Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アポロ11号の壮挙に想う  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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3  私の恩師が、「地球民族主義」という自己の立場を発言したのは、今から十七年前の昭和二十七年のことであった。そのころは、原水爆製造の激しい競争が始まったばかりの時代で、人工衛星などはまだ影も形もなかった時代である。この主張は──国家からの脱出宣言であったわけである。人類は二度までも世界的規模における殺戮つまり二度の大戦を経験していた。そして、だれもが心の底で漠然と思っていたことは──いったい、国家という存在は、人間が人間性を剥奪されてまで、奉仕するに値するものであろうか、という疑問である。また、いわゆる赤紙一枚で、母から男の子を奪い、子供から父親を奪い、妻から夫を奪うだけの権利が、どうして国家にあるのか、という激怒にも似た不満であった。そして、戦後に入って、価値転換が徐々に始まりかけたのである。
 現代の戦争に関していえば、国家はその元凶であったわけである。まして、広島、長崎の被爆経験をもつ、唯一の国民である。私たちは、戦争という大量殺戮がはたして正義か、戦死がはたして個人にとって名誉に値するものなのか、価値転換の材料には事欠かぬだけのものを充分にもっている。しかし、国家というものが、国民の日常生活の秩序をたもっている以上、国家に代わるべきものを模索せざるをえないのである。代わるべきものの出現は、国家観の完全な価値転換を成し遂げるはずである。
 国家に忠誠であることと、人間的に生きたいという正直な情感との相克が、多くの疑問と矛盾と憤懣とを生んでいる以上、それは国家の原理と人間の原理との背反とみることもできる。これまでのところ、国家の原理が、人間の原理を従属させてきたわけだ。では、なにゆえにこのような従属形態を長い間、必然としてきたか、人類歴史の謎の一つである。
 なるほど、人間は戸籍において、いずれかの国家に属していよう。生まれて戸籍に属すると、たちまち国家の至上命令に制約されるとは奇怪なことではないか。人間は政治的に、国家の一員であるかもしれぬ。しかし、それよりまず、人間の二つの足は、地球の上に立っているのである。これが、人間が人間らしくあるための第一条件であることを、人は忘れて議論してはならない。
 アポロ11号の飛行士は、月面に立っても、地球人として初めて立つのであって、月人ではあるまい。月世界に行っても、地球人の自覚は濃くなりこそすれ、薄くなるはずはないだろう。私たちは国家の一員であるよりも、地球に立つ人間、つまり地球民族の一員であることの自覚が、大きく未来の世紀を拓き、行方も知らぬ科学の発達を見守りつつ、それを制御しつつ、これまでと違った、まったく新しい平和社会を築くにいたるであろうと確信するのである。
 それにしても、アポロ11号の打ち上げを見るにつけ、想像を絶するエレクトロニクスの発達はまことに驚異である。将来、エレクトロニクスの威力が、どの分野のどこまで発揮されることになるものか、今は見当もつかないことになってしまった。一方、人間の幸、不幸の問題などは、現状は未開発にも等しいありさまである。人間にとっていちばん大事な問題が、いちばん遅れてしまったというのは、どうしたことであろう。月へ宇宙船を着陸させるよりも、むずかしい問題だからであろうか。
 そこで、私は夢想するのだが、人間の幸、不幸の問題、わけても地球上のもろもろの不幸を絶滅する工夫に、このエレクトロニクスの威力を、なんとか利用できないものだろうか。それは私一人の夢想ではないだろう。
 私は地球民族の一員として、アジアの一隅に生息する一人の人間として、アポロ11号の成功と無事とを心から祈るものである。しかし、人類の懸案とする難問題は、まだまだ山積したままである。
 アポロ11号の発射を見守る人間の新しい共通感情から、これら山積した難問題の処理を通して、新しい理念の展開がもたらされることを、私は切に願っている。
 今、地球上の数十億の人間のうちで、飢餓と貧困に、文明の格差に、限定戦争に、また宿命的な苦しみに沈んでいる人間は、いったいどのくらいの数に達するか、思い半ばにすぎるのである。
 願わくは、地球の重さにも等しい苦悩をなめている民衆が、新しい理念の展開とともに、その苦渋から脱出してほしい、と私は思うのである。

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