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日蓮大聖人・池田大作

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古典への愛情について 序にかえて

「古典を語る」根本誠(池田大作全集第16巻)

前後
1  いつも思うことだが、古典というものはまことに不思議な存在である。昨日、今日、刊行される出版物はそれこそおびただしい数であり、そのなかから、これはと思われる書物を選んで目をとおし、それなりの感動を受けるのだが、日が経つにつれて読後の印象はいつか跡形もなく消えてしまう。
 ところが気に入った古典、たとえば『万葉集』という千数百年前の歌集をひとたびひもといて、鮮烈な印象を受けると、その感動は色せることなく余韻を残して、おそらく生涯消えることがない。私はこれまで、このような秘密はいったいどこにあるのかと不思議に思ってきた。そして、近年になって、思いあたる節が、いろいろと多くなった。
 今日、古典とされている作品は、その成立の当初は古典でも、なんでもなかった。まして古典として残ろうなどという野心は、まったくなかったことは明白である。ただ作者の作品に対する一片の愛惜はあったにちがいない。そして、その作品を読んだ読者は、読後の鮮烈な印象から、作者にあったにちがいない。そして、その作品を読んだ読者は、読後の鮮烈な印象から、作者に劣らぬ愛惜の情をいだかざるを得なかった。この愛惜の情は、時代がどのように激変しようと、社会体制がいかに変わろうとも、幾世代を通じて変わることなく持続してきたのである。古代の人間が感動したように、現代の人間もまた感動する。つまり感動の持続が、千年の歳月を経ても色褪せることなく、作品への愛惜の情を湛えて流れ来たところのものが、古典の風格をもつにいたったと私は思う。――まことに文化とは、愛惜の情にほかならぬ。愛惜なくして文化の存在はない。
 このような愛惜の情を起こさせるものが、作品の秘めた力であり、この力を生んだものこそ作者の生命の刻印にほかならぬことを思えば、一個の人間の生命活動の偉大さをまざまざと、私は見るのである。作者の同時代の限られた読者に強力な感動を与えるばかりでなく、後代の無数の読者にもおなじ感動を与えつつ永遠の時の流れにうかんでいく生命の刻印、この刻印の尊貴さに古典の秘密がひそんでいるのであろうと、私は近年、思いあたるようになった。
 この書『古典を語る』で、私は根本誠氏と対談を繰り返したが、その間、いつも愉しかった。それぞれの古典への愛惜の情を語りながら、古典を古典たらしめている秘密、つまり作者の稀な生命の刻印をもとめて、人間精神の無辺の豊かさを知り、無量の感動を新たにすることができたからである。このような機会が、人生において愉しくないはずはない。私はこの書を読む多くの読者とも愛惜の情をわかちたいのである
 『万葉集』『古事記』『源氏物語』『今昔物語集』と順を追って、日本の古典ばかりを扱ったが、これらの古典は今日もなお生きて、わが民族の人間精神の原型がいかなるものであったか、また将来どうあるであろうかを歴然と語って余りあると思うのである。古典の真の理解とは、客観的に冷静に眺めることではなく、じつは古典をいとおしむ愛情こそ不可欠の条件とするならば、古典への愛情の情を鍵として、作者の生命の刻印に率直に迫ることこそ、古典を現代に生かして読むものの、人知れぬ喜びでなければならないと切に考える。
 一読者にすぎない私の古典との心愉しい共鳴が、一書に記録されたのである。あまり鳴り響かなかったかもしれないが、それは、古典に罪があるのではない。問題は私の共鳴板であるが、少なくとも虚飾や先入観を去ったきわめて素朴な庶民の共鳴板の一例であることを知ってほしい。
  昭和四十九年十一月一日   池田 大作

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