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日本人の原点  

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  池田 先日、所用があって大阪を訪れたさい、多忙なスケジュールのあいまを縫って、生駒連峰を見はるかす交野の地に一泊することができました。静かな夜、小さな四阿あずまやで、親しい人たちと心おきなく談笑していると、ふと、そのまま万葉の昔に還ったような錯覚にとらわれましてね。
 根本 そうですか。激務のなかだから、よけいに印象深いのでしょう。
 池田 ちょうど、この旅行のとき、万葉博士と言われる犬養孝氏の著書を携えていたのです。犬養氏は、永年の万葉の旅の経験から、こんな感想を記していました。
 「万葉の故地は、古美術や古社寺のように目にみえる人間の造作物をなにものこしていない。あるものは山河・草木・江海、あるいは近ごろのように人為的に形をかえてゆく景観である」(『万葉の旅』社会思想社)と。
 そしてまた「目に見えないだけに、かえって生き生きと、そこに定着している古代の心をよみがえらせることができる」(同前)とも書かれています。
 根本 なるほど、ことばで造形されているからこそ、古代の抒情がいっそう鮮烈に想像力を刺激してくるのですね。万葉の歌には、地名の出てくるものがじつに多い。時代と風土に、これほど密接に結びついた歌集は、他に例がないでしょう。
 池田 いつの時代にも、その時代の文化を象徴する芸術がある。ホメロスの叙事詩、ミロのビーナス像、ルネサンスの美術、シェイクスピアの演劇などは、いずれも時代の精神や思想を芸術として昇華さ
 せた人類の遺産であると言えるでしょう。『万葉集』は、古代日本人の心、生活実感をありのままに反映したものであり、同時に、それは現代の私たちにも深い共感をよび、憧憬しょうけいの念をそそるものがあります。
 根本 どうでしょうか、万葉に謳われた人間像は、現代人とはまったく異なるものなのか、あるいは本質的には、不変の人間性に根ざしているものなの……。
 池田 人間の心のひだ、、にあるもの、それを表現するのが、詩ではないかと私は思うのですが、万葉に私たちが共感するということ自体、時代をこえて変わらぬ日本人の、いや人間の普遍性をあかしているのではないでしょうか。しかし、反面、現代では、あまりにも多くのものが喪われ、破壊されてしまっている。
 風土にしても、私たちの日常は、それに目を向けるだけの余裕がない。心のゆとりがない。せせこましくなっている。万葉に接して私たちがおぼえる痛切な憧憬の想いは、それだけ現代人の心の実相を明らかにしている。現代の私たちにとって、同時に失われたものがいかに多く、深いかをも想い出させてくれるように思うのです。
 根本 詩が、人間の心のもっとも奥深いところを表現するというのは、同感です中国でも「詩は志のゆくところなり」という言葉がある。心の内にあふれる思念、感情を偽らずに表現しようとすれば、どうしでも詩の形態をとらざるを得ないようです。中国の古典である『詩経』などもその典型ではないかと思います。後に発生する儒教でも、この『詩経』の言葉を用いて哲学的内容を表し、理論を立てています。たんに言葉を借りたというよりは、やはり『詩経』の詩の言葉の裏に、人間の思惟の原点がこめられていたからなのですね。
 そういう意味で、たしかに、『万葉集』には、日本人の原点があるのだと思います。私は日本人の民族性の根底にある特徴を平易に言うと、「素直さ」ということではないかと思う。
 言い換えれば、「あかなおき心」です。この言葉は、戦時中、軍国主義イデオロギーによって悪用されましたが、日本人の性質をよくとらえているように思います。ただし、それが、現在では非常に歪められ、また喪われているのは、おっしゃるとおりです。

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