Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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生命軽視――「母性愛は本能だ」と手放し…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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1  最近、母親が愛児を殺すという悲しい事件が連続している。
 「飲んだ水を吐き出した」という、なんでもない理由で、三つになる幼女をせっかんして殺したとか、寝小便したことから、夫の連れ子をせっかんして殺したとか、「欲しくてできた子ではないから」と言って子供を餓死させる母親が出るにいたっては、人の親ともいえない残忍な話であり、もはや言うべき言葉もない。
 もちろん、一つ一つの事件の詳細を調べれば、殺すつもりはなかったかもしれないし、そのとき、発作的な行為が、無防備な幼児を死にいたらしめたという弁明もあろう。だから、一概に現代の母親たちに母性愛がなくなったというのは早計である。
 本来、母親の子供に対する愛情は、本能的なものである。この母性愛こそ、無償の愛の代表的なものであり、至純な愛として、何ものにもまさる愛とされている。しかし、結果的にみて、それが、一見、なんの理由もなく、いとも簡単に打ち砕かれてしまっているところに問題があるようだ。
 従来、こうした悲劇は、社会体制の矛盾としてとらえられてきた。救いがたい貧困のなかに“子殺し”の悲惨の因がある。凶作に見舞われて、一家が食べるものがないとか、貧困ゆえの“間引き”などが行われた場合が多かった。
 しかし、最近の一連の事件は、どうやらまったく異質の問題のように思えてならない。それは、人間のエゴイズムが、母性愛を乗り越えた事件として、発生しているのではないかという恐れである。つまり、体制うんぬんではなくて、人間性そのものの喪失から起こる問題につながり、人間の価値観そのものが、倒錯していることである。
 “わが子”といえども、決して親の所有物ではないし、親に生殺与奪の権限を付与されているものでもない。母親が子供の生命を奪うことは、みずからが人間としての存在を否定することである。
 人間は、本能だけを頼りに生きるものではない。それならば、母性愛もいつまでも本能的な愛だからと手放しでいるわけにはいくまい。
 しょせん、それをリードしていく人間の知性が必要である。問題は、生命に対する感覚のマヒであり、生命軽視の風潮こそ、一掃されなければならぬ課題だといえよう。(昭和四十五年十一月十五日「大阪新聞」掲載)

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