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日蓮大聖人・池田大作

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天災と人災――人間の安全性を忘れた“ア…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  九月一日がやってくる。関東大震災から四十九年目の、その日である。
 昭和生まれの私は、この震災を知らない。しかし少年時代、今は亡き父親から見せてもらった数枚の写真には、子供ながらも愕然とし、その凄惨な光景が、眼底に強烈に焼き付いていつまでも離れなかった。
 それは、東京・本所の被服廠跡の避難民の悲惨な有り様をおさめた写真である。一枚は、紅蓮の炎のなかを、蒲団や家財道具を背にして幾万もの群衆が逃げまどう写真であり、その他に焼死体や水死体が、広い空き地いっぱいに放置されているものであった。静止した、それらの光景の背後からは、安全と無事を信じて避難してきたにちがいないこの場所が、一瞬にして、阿鼻叫喚の地獄と化し、罪なき庶民の断末魔の呻吟が、鈍く、鋭く聞こえてくるようでならない。“無惨”の一言を噛みしめる思いであった。
 この震災での死者は六万人。そのうち、地震そのものによる圧死者は、わずか二千余人。死者の大半が、地震という天災のあとに発生した、火災によってもたらされたというこの事実。
 先日、東京都防災会議が発表した調査報告書には、このようにあった。たとえば、冬の夕食時に、風速十二メートルで、関東大震災なみの地震が起きたら、五十六万人の焼死者が出るであろうというのだ。それも出火原因を台所の火に限ってのことであるという。
 最近は、冬期間の石油ストーブの使用も多い。東京の石油ストーブの保有台数が、約三百四十万台。その一パーセントが出火原因となっても、一時に三万件の火災が発生する計算となる。
 地震そのものの予知については、今日の科学では、ほとんど不可能に近い。せいぜい、震源地からの距離によって、わずか十秒程度前に警報を発することが、限界であると聞いている。
 防災としては、連動して起こる火災による被害と犠牲を、いかに事前に、また最小限度に食い止めるか──にあるといってよい。それすらもできず、放置されているとすれば、これは為政者の怠慢と責任であり、このゆえに起こるところの人災は、天より厳しく糾弾されねばならぬであろう。
 とくに、東海道メガロポリス等、過密地帯を抱えた太平洋沿岸では、本格的な防災対策をしないかぎり、この災害は、天災よりも人災としての被害が、甚大になるであろうことは想像に難くない。
 人口の集中も、経済成長も、人間の安全性を忘却して成立するのであれば、それはアニマル政治といってよい。
 口に人間尊重を唱えながら、民衆の危険を傍観している政治家のアニマル性こそ、厳しく監視しなくてはなるまい。

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