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日蓮大聖人・池田大作

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先駆者――十和田開発に賭けた新渡戸伝の…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  先日、十四年ぶりに十和田湖を訪れる機会を得た。
 藍色に染めて、水を満々とたたえる雄渾な湖、新緑萌ゆる奥入瀬の渓流、田植えを終えたばかりであろう無限に広がる田園、すべてが平和であった。
 なかでも、三本木原台地(現十和田市)に開ける天空の下にある田園の風景は、至極の旅情を誘うものであった。緑の絨毯を敷きつめた水田を眼前にしたとき、そこはかつて水がないため「南北二里、東西十里、その間樹木一本も見えず」と酷評されたという、荒々しい不毛の原野であったとは今ではとうてい想像もできない。 先覚の鋭い英知は、荒れ果てた当時の大自然に向かって、勇敢に挑戦したのであろう──その名は、南部藩士・新渡戸伝である。
 今をさかのぼる百二十年前の安政二年、荒涼たる不毛の三本木原台地の開拓のため未開の難事業に取り組んだ。もちろん私財を投じて、運を天にまかせての勝負である。
 まず彼は、奥入瀬川を水源とする人工河川を、十三キロにわたって切り拓いた。水のない原野に清々とした水を引き入れることから始まったらしい。四年間に及ぶ大自然との血涙の日々の戦いは、ついに彼の熱意に凱歌が上がった。荒廃した大地からも四十五俵の米の収穫の歓声がわき起こったのである。さらに、開田事業は、新渡戸父子一体の事業となり、明治年間には民間会社が、そして昭和年間には、国が引き継ぎ、昭和三十五年にようやくその終止符が打たれたようだ。先覚の情熱は百年という未曾有の長期の大開拓事業をなさしめたわけである。
 この輝く成果は、言うまでもなく、三本木原台地をして、青森県有数の米どころへと、見事に変貌させている。
 思うに、先駆者の一生ほど、厳しい過酷な人生はあるまい。新渡戸伝の生涯も、決して平坦な道ではなかったろう。失敗の連続であったかもしれぬ。むしろ挫折との戦いの背水の陣の日々であったろう。それは十和田湖へヒメマスを養殖した和井内貞行の一生にも通じていえることである。
 先駆者の先駆者たるゆえんは、一歩も退かない確固たる姿勢である。苦難があればあるほど、不屈の闘志を燃やして、目的の山に立ち向かう信念の持続であろう。これは歴史の先覚者のみが知る苦悩と栄光であるかもしれない。
 陸奥の旅行は、有意義であった。

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