Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが父を語る  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

前後
1  父は子年生まれであったので、子之吉といった。私は父四十一歳の前厄生まれである。父は、厄年の厄を、私に背負わせるに、しのびなかったのであろう。私が病弱にならないという父の悲願から、そのころの迷信的な風習を、まず実行した。──一度、私を捨て子として捨てる。それを示しあわせた知人が拾って、家に届けるという手筈である。
 ところが、父は私を捨てたが、その場所に捨て子の私がいない。ぜんぜん何も知らぬ他人が、知人より早く私を拾って交番に届けてしまったからだ。さあ、騒ぎは大きくなった。本当の捨て子になってしまった。父は、恐るおそる警察に届ける。交番に私の居場所がわかって、私は無事、家に戻ったものの、父は警察から大目玉を食らったらしい。すでに父にとって、私は出生から厄介な子供であった。迷信的風習の実行にもかかわらず、幼時から私は病弱であったようだ。
 父は家長というのにふさわしい人であった。六尺ゆたかな偉丈夫で、大森海岸で海苔の製造業に従事し、かなりの人を使いこなし、かなり手広くやっていた。それが関東大震災で、海岸の隆起から、海岸一帯の海苔の生産高は激減してしまった。自然、家運も傾きはじめたのである。
 父は生来、寡黙な人であった。家業の不振と病身とから、この傾向はますます強くなり、ほとんど無口に近い人になった。──兄四人、弟二人、妹一人という育ちざかりの八人の子を抱えた一家である。そのほか、二人の子を育てなければならなかった。父の強い責任感は、ままならぬ日々の生活を、どんなに人知れず喞っていたか、その心衷は今にして想像できることだが、そのころの腕白兄弟にわかるはずもない。 ただ寡黙で、何を考えているのかわからぬ父に対し、断絶した子供たちは、いたずらに父を批判した。──進学のことも考えてくれない。進級しても洋服ひとつ考えてくれない。非難はすべて父に集中した。
 しかし、内外の非難を一身に浴びて、父は動じなかった。いつも平静で、正しいと思うことは頑固なまでにやりとおした。世間から「強情さま」と仇名をつけられもした。それだけに強情我慢な責任感は強かった。人がよくて、人の面倒や世話を精いっぱいやっていた。当時の苦しいたいへんな家計を、今推察してみると、じつによくやったものだと、子の私は頭の下がる思いがする。堅い気質で、まったく信頼すべき父であったと、今にして思うと、大きい家父としての偉大さを沁々思いやることができる。
 やっと、兄たちが一人前に育って、いよいよ家業の手伝いもできようというとき、例の戦争の時代となり、四人の兄は次々と出征しなければならなかった。それに企業整備で、海苔の生産はまったく停止状態となった。年少の私が、がらんとした一家の生活を考えはじめたのもそのころである。
 戦雲はなおもつづいた。少年には予科練の道があった。当時の華やかな多くの少年のように、私も時代に遅れてはすまぬという気持ちで、航空兵を志願しようとしたとき、それを知った父は、いきなり激怒した。それは珍しいことであった。すでに四人の男の子を戦線に送り、家業の沈滞と、一家を支えなければならない軍国の父は──それにつづく五人目の男の子の私の志願を強く拒絶した。
 「一軒の家で、一人兵隊に行けばたくさんではないか。家は三人も四人も行っている。お前まで行く必要がどこにある」
 私も「強情さま」の子であった。強情に抗弁しながら、初志を貫きたかった。父はそれを絶対に許さなかった。もはや寡黙の父ではなかった。
 「受けたければ受けるがいい。その身体で、耐えられると思うのか。そのかわり私が試験官に会い、お前を落とすよう頼むから……」
 「強情さま」に子は負けた。父はこのとき、私の病弱な身体を心から案じていたにちがいない。それよりも、四人の男の子を奪った戦争の残酷さに、思わず腹を立てたのであろう。
 長兄はビルマ(編注・現ミャンマー)で戦死した。戦後、三人の兄は、中国大陸から帰還したが、父はますます寡黙の人となった。私はまもなく日蓮正宗に入信し、信仰の意見対立が、父との間に起きた。私は侘しいアパートに一人移った。私の結婚問題が起こったとき、恩師が父に話してくれた。父は恩師を心から信頼したのだろう。快諾し、以後、一言も口をはさむことはなかった。
 晩年、喘息をわずらい、医師は煙草を禁止したが、父は最後まで喫煙をやめなかった。三十一年十二月十日夜、家の者たちはテレビを見ていて、父の静かな死を気づかなかった。私は一時間遅れて父に対面したが、静かに眠っているようであった。孝養する暇もなかったが、父は私の父である。仏法でいう父子一体の成仏を、私は今信じている。(昭和四十五年六月「月刊時事」掲載)

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