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日蓮大聖人・池田大作

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松竹梅――平和の生活のなかに“風流”を…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  一九七一年――新しい年が明けた。たれびとも、清澄な心情で、この元朝を迎えたにちがいない。
 「時」の淡々たる、悠久の推移からすれば、「ある一日」の夜明けともいえようが、やはり、一年の最初の朝――元朝は、人間の心に、それなりの意義を誘うものである。
 家々の門に、緑鮮やかな松と竹。子供たちの高声、年賀にまわる正装の人波。日本髪、振り袖姿も艶やかな乙女。いずれも元日でなければ見られない、初々しい雰囲気をかもしだしている。
 古来、「松竹梅」は、正月の風情と風習のなかにあって、庶民に親しまれ慶事の装い品とされてきた。これこそ縁起を祝う三友であり、最もめでたい組み合わせである。それは、「鶴亀」と並んで、古く王朝文化の奈良時代より、祝い事に使用されてきたという。
 松は緑の色をいつまでも変えない。竹は生長が早い。梅は病を防ぐという。こんなところから、「松竹梅」が、祝い事に使われはじめたそうである。中国では、往古、これを歳寒三友と称した。ともに風雪や厳冬に耐え、あるいは他のいっさいの植物に先がけて花を開くところから、君子や貴族の、高い節操や高潔な姿勢に譬えたという。
 ともあれ、王朝の昔にあっては、宮中などの上層階級に芽生えた風習、風俗であろうとも、そのほとんどは、久遠の歴史の流れのなかに、自然に庶民文化として定着してきたのである。近代にいたっては、完全なる庶民の文化的伝統となり、人間味を謳歌する存在とさえなったということは、まことに面白い流れだ。
 それにつけても、現今の公害戦争のなかで、枯れていく松や竹の話を聞くにつけ、残念であり、寂しさをいだかずにはおられない。
 わが国では、この「松竹梅」に象徴されるごとく、四季の折り目正しい変化にともなう、豊富でかつ微妙な風習や風俗が多々ある。それは、日本の「美」独特の「わび」「さび」にも反映し、奥床しい大衆文化を誕生させゆく土壌となり、「風流」などと総称される文化伝統を形成してきた。
 それは、箏曲にも、地唄にもテーマとして取り入れられ、不滅の名曲も生んでいる。さらに、絵画や蒔絵、彫刻、あるいは盆栽、生け花などにも、綾なして盛られ、慶事の意義もふくめて、絢爛たる美の世界を誇ってきたのである。
 古都――あるいは自然の滅びゆく姿を見聞するたびに、私は為政者がせめて「松竹梅」をもって譬えられる高潔な態度、毅然たる節操をもっているならば、幾分たりとも防げたはずであると痛感せずにいられない。
 庶民は平和の生活のなかに「風流」を友としたい。「風流」を解する心とは、庶民の平和の生活を解することであり、それは言うまでもなく政治の偉大な座標の一つである。
 日本の文化的伝統から――換言すれば、文化の立場から政治を厳しく監視していきたいものである。

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