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日蓮大聖人・池田大作

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三人の息子と私  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
2  自分を発見するきっかけ
 今さら、私が言うまでもないことだが、教育の根本は、一人前の人間を育てることが目的である。もちろん、技術者とか、学者とかいった専門の知識や技術を身につけさせることも、当然、教育の使命ではあろう。だが、それらも、一人前の自立した人間を育てるということが大前提となったうえでのハナシで、この前提を忘れた教育は、土台のない家のようなものである。 なかんずく、家庭教育──の重要さは、この人間教育という点にあるといえまいか。家庭教育が、知識とか、技術とかいう以前の、生活の基盤であることは、人生の根底をなす規範を学びとる、最大の場であることを意味する。しかも、そこで教えてくれる“教師”は母親であり、兄たちであり、父親である。お互いに、気心は知りつくした仲であるわけだ。ともあれ、その全人格的なふれあいのなかにあって、初めて人間教育は成り立つものと、私は思っている。
 少し話は、硬いところへいってしまったが、ついでのこととして考えてみると、教育が、一人前の人間を育てることを目的とするというのは──まず、自主独立の精神という問題に結びつく。その意味で、「自分の欲しいものは、自分で働いて買うように」と、次男に教えたことは、正しいと思うのである。
 よく教育ママが批判の的になるが、母親の教育熱心というだけならば、なにも非難さるべき問題ではない。ただ、最も大切なことは、子供の自主性、独立心を犠牲にしてまでも、母親のエゴイズムや固定化した考えのもとに、束縛したり、芽を摘んでしまう、その行き方に問題があることを忘れてはならない。
 もとより、子供がどんな才能や特質をもっているかという観点からすれば、子供自身よりも、母親のほうが、早く、正しいものをつかんでいるかもしれない。いうなれば、仮に母親の目のほうが早く、正しく、それを見抜いていたとしても、子供みずからが、それを発見し、はぐくんでいくことが望ましいと、私は考える。というのは、自分を自分で発見すること自体──他の何ものにも代えられない、貴い価値をもつからである。 自分を発見する──といえば、中学一年になった三男坊は、天文観測に無我夢中である。そのきっかけになったのは、三年ほど前、ある親しくしている方から、次男にと、天体望遠鏡を贈られたのである。それで、土星の環を見た三男が、すっかり興奮してしまった。
 やがて、もっと本格的に観測できる望遠鏡が、どうしても欲しいというので、専門店へ連れていった。三男坊が即座に指さした望遠鏡は、どうやら本格的なもので、専門的な観測にも、耐えうるものだったらしい。 どうせ、飽きて放り出すのだから、おもちゃ代わりの安いものにしなさい──と、妻の反対は強硬である。三男坊のほうも、頑として聞かず、しまいには、その望遠鏡の前に座り込んでしまう有り様である。
 間にはさまった私は、なんとか双方を説得し、中間的なところに収めようとしたが、調停に失敗。私自身も、土星の環を見て、かなり心を動かされていたこともあって、妻を説得して、とうとう、その望遠鏡を買ったのである。親切な店員が、その有り様を微笑を浮かべて眺めていたのを、今もって忘れられない。
 それからの三男坊の、天体観測に打ち込む情熱は大したものだった。天文学の専門書だけで数十冊もそろえ、母親に学校の勉強は、どうするのと叱られながらも読破している。星の光度やスペクトルの表を、ひとり夢中で読んでいる。彗星や星団が出たなどというときには、冬の真夜中であろうと、起き出していく。
3  長男で心配したこと
 私は、そうした何か、打ち込めるものをもつことは、大いに結構なことだと考えている。とくに、少年時代は、好奇心が旺盛である。それは、学校教育という枠からはみだして、際限なく伸びていくことが多い。大人は、しばしば、自分の既成概念から、そのような芽を摘みとろうとするが、それは、かえって子供の性格をゆがめてしまう恐れがあろう。
 少なくとも、悪いことでないかぎり、子供の人格を尊重し、存分に伸ばしてやるのが、正しいと私は思っている。そういう経験のなかから、本人にとっても、最もふさわしい才能の芽が伸びようし、人生をより幅の広い、豊かな、実り多いものにしていくのではないだろうか。
