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日蓮大聖人・池田大作

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羅什の訳経との類比  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 それにしても、撰者である太安万侶おおのやすまろには、深い仏教への素養があったのでしょうか。
 池田 太安万侶の仏教理解の程度を裏づける資料は、ほかにはないようです。また、『古事記』の仏典摂取は、はるかにそれ以前の原型時代からのもので、安万侶だけの仕事とは思えません。
 私はここに、『古事記』への聖徳太子の投影をみたい。法華経、維摩経への評価と理解は、太子以来、少なくとも宮廷知識人の間での、一つの前提になっていたのではないかと考えたいのです。
 根本 おお(多)氏は後に雅楽の家系で知られていますが、外来文化への接触の機会は多かったと思われる。しかし、序文の文章などは、彼が儒教的教養の深い学者であったことを示していますが……。
 池田 基本はそうでしょうね。しかも神事(しんじ)を司る家系に関係があった。だが、それにもかかわらず、撰録者としてはらった、なみなみならぬ苦心のあいだに、彼は文体や構成の学習をとおして、仏教精神への理解に、かなり深く踏み入ったのではないか。――そう推測することも、あながち根拠のないものではないと思えるのです。
 根本 表現の方法を学ぶことは、表現された内容を吸収することにもなるでしょうね。
 池田 ある意味で、彼のやった仕事は、羅什(らじゅう)の訳経にも通じるものがある。
 『仏祖統紀』によると、宋代の訳経には、九官の制があった。これは、訳経における役割の分担を定めたものですが、また同時に、訳経の段階を示してもいる。
 サンスクリットの原文を読みあげる「訳主」、それを助ける「証義」「証文」、中国語への翻訳にあたる「書字」「筆受」「綴文」、訳文を吟味し仕上げる「参訳」「刊定」「潤文」――多くの協力者によって、訳経という辛労多き作業が完成するわけです。
 阿札と安万侶、そしてほかにもあったにちがいない『古事記』の編纂協力者たちの仕事ぶりにも、ほぼこのような過程があったのではないか、と察せられるでしょう。

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