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日蓮大聖人・池田大作

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高松凌雲――日本赤十字誕生の隠れた功労…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  函館の夕暮れは、曇天も晴れあがり、陽光燦々と眩しいほどであった。六月十一日、五年ぶりの訪問である。五稜郭の赤い欄干もことのほか鮮やかに映り、去来する人の姿も黄金の夕日に輝いていた。堀の土手に咲く“つつじ”も絢爛と咲き薫り、どちらかといえば斜陽といわれている函館の街を、一瞬、栄光の未来を志向するがごとく、守っている光景であったといってよい。
 閉館間際の函館博物館五稜郭分館に、大急ぎで入った。さほど大きくない資料館である。陳列品の数もさほど多いとはいえない。しかし、その数の少ない一つ一つに、深く懐かしい思い出の歴史がただよっていた。温良な係長が、一つ一つの由来についてわざわざ説明してくださった。その初老の係長の額の皺にも、記念館の歴史と同じく、深く長い人生の歴史を見る思いであった。
 とくに、係長が力を入れて説明してくれたのは、箱館戦争のときの仲介役である、高松凌雲のところである。その記録には、
 「凌雲は品川に碇泊中の海軍副総裁榎本武揚と連絡をとり、まさに出帆しようとするとき、徳川慶喜のお供を仰せつけられて、水戸表詰めを命ぜられたが、一身上の利害を超越してついに榎本武揚らと行動を共にすることに決した。仏蘭西よりたずさえてきた最新式の外科器械を持って開揚艦に乗船し蝦夷地に向け一路北進した」とあった。また「──宮古湾の海戦と官軍の乙部上陸などにより負傷者は激増し、再び高竜寺をもって分院とした。凌雲は欧州遊学により赤十字条約の精神をよく承知していたため、病院には脱走軍の外にも、各地の戦いに負傷した官軍の将兵をも収容した。これは日本赤十字の初めであった」。
 恥ずかしいが、私は、高松凌雲についての知識がなかった。このような隠れた大功労者を、はるかに宣揚してこそ、生きた歴史の事実が輝くのではないかと感じたのは、私一人ではなかったと思う。とくに、彼が欧州留学中に持ってきた外科用のメス十数点に、彼の精神が鋭く生きているようであった。
 徳川慶喜が、凌雲に贈ったという『至誠一貫』の書に、しばし足をとどめ、この不運な将軍の内奥の響きを見る思いがした。凌雲の余生が、歴史を転換させた功労の旗を下げ、貧困な患者のために崇高な八十一歳の生涯を送ったという説明は、私の耳朶から離れない。
 帰りに函館山に登る。雲を払いながら太陽は函館の街々を照らしていた。函館の町に栄光あれと祈るかのように。

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