる。
 根本 『枕草子』の有名な冒頭の文章にあるように、春夏秋冬それぞれの趣を、心ゆくまで味わうという態度ですね。
 池田 戦国時代の一武将が、四季の特質の違いから、人材論を語ったという逸話もおもしろい。私などもよく若い人たちに、桜梅桃李というたとえをとおし、桜は桜、梅は梅というように、その人なりの個性を発揮していくことの大切さを話すのですが、季節や草花からなぞらえるという発想は、日本人独特のものかもしれない。
 根本 なるほど。
 池田 また、四季の変化を人間の一生の推移にうつして感ずるという感じ方には、おそらく、その根底に仏教的な発想があるとみたい。人間の生老病死も含めて、万象を成住壊空の変化相としてとらえる思念が、四季の循環と結びつき、輪廻の深い意味を啓示するものとして、ひときわ切実に季節の移り変わりが感じられたのではないでしょうか。
 根本 『万葉集』ではあまり歌われていない冬の美が、王朝以後の文学に表現されているのも、そうした影響のためかもしれませんね。
 池田 そうですね。人生の晩年にあって、死を凝視する意識の変化が、冬のあの厳しい寂寥感と、それでいながら、その奥に春への新しい生への予感を秘めている温かさに向けられた、とも思われます。
 根本 『源氏物語』のなかでは、「朝顔」の巻の描写があげられますね。
 少し長くなるが、引用してみましょう。
 「雪の、いたう降り積りたる上に、今も散りつゝ、松と竹とのけぢめ、をかしう見ゆるタぐれに、人の御かたちも、光まさりて見ゆ」(大系15)
 そして次に、光源氏の言葉として
 「時ゝにつけて、人の、心をうつすめる、花・もみぢの盛りよりも、冬の夜の澄める月に、雪の光りあひたる空こそ、あやしう、色なきものゝ、身にしみて、この世のほかの事まで思ひ流され、面白さもあはれさも、残らぬ折なれ。すさまじきためしに言ひ置きけむ人の、心浅さよ」(大系15)
 と述べられている
 池田 玲瓏れいろうと、透徹した冬の光景で、たしかに新しい美の発見ですね。

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