Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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看板――人間のつくったものが人間を疎外…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  土肌は、都会にあっては、ほとんど見られない。堀端や川の土手の側を通るとき以外には、眺めることができなくなった。 冬の枯れ草の間から、新しい薄緑の生命の芽が萌えはじめ──子供たちが、摘み草のまねをしている姿も、いじらしい。春の風景が広がっているのだ。
 そのみずみずしい緑も、都会の砂塵は、一日で、薄汚れたものにしてしまう。
  街の音 とぎれる間あり 草萌ゆる(汀女)
 「下萌」とか「土手青む」といった言葉自体が、色彩的にも、実感として失われていくことは、まことに惜しい気がしてならない。
 複雑な街のたたずまいなどは、普段歩いていても、あまり感じなくなった昨今ではある。だが、改めて見直すと、なんとも異様なものに思えてならないものがある。それは看板の種類の多いことだ。その色彩の雑多なことは驚くばかりである。
 おそらく、これら看板のデザイン関係者たちは、数あるなかで、いかに特色を出そうかと、さぞ苦心されていることであろう。だが、刺激の強い色が、多くなればなるほど、街ゆく人にとっては、慢性化してしまい、今では、都会人は色彩不感症になっているのではないだろうか。ここにも、人間のつくりだすものが、人間を疎外してしまうという環境が、いつしかできあがっている。
 ヨーロッパの街並みの美しさは、早くより都市そのものの美を意識して、規制を行ってきたことによるようだ。パリの凱旋門から、放射状に走る道路、シャンゼリゼの大通りも、赤色のネオン使用は禁止されていたと思う。たしか白一色に統一されているように記憶している。
 他人からの干渉を嫌い、個人主義の徹底している国でありながら、こうした規制はきわめて厳格に守られている。
 発生の由来をもたぬ模倣文化は、根なし草のように、どこかにその貧弱さを露呈してしまうものだ。これほど美しい、四季の自然をもつ日本の風土を、もう一度、見直したいものである。とともに、アニマル的な欲望追求のみが生んだ現代文化というものを、もう一度、自然の原点に立ち戻って、築き直さねばなるまい。

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