Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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一書の人――筋金が入った人生の支え  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  読む読まないは別として、私は、本を集めることが好きである。今でも、暇をみて書店の立ち並ぶ神田へも、時々、足を運んだりする。そのたびに二十年前のことが懐かしい。
 それは戦争直後のことであった。世の中は、言語に絶する耐乏生活の最中である。海苔製造を営んでいたわが家は、物々交換もでき、多少のゆとりがあったようだ。十八、九歳の青年であった私は、お金を懐に入れ、めざす神田へと本を買いにいった。
 足を棒にしながら、何軒もの本屋をのぞきまわり、やっと求める本を安く発見できたときは、意気揚々として帰ったものである。それより数年というものは、とくに足繁く、夜の神田の本屋を眺めるのが、習性のようになっていた。
 ある春の朝、当時、病弱であった私は、日向ぼっこをしながら本を開くと、「君よ、一書の人たれ」という語句が、強烈に眼底に焼き付いた。
 私もこれは正しいと思った。一書を精読し、深く掘り下げていくこと、すなわち“一書の人”となることが、きわめて枢要な読書法だということを。 一冊の本が、どれほど一人の人間に、大きな影響を与えるかは、計り知れないものがあるだろう──大文豪のゲーテにしろ、トルストイにしろ、“一書”バイブルをもっていた。それが、その人生を確固と支え、あの重厚な大文学の礎となっていったことは有名な話である。
 この方程式は、平凡な私たちにも、通ずることだ。何を一書とするかは、各人の自由であろう。一冊の書物を、幾百回となく読みこなし、自分の血肉としたり、それを生活に応用していくことは素晴らしいことにちがいない。
 現代のように、目まぐるしく激動する思想のなかにあればあるほど、つねに自己の視点の位置を見失ってはなるまい。それを支える深さは、やはり一書の人となる以外にないとも思っている。
 一書に精通し、一書を人生の根幹におくことは、しょせんは万書に親しむ波動を起こすにちがいない。つねに書物を手元におき、それをひもといていける人は、少なくとも物事を深く思索する土台を備えているといっても、よかろう。
 「書籍なき家は、主人のなき家の如し」とは、ある哲学者の言葉であったと思う。一書の人は、人生に一本筋金が入っているように、強くして崩れない。

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