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日蓮大聖人・池田大作

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清冽な魂の輝き  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

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1  池田 豊かな自然環境と四季の色彩いろどり、そのなかで古代日本人の詩情は育まれた。おおらかで、伸び伸びとした心のほとばしりが、万葉の歌に結晶したのですね。純粋な心が、多彩な風土と人事にふれて、おのずから詩になったとも言えると思う。全二十巻、四千五百余首の一つ一つからあふれてくる清冽な魂の輝きは、千三百年におよぶ歳月の変遷をこえて、じかに生命の息吹を伝えている。それは「明直めいちょく」と言ってもよいし、また「清明せいめい」とも言えるでしょうね。
 わたつみの豊旗とよはた雲に入日見し今夜こよい月夜つくよさやに照りこそ(天智天皇、大系4)
 という歌の、雄大で、しかも、澄明ちょうめいな調べのように。
 根本 心を洗われますね。それにしても、現代詩歌には、本当に感動を喚起するというものが稀なようですが……私が詩才のない俗人であるからかもしれませんが。
 池田 いや、しかし、私たちのような俗人――平凡な庶民にも感応してくるような詩があってもよいのではありませんか。むしろ、それが真実の詩のありかたなのかもしれない。市の衰退は文化の衰退である、と言われます。現代の詩歌の文学的価値については、いろんな見方がありますが……。
 もちろん現代詩――一般に現代文学も――は、きわめて難解で、やや末梢的な迷路に入りこんでいるといった徴候が見えます。それには、さまざまの必然的な理由があるでしょうが、私にはそういう方向性だけが文学の本筋とは思えない。素人論ではあるけれども、庶民の多くが共鳴し、しかも低俗なものでない、高い品格をにじみ出しているというふうなもの、――それが、文学(詩歌)の理想ではないかと考えるのです。
 根本 現代では、言葉が単に概念を伝達するための道具(記号)と化していると言っていいようですね。機械文明と管理社会の重圧のなかで人間の心が抑圧され、疎外されている。言葉が生きた溌溂さをもっていない。どんな言葉も、口から出たとたんに、何か空虚なものになる五。不信と孤独の索漠たる状況ですね。
 池田 万葉人にも、孤独はあったでしょう。切ない自我の意識もあった。しかし、その孤独や自我意識のなかにも、強い主体的な能動性が、まったく滅尽することはなかったように思うのです。時代背景にしても、すべてが牧歌的な雰囲気につつまれていたわけではない。よく言われるように、『万葉集』の時代である約一世紀半の間の日本歴史は、かつてない激動と変革の時代でもあったわけですね。
 根本 その時代性をよく表している歌があります。
  咲く花の色はかはらずももしきの大宮人おおみやびとぞ立ちかはりける(田辺福麻呂、大系5)
 ――そういう政争転変のただならぬ時代だったようです。中大兄なかのおおえの皇子おうじ(天智天皇)による蘇我氏打倒のクーデターと大化の改新、そして壬申の乱があり、さらに大宝律令の制定にともなう中央集権体制、平城京への遷都、遣唐使、大仏開眼、天平文化等々、この間、内乱もしばしばあり、また朝鮮の戦いでの敗北など、日本史の黎明期であると同時に、現代と類似した変革期でした。

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