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復古主義を批判する  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  根本 神話などというと、どうも現代では評判がよくない。冷たい合理主義の眼で分析し、否定しなければ科学的でない、というような――私も歴史学者のはしくれですが、そういう極端な傾向には、首肯しかねるものがあります。
 池田 私もそう思います。
 『古事記』なども、私には暗いイメージは、もはや残ってはいません。
 もちろん、現代人として理性の眼でとらえる限りにおいては、当然、非合理性は非合理性として批判されねばならない。
 だが、人間の心の深層、生命の広い深い大海には、理性だけでは把握しきれない何かがある。それは決して理性と背反するというのではなく、ただ、もっと異なる精神の秩序に属するものではないか、ということです。
 はたして、人間の心というものは、どこまで進歩したかという点から考えてみると――神話についても、同じことが言えると思う。
 ですから、元来、神話というものは、理性の所産ではなく、感情とか想像力のうえから生み出されたものであり、そこには古代人の共通の生活的、精神的体験が表現されているとみるべきでしょう。
 根本 根本現代人は神話を解体し、抹殺した。しかしその合理主義、科学主義の徹底が、心の歪みをもたらし、精神の危機を招いているわけですね。
 池田 そう思います。
 とはいっても、決して私は唯心主義のみをたたえるものではありませんし、かつてのような復古主義に対しては、鋭い批判をもちます。とくに戦前の日本の場合、神話が歴史的真実として語られ、崇められてきた弊害が、あまりにも大きい。小学日本歴史の最初から、天照アマテラス大神オオミカミのことが記され、それが万世ばんせい不変の「大日本帝国のもとい」とされていたのですからね。
 根本 歴史的にまったく根拠のない神武紀元が建国の日とされたり――戦前の歴史教育では、『古事記』『日本書紀』の内容が、そのまま真実の歴史として教えられていた。
 池田 『古事記』の一部分だけ切り離して、軍国主義的な、排外イデオロギーに利用されたこともある。
  神風かみかぜの 伊勢の海の 大石おひしに もとほろふ 細螺しただみの い這いもとほり 撃ちてし止まむ(大系1)
 という久米歌の一説もその例です。
 こうした極端な非合理が、戦後、反動として徹底的に批判されたのは、当然かもしれません。現在でも、『古事記』などを、復古的に解釈し、天皇制や神道と結び付けていこうとする動向がないわけではない……。
 ともかく戦前の悪夢を、私はもう一度、経験したいとは絶対に思いません。私はいわゆる戦中派の一人ですが、どれほど多くの青春が、これらの歪められたイデオロギーのために、犠牲になったか――私にも、四人の兄を戦地にとられ、家を焼かれ、身体をこわした記憶がある。ですから、私も初めは『古事記』を否定していたことがあります。しかし今は、心をひろびろと、日本最古の古典として、正確な理解と評価をすることが必要ではないか、と思います。
 根本 古典として、これほど評価が激しく移り変わった例は、ほかにあまりないですね。正史として重んじられた『日本書紀』にくらべて、『古事記』のほうは、徳川時代に国学が振興するまでは、ほとんど顧みられなかった。本居宣長が、詳細な実証研究を完成しましたが、それ自体としては偉大な業績が、古道説の立場から、絶対の真実であるようにとなえられ、神典化する契機ともなった……。
 池田 そうですね。近代になってから、津田左右吉氏をはじめとする文献批判が行われ、神話のベールがはがされていった結果、戦後は歴史教育の場で、まったく無視されるようになってきた。
 根本 正当な評価というのは、なかなかむずかしいものですね。

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