 ところで、長男について私が心配していたことは、健康のことであった。勉強はまあまあ好きのようであるが、それがかえって健康を害してはいけない──そこで、私は、成績はどうでもよいから、運動をして、身体を鍛えておくように、と勧めている。今は、みずからも、自発的にクラブの合宿に参加し、励んでいる。 健全な精神に、健康な肉体──これは古代ギリシャ以来の理想であるが、とかく、わが国の教育は、身体の健康については第二次的に考える傾向があるようだ。東京をはじめとして、日本のいずこの都市へ行っても、だれでも自由に、気軽にスポーツのできる施設は、ほとんどない。
 かつては、裏通りといえば、子供たちにとって、格好の遊び場であったが、現代では、やたらと自動車が入ってくるようになった。車体を電柱や、へいにこすりつけるようにしながら、しかも、信号がないため、ひっきりなしに走るので、表通りよりもはるかに恐ろしい交通事故の名所になっている。子供たちにとっては、まさに地獄の一丁目であり、遊びどころではない。
 ようやく、近ごろ、所によっては、自動車の通行止めをして、子供が遊べるようにしているようだが、そういう運動は、もっともっと幅広く進められてよいのではないか。
 理想をいえば、自然のよさをそのまま生かした遊園地が、あらゆるところに設けられることが最も望ましいのだが、それにいたる暫定的な措置としても、子供たちが、青空の下で、思うぞんぶんに走りまわれる裏通りは、ぜひ、欲しいと思う。
 これも以前からの私の主張だが、子供は、子供だけの世界をつくって、そこで、いろいろなことを学んでいくのである。どんなに理想的な家庭環境をつくっても、子供同士で学んでいくものは、大人の手では与えてやれない。 近所の、似たような年ごろの子供とのふれあいのなかで、対等の人間的な接し方──言わば、社会生活の雛形を経験することであろう。そこでは、互いにケンカをすることもあるだろうし、派閥のようなものができるかもしれない。だが、どのようにして、ケンカしている同士が仲直りするか、人間関係を円滑に保つには何が必要か……といったことも、そういう経験を通じて、初めて自然に学びとることができるのだ。
 子供たちが、生きいきとはねまわり、遊んでいる光景をほとんど見られなくなった、この東京という巨大都市に、ふと私は思わずにいられない。──それは、そうした無味乾燥な環境が、大人たちの心までも、知らずしらず、荒んだものにしていっているのではないか、ということである。
 子供の無邪気に遊ぶ姿には、人間の無垢な生命の輝きがある。それを目にするのは、大人にとって、限りない潤いである。まして、その子供たちが成長していった未来の世界を考えるなら、公害問題に端的にあらわれているような、緑の自然の破壊や、あるいは古い文化財の喪失といったことは、考えるだに恐ろしいことだと、だれでも気づくのである。
 この世界は、現在の大人たちのためにあるのではない。むしろ、未来の世代である子供たちのためにこそあるのだ。教育とは、この未来の世代をいかに育てるかを主題とするわけであるが、今は、文明全体の姿勢をこの未来のためという方向に、抜本的に転換させるべき時がきていると、私は思う。
4  子供は未来からの使者
 「わが家の教育方針」──という、ささやかなテーマから、思いがけず、大きいテーマに発展してしまった。子供の関心が、社会から宇宙にまで広がっていくように、家庭教育そのものも、文明全体の広がりのなかでとらえざるをえなくなってきている、時代の趨勢なのかもしれない。
 ともあれ、拡散しすぎたこの拙文を、どこかに核を求めて、凝縮するならば、それは、子供の人格を尊重するということになろうか。子供は、たとえ世の中も知らず、人生のなんたるかも知らなくとも、この世に生を享けたからには、それだけで、すでに一個の人格なのである。
 「子供は未来からの使者である」という言葉を、なにかの本で読み、なるほどと感心したことがあるが、まことにそのとおりである。この使者が、より以上に人格を築き、自己の使命を果たせるように、十分な条件をととのえてやるのが、親の責任であり、社会の役目であるが、その使命というものに、干渉したり、それを抑圧する権利は、たとえ親といえども、与えられていない。
 教育というものは、ここに視点をすえていけば、いっさいが生きていくのではないだろうか。

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