Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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幼児と母親学校  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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2  子供独自の世界に入る
 人間の子供は、独り立ちするのに、他の動物とは比較にならぬほど時間がかかる。馬の子は、生まれてまもなく四本の足で立つことができる。鶏の子も、卵の殻をみずから破って出てくると、すぐ二本の脚で歩き、餌をついばむこともできるのである。しかし、人間の子供は、なかなか自分で食事をすることも、歩くこともできない。
 それは、決して、人間の子供が、他の動物の子供より劣っているわけではない。逆に、独り立ちできない未熟な期間が長いほど、より多くの学習をし、可能性を開くことができるのであり、かえって、その期間が短いほど、一定の方向に固定化されてしまうのである。
 人間の子供は、三歳ぐらいまでは、特定の才能を開発するよりも、全人格的に素質を養い、可能性を広げていくことのほうが、大切なのではなかろうか。それには、母親の「人間」としての生きていく姿勢自体が大切になる。
 子供は、たとえ、理性がまだなくとも、経験的に、直観的に親の愛情、生活態度を、真っ白な紙面に刻印してしまうことを、いつも念頭におく必要がある。知らないとか、わからないと思ったら大間違いなのだ。いつのまにか、子供の生命の奥深い部分を形成してしまうのだから、こわいといえば、こわいことである。
 いかなるお説教よりも、親の姿勢が大切であり、そこに、幼児教育のポイントがありそうである。
 子供を育てるにあたって、知識を詰め込ませようとするよりも、創造性を高めていくような工夫をしたいものだ。創造活動の芽生えは、すでに、二、三歳ごろから相当あると思われる。最初に述べた、一歳の女の子にも、かなり創造性のきざしがうかがわれる。
 そのためには、子供が、何に心をひかれているか、興味を注いでいるかということをよく観察することが大切である。大人が、自分の考えを、外から押しつけて、教え込もうとするよりも、子供自身の興味を見守り、極力それをはぐくんでいくようにしてはどうであろうか。
 子供は自分が興味をもったものには、夢中になるものだ。好奇心は、自発的な活動を呼び起こし、創造力に向かっていく。もちろん成長の段階にしたがって、幼児の興味の中心は、異なっていくにちがいない。それを目ざとく見抜いて、それを伸ばしていくように心がけることは、非常に有効であると思う。
 もっとも、子供の興味にいっさい引きずられていくというのも、かえってマイナスであることもある。そこには、けじめをつけさせたり、ある程度のコントロールは必要である。
 私の言いたいことは、子供には、子供独自の世界があり、それを外からでなく、内部に入って、よりよく伸ばし、開花させていくことが、幼児を育てるコツなのではないかということである。
3  ガラスを割った子供
 二歳から四歳ぐらいは、ちょうど反抗期にあたる。自我が、少しずつ芽生えてきた証拠である。このころ、母親は、子供の取り扱いに手を焼くものだ。しかし反抗もしないような従順な子供のほうが、かえって先が思いやられるのではないだろうか。そのころの反抗期は、まず自立の第一歩であり、それは、一個の人間となるための不可欠の基盤でさえある。
 だからといって、それに対し子供の言いなりになってよいというのではない。愛情と温かい理解のもとに、子供自身に、していいことと悪いこと、正しいことと間違っていることを、自然にわからせていくようにすることだ。
 非常にむずかしい時期ではあるが、この時期の指導を誤ると、一生取り返しがつかなくなる。自由放任で、わがままにしてしまったり、逆に、厳しい体罰で萎縮させてしまったりすると、その性格は、ずっとつづいていってしまう。
 三、四歳ごろには、遊び友だちが欲しくなるものだ。二歳ぐらいまでは、母親のもとで遊んでいたが、もうそれだけでは我慢することができず、同じくらいの年の子と、一緒に遊びながら、人間と人間がふれあううえでのルールというものを学びとっていくようになる。このころ、適当な友だちが得られないと、非社会的な性格になり、自閉症になったりすることが多い。
