Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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目――ごまかしを見抜く“正視眼”を養い…  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  十月十日を「目の愛護デー」としたのは、“一〇月一〇日”を目と眉の形になぞらえて決めたという話を聞いた。始まりは昭和六年とのことだが、この気ぜわしい現代にあって、なんともユーモラスな発想であり、楽しい話である。
 目ほど不思議なものはない。言葉の通じない動物でさえ、目では、ものを言っている。まして、人間の目は「心の窓」ともいわれ、心の中を語ってくれる。口先では、時に心にもないことを言っても、目だけはごまかせないものである。
 純粋な少年少女の目は、心の清らかさをそのままにあらわし、澄んで美しいものである。犯罪者の目は、どことなく濁って、落ち着きがない。
 人に会うことが仕事のような私にとって、しかもその多くが初対面の人たちの場合、相手を知る一つの手掛かりは、この目である。なによりも正直に心の中を語ってくれているからである。
 「目の愛護デー」も、なにも衛生学上のことに限ることはあるまい。目とともに、その奥底にある心を大切にし、つねに清浄であるように心掛けたいものだ。
 ある哲人は「人生は近視眼的でも、遠視眼的であってもいけない。正視眼でなければならない」と言った。とかく、現実にとらわれすぎたり、理想論ばかり述べている人に対する戒告であろう。だが、この正視眼をもつのはなかなか至難なことである。よほど主体性を確立しないと、すぐに振りまわされてしまうものである。
 手品師は、人の心理と習性の盲点をついた手練を巧みに駆使する。左手に観客の目を集中させておいて、右手で細工をする類である。手品のごまかしは愛敬があるが、政治家が国民に対して、この手を使うのは許せない。だが、国民はよくこの手でちょいちょいごまかされてしまう。
 国民の欲求不満が昂じてくると、外交的危機をつくって、国民の目をそらそうとする。物価問題なども、一時しのぎの話をさんざん聞かされているうちに、しだいに高騰をつづけていく。国民はもっとごまかされない目を養わなければならない。
 「知性は、方法や道具に対しては、鋭い鑑識眼をもっているが、目的や価値については盲目だ」とは、アインシュタインの言葉だが、物事を判断する心の目を養うには、たんなる知性以上の何かが必要なのではあるまいか。

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