Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

日本的美意識と地球文明  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  池田 私は、神代史の物語を読むたびに、いつも思うのですが……『古事記』などが、国家的な聖典にならずに、もっと自由奔放な想像の世界で読まれ、育まれていたら、もしかすると、ギリシャ神話にも共通するようなロマンの宝庫ともなったかもしれない。権力によって、想像力の飛翔する翼を切られ、檻のなかに閉じ込められたのが、残念に思えてならない。実際、ギリシャ神話にしても、近代ロマン主義の作家たちによって、あらためて生気に満ちた、人間という存在の源泉として発見されたのではないでしょうか。
 根本 ギリシャ神話との比較については、和辻哲郎博士が卓抜な分析(『日本古代文化』、『和辻哲郎全集』第三巻所収、岩波書店)を試みています。――古代人の想像力の特異さは「部分的の深入りのゆえに全体を忘れる」ところにある。ギリシャ神話に見られるような「合理的な統一」に欠けている
 しかし、全体としては「素朴な驚嘆の感情による統一」があり、さほど破綻がない。『古事記』の描写は「豊富な直観を弱い統一力によってまとめた」という印象を与える、と述べていますね。
 池田 たしかに、そうだと思います。和辻博士はまた「深刻さの欠乏」と「湿うるおえる心情の流露」という弱点と長所を指摘していますね。これは『古事記』の文学的本質を的確にとらえた評言であり、さらには、日本の、文学的伝統の傾向性とも言えましょう。
 近代に、おいても、日本の文学は、構想の雄大さ、描写の深刻さにおいてではなく、直観の美しさ、感覚の新鮮さにおいて、優れた作品を生みだしてきたわけですから……。
 根本 和辻博士も言うように、『古事記』冒頭の「天地初発」の描写からして、具象的、感覚的な鮮やかさを示していますね。
 「国わかく浮きしあぶらの如くして、久羅下那州多陀用弊流くらげなすただよへるとき葦牙あしかびの如く萌えあがる物にりて成れる神の名は」(大系1)
 たしかに、感覚的な鋭さがうかがわれますね。
 池田 それは日本人の詩情の原点であるとも言えます。それが日本人の資質であり、個性であるなら、私たちは、かならずしも、規模の小、深刻さの欠之を嘆く必要はない。ただ、私は、決して和辻博士に異論をとなえるつもりはありませんが、日本人が、こうした定説に満足して、密室での美意識の錬磨にのみ精進するのであってはならない、と思うのです。日本的、東洋的な美意識は、文明史の現段階で、人類に多大な寄与をするだろうとも言える。
 だが、私はこれからの世紀を思い、地球文明の将来を考えるとき、日本もまた積極的に、異質の文化と出あい、接触し、豊かさを加えていくべきではないか、と考えるのです。
 根本 たとえば『古事記』のなかに、日本的な美意識の伝統とは異なる要素があった、とお考えですか。
 池田 たいへんむずかしい問題ですね。歴史は不可逆的ですから、かりにいくつかの可能性を認めたところで、どうにもならない。実験をするわけにもいかない。(笑い)
 ただ、こういうことは言えると思います。すでに前回の対談で、私たちは、万葉における民衆詩の可能性が、その後の伝統では空白になってしまった、という事実を確認しましたね。日本的美意識の伝統というものも、異質なものを排除することによって、洗練され、形成されてきたと考えられる。
 私はあえて、原初の日本においては、――『古事記』についてみると、いわゆる無常観とか「もののあはれ」とかいうふうな文学的伝統とは異なる、強烈な生命表現のドラマがあると思いますが。
 根本 たしかに、定説によりかかっているだけではいけないでしょうね。大胆な仮説というのは、専門家にはきらわれがちですが……。そういえば、例の高松塚古墳の発見なども、大きな影響性をもつものでしたね。

1
1