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日蓮大聖人・池田大作

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深い抒情と{雄勁}(ゆうけい)な叙事詩…  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  池田 一つの時代の建設、完成、爛熟、頽廃といういわば仏法に説かれる“成・住・壊・空”にも似たプロセスからは、決してまぬかれてはいない。これは、全体の歌風の展開の流れのうえにも如実に反映されていますね。
 根本 そうですね。雄略(ゆうりゃく)天皇の作と伝えられる巻頭の歌――
  もよ み持ち 掘串ふくしもよ み掘串ぶくし持ち このおかに つまます 家聞かな らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそれ しきなべて われこそせ われにこそは らめ 家をも名をも(大系4)
 という、素朴ではあるが、闊達な建設期のリズムを備えた歌から始まった万葉の時代も、末期には、憂鬱と倦怠のかげりが濃くなっていく。
 『万葉集』の最後をかざるのは、天ざかるひなに不遇をかこつ身の大伴家持の新春の賀歌がのうたですね。
  あたらしき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事よごと(大系7)
 ――ここには、祈りにも似た切実さとともに、何がなし、ある時代の終焉を予感する詩人の悲哀がこめられているようです。
 そして、次の時代に移ると、貴族社会の気風が強くなり、情趣に富んではいるが、技巧的、遊戯的な傾向を帯び、耽溺たんできにみちた境地に入っていくわけですね。
 池田 いちがいに、それを衰弱とか堕落とかいうことはできないでしょうね。それなりに独特のものでもあるのですから。
 ただ、個人的な好みを言わせてもらえば、私はそういう文芸的な貴族趣味には、あまり心を動かされません。
 私はやはり、『万葉集』の、あの直載な、それでいて深い抒情と、率直で雄勁ゆうけいな叙事詩のエネルギーを好もしく思います。
 先ほども言ったように、万葉人にも、苦悩があり、矛盾があり、桎梏しっこくはあったにちがいない。しかし、万葉には、そういう環境状況を直視して、そとへ向かっていく強靭な姿勢がある。厳しい緊張関係をものともしないたくましさがみなぎっている。挫折と分裂を知らない健康さがあると思う。
 根本 現代の精神状況とはまったく隔絶していますね。たとえば、自由ということを考えてみても、現代ほど、あらゆる自由が、制度的に保障されている時代はない。それにもかかわらず、本当の意味で自由であるかというと、どうも疑問とせざるをえない。
 たとえば、言論の自由は確立されているように見えるが、自分の思ったことをあからさまに言えるかというと、そうはできかねる。実際には、社会的な制約もあるし、だいたい、その勇気が湧いてこなぃ。自意識が過剰で、率直な表現をすると、何か恥ずかしいような……。
 池田 それで、わざわざ持ってまわったような、屈折した表現をする――そういう傾向がありますね。そのほうが、より深みがあるような、そんな錯覚がある。

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