Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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アポロ11号の壮挙に想う  

「わたしの随想集」「私の人生随想」「きのう きょう」(池田大作全集第19…

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2  このような人類の、新しい共通感情の視点から、地球上をおおっているいくつもの暗雲を眺めてみるとすると、ずいぶんと奇怪な姿に驚くはずである。まず、抜きがたいナショナリズムという暗雲は、なかなか分厚い層をなしているようだ。地球上の百三十余の国家は、このナショナリズムに毒されているとみてよいであろう。性懲りもなく、大量殺人のための準備は、おさおさ怠りない。大国とは、この作業の専門国家の謂である。「国家のために」ということが、相も変わらず民衆に対する至上命令となっている。
 もともと国家は、自然に発生したものではない。きわめて人工的につくりあげられたのにもかかわらず、まるで太古以来、永遠不滅のものとさえ思い込んでいる。国家は、徴兵権もあれば、殺人を命令する権力もある。その権力が強ければ強いほど、強大な信頼すべき国家という評価である。
 こんなわけで、国家が人間の価値の終局のよりどころの観さえ呈しているのが実情らしい。心理的ばかりでなく、倫理的な至上の存在を、国家に求めている。地球上に住む現代の人間の不幸は、すべてとはいわないまでも、大いなる部分が、このような国家観にあるといってよい。それを体裁よく政治の貧困だの、人間の闘争本能などの仕業に帰するのは、たいへんな迷妄だ、と私は思うのだ。
 早い話が「戦争は人類進歩の母である」とかいう言葉が、かつて戦争肯定に使い古されたが、これは今日では抜きがたい迷信と化しつつあることは、だれでも感じているだろう。戦争∥悪を、せめて進歩の母と思い込みたかったのであろうが、今日の核兵器の発達とその破壊力を思うとき、もはや戦争は人類破滅の「母」であることは、だれの眼にも明らかになってきた。
 アポロ11号の発射の数日前、ソ連のルナ15号が一足先に発射された。現在、宇宙船はこの米ソ二大強国だけの仕事となっているが、この二大国こそ、核兵器の生産においても抜群である。核兵器の生産は、イデオロギーを超えた国家的要請として、どちらも懸命である。その二大国が、膨大な費用と国力を賭して、宇宙に挑んでいるということは、まことに面白い現象である。
 しかし、ここで注意しなくてはならないのは、核兵器の生産は、人類の名においてではなく、国家の名においての至上命令によるきらいがある。これに反して、宇宙船の打ち上げの競り合いは、国家の名誉をかけているとはいっても、人類の科学的進歩の成果を誇示するといった面が非常に強いことだ。核兵器は非文化的であるが、宇宙船は、はなはだ科学的先端を示して、文化的であり、人類的な性格をもっている。
 二十世紀半ばを過ぎ、宇宙時代が今到来して、宇宙船の打ち上げ競争が盛んになることは、人類の進歩のためにも、戦争を防止するためにも、たいへんいいことだ、と私は思っている。地球を滅亡させるに足る核兵器の所有者たる米ソ二大強国が、互いに宇宙船のために鎬をけずり、膨大な国家的費用と人員を動員し、トコトンまで競り合いながら、ヘトヘトになるまで国力を消耗させるのが、はなはだ人類のためだと思う。それほどまでに国力が消耗したら、まず破滅的な戦争の危険は、この地球上から去ったとみてよいからだ。
 このためにも、これから二十一世紀へかけて、宇宙時代を謳歌するのはたいへんよいことだ。人間の力ではどうにもならなかったこれまでの国際関係は、危機を避けることができよう。そうしているうちに、現在、民衆を毒しているナショナリズムによる国家観は、見事に転換して、地球民族観というべきものと取って代わるだろう。
