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日蓮大聖人・池田大作

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遊び――人生を、けじめと創造の心で  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  小学校時代の楽しい思い出に、授業の合間の休み時間がある。大勢の友だちと一緒に、校庭いっぱいに走りまわったり、チームを組んでは、対抗意識を燃やしたりする。あっというまに休み時間が終わってしまう。しまいには、勉強よりも、休み時間の遊びが楽しくて、せっせと通学をした時代もあった。 当時は、始業のベルをどれほど痛恨に思って聞いたことか──。今から思えば、授業開始のベルが、生活にけじめをつけてくれたので、その余韻がかえって楽しさを倍加してくれたことがわかる。現代の複雑な社会生活にあっては、ますます生活のけじめが大事になってくるのではなかろうか。
 余暇時代という新語が出てから、かなりの時間が経過した。勤務時間が短縮され、働く人が人生を愉しむ余暇が増えることは大いに結構なことだ。たしかに、昔は、暇があるのは、一部の富裕な階層に限られていた。そのうえ「稼ぐに追いつく貧乏なし」などとおだてられ、封建時代からの名残として、勤勉は善、遊びは悪という観念が植えつけられたりしたが、こうした価値観も今日では崩れ去ったといってよい。
 “遊び”には二つの意味がある。『大言海』によると、一つは「己が楽しと思うことをして心をやる。心のゆくわざをして楽しむ」、もう一つは、「職業にありつかずしてあり。為すことなくてあり」と出ている。
 “遊び”のなかには、人に強制されない自由がある。ルールを決めて、その範囲では、参加した人はまったく平等である。人間疎外の現実社会にあって、人間らしさを確かめあう時間、活動はこれしかないと思うのも無理からぬことであろう。
 しかし、遊びそれ自体を目的とするのは、間違いであるという見方もある。仕事は生活のための道具であり、適当にやって、できるだけ遊ぼうという型は、案外に少ない、と統計には出ているようだ。むしろ、仕事、遊びの併存型や、仕事のためにエネルギーを蓄積したいという型が、多いというのである。その統計を見て、ある学者が、やはり大衆の志向する健全性を見る思いがしたと言っていた。
 “遊ぶのはよいが、遊ばれてはいけない”とよくいわれる。遊びを楽しめることが必要なのであって、けじめつかずに流されてはいけないという意味らしい。
 虚無的な遊びは、結局、疲労と悔恨、そして悲哀が残る場合が多いだろう。
 仕事にせよ、“遊び”にせよ、最も生きがいを感ずるのは、人間らしい知恵を発揮して、何かを創造していくときであるらしい。

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