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日蓮大聖人・池田大作

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うわさ――耳を傾けたい、一女子学生の切…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  先日、ある地方紙に「うわさの恐ろしさ」という、投書が掲載されていた。一女子学生の切々たる声である。その内容はこうであった。
 「うわさはずいぶん無責任なものだと思います。私の友だちがちょっとしたことで足の骨をいためたのをみた人が、あれは流産してかつぎ込まれたのだといううわさを流しました。それを耳にした友人はびっくりして泣き出してしまいました。
 うわさをする当の本人はおもしろ半分に何の気なしにいったにしても、うわさされた人にとってはどんなに大きな精神的打撃を与えるかはかりしれないものがあります。(中略)
 私自身も過去に何度か身に覚えのないことで人から白眼視されたことがあります。うわさというものは一般に悪意に満ちたものが多いようです。それだけに受けるショックは大きいものです。
 俗に“火のない所に煙は立たぬ”といって、うわさには、大なり小なりその根拠があるといわれるでしょうが、うわさを流す人が、煙を持ち運んで来るのもまた多いように思います。(中略)
 何の根拠もない、いやしい想像だけで、ものをいうほど恐ろしいことはありません。立場を変えて自分が根も葉もないことをいわれた場合のことを、その人は反省してみたことがあるでしょうか」
 私は思った。“うわさ”というものは、狡い大人の世界の副産物であると考えていたが、清らかにして快活な青少年の世界にも痛ましくもあるものか、と。
 そういえば、私の小学生のとき、一人の生徒が硯を盗まれたことがあった。“うわさ”は、ある貧しい生徒に注がれていた。私は、その生徒の家の近くでもあり親しい。いまだ若いが、老けこんで見える母の耳にも入ったのであろう、友だちは叱られて泣いてきた。「ぼくは絶対に盗らない」。泣きあかした正義の目は光っていた。悔しかったのであろう、友だちはいつの日か無口に変わっていった。その後のことは、いつしか忘れ去っている。 “うわさ”をつくることは、興味からでもあろうが──とかく、一つの、人間としての卑怯さから出る場合が多い。自己の不利を転嫁するために、人の優位を妬んで撹乱のための策として、真正面に立って、堂々と戦えぬ小才子のとる術なのであろう。
 ともあれ、清新の日々を築きゆく少年たちを“うわさ”で苦しめたりしてしまうことは、痛ましいかぎりである。純粋な胸に傷をつけたり、ある淵に追いやっては絶対にならない。大人も教育者も留意したいものだ。
 (昭和四十六年三月二十八日「大阪新聞」掲載)

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