3  私の恩師が、「地球民族主義」という自己の立場を発言したのは、今から十七年前の昭和二十七年のことであった。そのころは、原水爆製造の激しい競争が始まったばかりの時代で、人工衛星などはまだ影も形もなかった時代である。この主張は──国家からの脱出宣言であったわけである。人類は二度までも世界的規模における殺戮つまり二度の大戦を経験していた。そして、だれもが心の底で漠然と思っていたことは──いったい、国家という存在は、人間が人間性を剥奪されてまで、奉仕するに値するものであろうか、という疑問である。また、いわゆる赤紙一枚で、母から男の子を奪い、子供から父親を奪い、妻から夫を奪うだけの権利が、どうして国家にあるのか、という激怒にも似た不満であった。そして、戦後に入って、価値転換が徐々に始まりかけたのである。
 現代の戦争に関していえば、国家はその元凶であったわけである。まして、広島、長崎の被爆経験をもつ、唯一の国民である。私たちは、戦争という大量殺戮がはたして正義か、戦死がはたして個人にとって名誉に値するものなのか、価値転換の材料には事欠かぬだけのものを充分にもっている。しかし、国家というものが、国民の日常生活の秩序をたもっている以上、国家に代わるべきものを模索せざるをえないのである。代わるべきものの出現は、国家観の完全な価値転換を成し遂げるはずである。
 国家に忠誠であることと、人間的に生きたいという正直な情感との相克が、多くの疑問と矛盾と憤懣とを生んでいる以上、それは国家の原理と人間の原理との背反とみることもできる。これまでのところ、国家の原理が、人間の原理を従属させてきたわけだ。では、なにゆえにこのような従属形態を長い間、必然としてきたか、人類歴史の謎の一つである。
 なるほど、人間は戸籍において、いずれかの国家に属していよう。生まれて戸籍に属すると、たちまち国家の至上命令に制約されるとは奇怪なことではないか。人間は政治的に、国家の一員であるかもしれぬ。しかし、それよりまず、人間の二つの足は、地球の上に立っているのである。これが、人間が人間らしくあるための第一条件であることを、人は忘れて議論してはならない。
 アポロ11号の飛行士は、月面に立っても、地球人として初めて立つのであって、月人ではあるまい。月世界に行っても、地球人の自覚は濃くなりこそすれ、薄くなるはずはないだろう。私たちは国家の一員であるよりも、地球に立つ人間、つまり地球民族の一員であることの自覚が、大きく未来の世紀を拓き、行方も知らぬ科学の発達を見守りつつ、それを制御しつつ、これまでと違った、まったく新しい平和社会を築くにいたるであろうと確信するのである。
 それにしても、アポロ11号の打ち上げを見るにつけ、想像を絶するエレクトロニクスの発達はまことに驚異である。将来、エレクトロニクスの威力が、どの分野のどこまで発揮されることになるものか、今は見当もつかないことになってしまった。一方、人間の幸、不幸の問題などは、現状は未開発にも等しいありさまである。人間にとっていちばん大事な問題が、いちばん遅れてしまったというのは、どうしたことであろう。月へ宇宙船を着陸させるよりも、むずかしい問題だからであろうか。
 そこで、私は夢想するのだが、人間の幸、不幸の問題、わけても地球上のもろもろの不幸を絶滅する工夫に、このエレクトロニクスの威力を、なんとか利用できないものだろうか。それは私一人の夢想ではないだろう。
 私は地球民族の一員として、アジアの一隅に生息する一人の人間として、アポロ11号の成功と無事とを心から祈るものである。しかし、人類の懸案とする難問題は、まだまだ山積したままである。
 アポロ11号の発射を見守る人間の新しい共通感情から、これら山積した難問題の処理を通して、新しい理念の展開がもたらされることを、私は切に願っている。
 今、地球上の数十億の人間のうちで、飢餓と貧困に、文明の格差に、限定戦争に、また宿命的な苦しみに沈んでいる人間は、いったいどのくらいの数に達するか、思い半ばにすぎるのである。
 願わくは、地球の重さにも等しい苦悩をなめている民衆が、新しい理念の展開とともに、その苦渋から脱出してほしい、と私は思うのである。

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