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日蓮大聖人・池田大作

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善意――「だまされてもよい」というゆと…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  近ごろでは、核家族が多くなったせいか、昔のような嫁と姑の悲惨な話はあまり聞かなくなった。
 家が崩壊して、家風とか、格式というもので拘束されることがなくなってきたし、主婦の座をめぐる主導権争いも、それほど必要がなくなってきたのであろう。
 しかし、嫁と姑の、微妙な心理的葛藤を見事に浮き彫りにした有吉佐和子の『華岡青洲の妻』などを読むと、それは、本能にちかい人間心理のようにすら思えてくる。とくに、それが家庭という狭い枠に閉じこめられたとき、よけいに陰湿であり、醜悪な人間関係を生じていく。そして、苦しむのは自分自身であり、双方が傷つきあうばかりである。
 嫁、姑の問題ばかりではない。職場のなかでの女性同士、社宅や団地に住む奥さん同士という女性ばかりの生活圏のなかには、この嫁姑の変形した人間関係が生じやすい。閉ざされた環境のなかで、相手のミスを許さない厳しさは、勝ち誇ったシャモにも似て、人に嫌悪感をもよおさせるだけであり、エゴイズムの塊を見る思いがする。善意を忘れた人間関係ほどわびしいものはない。現代人は、すさんだ世相のなかに、この善意というものを、心のどこか片隅に、押しやってしまった。ゆえに優しき眼が少ない。
 人間の善意というものは、たしかに、時としては、きわめて間が抜けたものにみえる。この世知辛い世の中に、善意だけで生きようとしたら、それは不可能かもしれない。 だが、精密機械のように計算しつくされた人生ほど、貪婪で味気ないものはあるまい。計算外のことが起こるところに人生の面白味があり、そこに人間味が顔をのぞかせている場合が多いのだろう。
 怜悧な、利害打算の多い世の中にあって、もっと無償の行為があってよいのではないかと思う。だまされまいとするあまり、人間らしい善意の芽生えすら摘み取ってしまっては、味気がなさすぎる。
 善意は、人間関係の潤滑油だ。姑は、嫁にだまされてもよいぐらいのおおらかな気持ちをもてば、それは、いつしか信頼に変わっていくであろう。先輩が後輩を厳しく叱ることも、時には必要であろう。しかし、それは信頼関係のうえに立ってこそ、初めて価値を生ずる。相手の身になって思うところに、善意も通ずるものである。
 ともあれ、利害を超えた善意の通ずる世界こそ、だれしもが望み、願っているのではなかろうか。

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