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日蓮大聖人・池田大作

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二人のカメラマン――身体のハンディを克…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  最近、私も素人ながらカメラを手にすることがある。それはカメラが現代の庶民文化の先端であると思っているからである。
 ある著名な写真家と、一夕、語った。そのとき、写真家は、仕事がら、たくさんの愛好者と接することがしばしばあるが、なかでも、今もって忘れられぬ二人のカメラマンがいると、珍しいエピソードを語ってくれた。それは、聾唖者のカメラマンと両手先のまったくないカメラマンのことである。聾唖者は、何かを教わる場合、すべて筆談という手段に頼っていたが、その労苦に少しもヘコたれず、莞爾として、写真を撮りまくっていく。その振る舞いは、だれよりも鮮やかであり、まったく写真に自身の生きがいを見いだしているようであったという。 さらに話し好きのプロは、愛弟子をいとおしむごとく──両手先のない人の姿を語りつづけた。彼は、不自由な手でカメラを構え、これまた不自由な手で、ツボをはずさずにシャッターを切っていく。五体満足の人々よりも、その挙動は、すばしこく見事であったというのだ。レンズをのぞく、その表情も屈託なく、器用にカメラを手玉にとっている様子は、まさに手品師を連想させた。
 しかも二人の撮った写真を見ると、構図といい、センスといい、じつに素晴らしい。目に見えてグングン上達していく。むしろテンポは、常人より早いくらいだ。被写体のとらえ方も鋭く、真剣であったと話を結んでいった。 ──身体の欠陥が、二人の心にコンプレックスを生み、その反作用が、写真撮影の技術や感覚に、人並み以上の鋭さを与えたといえば、それまでであろう。
 だが、これはあまりに通俗的な見方ではなかろうか。二人のアマチュアには、常人を見返してやろうという、功利的な打算は、おそらく微塵もなかったにちがいない。ただ心の奥底には、真剣の二字と生きがいの探索があっただけだろう。
 けだし、一流のプロの心を強くゆさぶったものは、肉体的なハンディに屈することなく、虚心坦懐にカメラセンスの錬磨に取り組んでいった、真摯な二人の飾り気のない姿であろう。この虚飾のない、意欲的な執念が、結果として、常人をしのぐ腕前をつくりあげたにちがいないと、私は思った。
 ともあれ、いかなることでも、自分の信ずる道を、忍耐強く、闊歩していく人生は、美しく、感動的だ。そして、人々の胸を打たずにはおかない何かがある。

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