 この時期は、子供をうんと仲間と遊ばせることだ。仲間同士の遊びをつうじて、子供は、親に甘えていたようなわがままを通すと、悲哀を味わうこと、みんなと心を合わさなければいけないことなどを、自然に身につけていくのである。
 三、四、五歳ごろは、社会性を学びとっていく、重要な時期であり、大人たちも、決してこれを軽視してはならない。自分のことは自分でさせるようにすること、他人に迷惑をかけてはならないこと、食事の前にはきちんと手を洗うこと、後始末をすることなど、最も基本的なマナーを教えていくことが大切である。
 ところが、日本の大人たちは、概して、その点を考え違いしているようである。「どうせ子供だから」とあまり意に介さなかったり、あるいは、自由放任でいたり、逆に子供べったりでいることがよいように思ったりするきらいがある。
 これは結局、幼児を軽く考えていることなのだ。幼児をばかにしたらたいへんである。だいたい、五、六歳ぐらいまでに、もう肉体的にも、精神的にも基本的な土台は築かれてしまうからである。
 それに比して、欧米の大人たちは、概して、そのことをよくわきまえている。最近、雑誌かなにかで、アメリカに住んだ経験を語った記事を読んだ。
 あるアメリカ人の五歳ぐらいの子供が、その日本人の家のガラスを割った。アメリカ人の父親は、その子供に、きちんと謝ってきなさいと言い、子供を詫びによこした。ところが、ガラスを割られた当の日本人は、謝りにきた子供を叱らずに、よく謝りにきたといって、むしろほめてやり、お菓子かなにかまで持たせて帰した。
 すると、アメリカ人の父親は、日本人の家へきて、どうして子供を叱ってくれないのだ、叱ってもらうためにやったのに、かえって甘やかしたのでは困ると、談判にきたそうである。この話のなかに、日本の大人たちと西欧の大人たちの、幼児に対する考え方の根本的な違いがはっきりとあらわれている。
 日本の社会は、あまりにも幼児期の子供のしつけに対し、無関心でありすぎるのではなかろうか。幼児はまったく未熟なもの、言ってもわからないもの、無力無能なものとして、軽く考えてきたようである。たしかに、大人の目からみればそうかもしれない。しかし、子供の将来を考え、子供の世界に入って見直したときに、それでは決してすまされないのである。
4  きちんとしたマナーを教える
 子供の自発性を伸ばすことは正しい。自由に、伸びのびと育てたい。過度の干渉は、子供の自由な芽を摘みとるだけである。できれば、自然に成長するように援助するだけでありたい。
 しかし、それだけでよいのかというと、決してそうではない。子供たちの自発性を尊びながら、きちんとしたマナーやルールは、教えていくようにすべきであろう。民主主義の社会に生きる人間をつくるためには、そうした点の指導は、ぜひとも必要である。そうでないと、あとになって、子供自身が苦しむからである。
 ただし、それは、幼児や児童を、上から抑圧したり統制するのではない。子供の生命の中に入り込んで、そのなかから、どうあるべきかを、ともに見定めていくことが、本当の意味の指導、教育である。子供の「人間」の形成にとって、最も必要なことは、親と子の「人間」が一体となり、豊かなハーモニーを奏でていくようにすることではないのか。
 幼児教育について、主として母親の立場をいろいろと述べてしまった。それは、人間形成の最も重要な鍵を、母親が握っていると思うからである。
 ところが、実際には、母親が、幼児の教育に打ち込めない社会的な制約も、決して少なくない。たとえば、共働きをしなければならない親は、同居人がいなければ、どうしても、子供をどこかに預けなければならない。このことを、社会的に、最も重要なこととして取り上げるべきである。
 結局、子供をもつ母親に対し、国から援助を与えることが、その問題の解決の根本になるのではなかろうか。子供を育てることは、母性の使命であり、天職である。それならば、その社会的役割に対して、国が援助することは、当然ではないかと考える。
 それはともかく、そうした苦労をされているお母さん方に、私は、たいへんであろうが、できるかぎりお子さんと接し、その間だけでも、深い愛情と理解のもとに、大きく、強く育てあげていってほしいと願わずにはおれない。
 最後に、幼児にとって、健康が最も大切であり、それに勝る宝はないと思う。どうか二十一世紀の未来のために、立派なお子さんに育てていただきたい。
 死んでいる実態が報道されていた。原因は、人間が使った農薬に含まれる多量のディルドリンといわれる。
 鳥は生物のなかでも、最も敏感に環境の変化に影響される生物として有名である。それだけに、われわれの住む生活環境が、すでに鳥には適さなくなっているというこの事実は、人類の未来を暗示するものとして衝撃をもってみられたものだ。
 このままでいけば、あるいは人間たちは、宇宙の涯で、ただ独り愚かにも叛逆する孤独な存在になりかねない。否、人間がみずからの思慮なき欲望に翻弄されたままでいるとするならば、みずからの生存環境すら死滅させてしまうことにならないだろうか。
5  数年前、私は飛行機の窓からアメリカの大平原を眺望したことがある。
 それはまことに渺々たる広野であった。一種の砂漠であるが、ゴビやサハラのような砂地ではなく、まったくの荒れ地である。それが今でも鮮烈な映像となって網膜に焼き付いているのは、行けども行けども赤味を帯びた原野が、はるか地平の彼方へまで広がっている、その広大さであった。
 そのとき私は、雄大な自然の本姿に目を奪われる思いがしたが、後日、この大赤土がかつては青々とした草木を豊かに茂らせていた沃野であったことを聞き驚いたのだ。さらに、この砂漠ができるまでの経過を知らされたとき、一瞬慄然とせざるをえなかった。
 アメリカの大平原は昔、豊富な草木と野牛やリス、オオカミ、プレイリードッグたちの楽園だったという。野牛やリスは草木を食み、肉食のオオカミは彼らを追った。穴掘りの得意なプレイリードッグは、草原を巧まずして耕し、原住のインディアンは野牛を捕獲して、平和な暮らしを営んでいたという。
 ところが近代に入り、白人が文明の利器、銃を持って進出しはじめて以来、この自然の楽園は一変してしまった。皮をとるために野牛を殺戮し、家畜を守り増やすためにオオカミを殺し、プレイリードッグたちを駆逐した。
 今や敵のいなくなった牛や羊などの家畜や昆虫は、そこでわが世の春を謳歌したにちがいない。そして平原では、彼らの大繁殖が始まった。
 ところが、自然の摂理の厳しさか、繁殖しすぎた彼らは、食物を求めて草木を食べ尽くし、根までも掘り起こして漁ってしまった。プレイリードッグのいない大地は硬くなり、水分さえ吸収できなくなってしまった。
 その結果は歴然としている。ふさふさと生い茂った緑の大平原は、みるみるうちに荒れはて、ついには一本の草木もなくなった。生きる糧としてきた野牛を失ったインディアンも衰退する以外にない。そして家畜や昆虫の束の間の繁栄のあとには、もはや回復の余地のまったくない、ただ荒寥とした不毛の砂漠だけが、限りなく広がっていた――。
 躍々とした生命の輝きを秘めていた大平原は、人間の愚かさを嘆きながら、ついに死んでしまったのかもしれない。このアメリカの砂漠の生成過程は、私にはなぜか人類がこれから踏み入ろうとしている未来への道程にも感じられてならない。いつまでも調和を考えないで――欲望にのみ耽っていたのでは草の根まで食い尽くした昆虫たちのように、地上のあらゆる資源を掘り尽くし、やがては地表のすべてを茫漠たる砂漠に化してしまうにちがいない。
 もとより、人間から旺盛な欲望を除けば、たんに自然に盲従するだけの存在になっていたことだろう。また、これまでの歴史をみたとき、人間は、ただやみくもに本能のおもむくまま自然や環境を破壊したというものでもなかろう。そこには飢えと渇きから脱出するための必死の対決があったことは疑う余地はない。――その欲望のゆえに、今日のような進歩と発展をみたことも、まぎれもない事実ではある。
 しかし私はここで、バランスを忘れた人間の欲望が、バランスの欠けた奇形の繁栄をつくっている現実を謙虚に反省したいのだ。それにはまず人間自身が、あらゆる生物で構成されているピラミッドの頂点に立っているという傲慢な考えを改めねばならない。宇宙自然の膨大な生命群は、それぞれ微妙な全体の連関の環の中で成り立っている。人間もその壮大な見事な環をつくる一員である。ゆえに人類は、この自然を友とする、本来の自己の存在の原点をもう一度かみしめる時期を迎えた、といっても決して過言ではあるまい。

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